かならず幸せになれるいきもの

おしゃべりによる出現する未来から学ぶ

「5万歳の休眠微生物」と「好きなものをなんでも買えるとしたら何がほしい?」の話

全く想像もしたことのない言葉が合わさると驚く「ハピペン」です。

やっぱり想像を越えた創造は面白いですね。

 

今日のヤフーニュースにもビックリする記事がありました。

headlines.yahoo.co.jp

 

「5万歳って!?」って思いますね。

5万歳の生き物っているんだー、と関心。

 

想像を越えた現実があるのだなー、と。

 

普段生活していて、「まあ、微生物が休眠していれば5万歳なんだ」なんて思ったことがないから衝撃。

そういう思ったことのないことに出会うのは、なんだかわくわくするし、楽しい気持ちになります。

 

そして、思い出したそういえば……。

 

この前、子どもがお店屋さんごっこか何かをしたかったらしく、それに巻き込まれた。

「なんでもほしいものを言ってくださーい」と言い、電卓をはじく。

そして、なんであれセットで買うと値引きということがしたかったらしい。

はじめは、

「本ください」とか

「野菜ください」とか言っていたのだけど、

「もっと高いの言って」と言われ、

最終的には、イルカの飼育セットを買わされた私(どこに置けばいいんだろう……)。

 

その後、少し時間が経ってから、子ども同士でもやっていて、その子は家を2件ぐらい買ってた。

 

ああ、そういう発想がなかったなー現実に家買おうってのがなくて思いつかなかったなー、と。

 

現実的に虚しい気持ちになりそうなことはセーブしてイメージできない私。

 

そのあとに言っていた子どもの一言が、やっぱり子どもの創造はすごいって話なんだけど。

 

家を買ったあとに

「本当は、ジャングルもほしかったんだけどねー」と言っていた。

 

「えっ、ジャングルって買うとかってあるんだ!?」と私の心の声。

 

そのジャングルのほしさも計り知れないが、ジャングルを買う発想力が良い(まあただの世間知らずでもあるか……)。

 

「ほしいもの」って聞かれたら、「ほしいもの」を答えればいんだよ!

本当に!

考えてしまう自分のセンス・オブ・ワンダーのなさを思い出した「ハピペン」の夜。

<フル・インクルーシブ>についてもう少し(その3)終

つづきです。
(その1)「インクルーシブ教育システムの構築は『フルインクルーシブ』に向かっているプロセスだろう」ということ。(前々回)

inclusive.hatenablog.jp

 

(その2)フルインクルーシブには「『場』と『学びの内容』の視点が必要」ということ。です。(前回)
inclusive.hatenablog.jp

 

(その3)教師が「子ども同士を結びつけること」の重要性(今回)

です。

 

「フルインクルーシブ」のために必要なことは何か?

「知ること」

第一に重要なのは、「知ること」だと思っています。

そうして「知った」あとに、ある子どもの「できること・できないこと」を把握できて、「一緒に・みんなで」を実現できるのかの判断が生まれると考えているからです。

「知らない」ことには、「一緒に・みんなで」は存在しなくなってしまいます。

「知らない」ってことは、結局「存在しない」に近づいていく。

ある子どもを「存在」させるには「知る」しかない。

あなたの知らないところにいろいろな人生がある
あなたの人生がかけがえないように
あなたの知らない人生もまたかけがえがない
人を愛するということは知らない人生を
知るということだ
(灰谷健次郎)

「みんな観」

第二に重要なのは「みんな観」だと思っています。

「知り」→「存在」した後、どんな価値観で行動するかです。

できれば「公」であれば、「みんな」を大切にする価値観で行動を選択できるようになるといいな、と思うのです。

多数決」という「公」ではなく、「みんな」という「公」です。
もちろん取り組みの中で、「多数決」を必要とするときもあります。

それでも、「一人でも違う考えの子どもがいれば、みんなでよりよい納得解を考える」のです。その前提に立っているかが重要だと思います。

たとえば、言い換えると、「自分の思い通りにならなくても人生は楽しい」という価値観もあるのだ、ということを子どもたちには知ってほしいなと思うのです。

私がこのブログでも何度か言っている言葉で言えば「変数を楽しむ」ということ。

 そこにいる「みんな」がいるからこそ、出てくる自分が与える解ではなくて、みんなで創り出す解を楽しめたらいい。

「わがまま」と「いじわる」をなくす

少し話が飛躍するかもしれませんが、子どもたちは自分の思いや考えや感情が認められることに安心を抱きがちですが、実は「少しの我慢」で「『わがまま』と『いじわる』」をなくすことが、一番の安心につながるのではないか、最近は考えています。

そして、その「少しの我慢」の先に、「我慢を開放する発散はある」と思うのです。

ドッジボールじゃなくて、ドロケイが良かったとか。
でも結局、ドッジボールでもめちゃ楽しそうにしているじゃんっていう。

「自己同一性」

我慢や認め合うことから自分の存在に気づいて、自己保存や人生の連続性に気づけるようになってほしい。
これは、今できなくても次があるという「未来への信頼」につながる。

私は、そういう気持ちを育てたい。「失敗しても大丈夫」も同様。それでも「あなたも君も私も僕もいていい」ってイメージ。

「観」が変われば「指導言」が変わる

上記のようなことを考えると、「フルインクルーシブ」は、なるべくの時間でいいから実現した方がいいんじゃない?と少し思えないだろうか。

その際、前にも言っているけど、見方を変えて指導言を変えていけるといいのではないか、と思う。

《自分系云々》

  1. 「自分のことは自分でしなさい!」
  2. 「自分がされて嫌なことは相手にもしない!」
  3. 「自分ができていないのに相手に注意しない!」

の時代は、終わって、「みんなでみんなをよりよくしよう」「みんなでみんなをよりよくするには?」を問えばいいのだと思う。

そうすれば、

《みんな系云々》

  1. 「自分のことは自分でしなさい!」
    ⇒「自分のことでもできないときは手伝ってもらう。自分でできるようになってほしいときは応援する」へ
  2. 「自分がされて嫌なことは相手にもしない!」
    ⇒「相手がされて嫌なこともしない」へ
  3. 「自分ができていないのに相手に注意しない!」
    ⇒「お互いできるように教え合おう」へ

「相互の関係を強くする」ことにつながると思うのです。

この<価値観>をもてるかどうか。

(全体的に結局、「自分系云々」は、指導の大変さや面倒くささ、便利に進めるための言葉な気がする。教室の雰囲気を悪くしないとか、うるささとか。けれど、その子がそうしてしまう方にコミットして、話し合った方がいい。「それが先生は気になるんだけど、みんなはどう思う?」と)

(また、「指導言」の変化は「観」の変化で、時代の<価値観>が移ったことによる。未来永劫この方がいいというのはない。自分系云々が必要な時代もあったのだろう。)

 

「障害のある子どもたちが、障害のない人たちと友だちになることができるように支援すること」

 この記事にあった言葉に注目してみる。

(フルインクルを支持する)「あの人たちは、教師の第一の職務は、
障害のある子どもたちが、障害のない人たちと友だちになることができるように支援することであると信じている。」

<()内は引用者>

「インクル」と「フルインクル」(その1) | ワニなつノート

私は、この視点が必要だろうと思う。その時代や世代を担っていくのは彼らであって、周りにいる大人ではない。

このブログの記事には、もう二つ大切な視点が書かれている。

一つは

①さらに、教師は次のことをしなければならない。
普通に発達している子どもたちを支援して、
障害についての固定的な概念を修正させる

②障害のある子どもたちを支援して、
子どもたちが知り合いや、職場の同僚や、
家族のメンバーや、友人などとの幅広いネットワークの中で、
より効果的に交流できるように、社会的スキルを開発する

そして、そして
③特別なニーズをもつ子どもたちを
通常学級に措置することは、
フルタイムでなければならない!!!

<太字は引用者>

①と②は、即実践で行われてほしい考えです。(③はまだ現実的かは迷う。やっぱりシステムができていないと思う)

ここで求められている「大切な価値」は「社会で自分らしく生きられること」なのだと思う。

そのためには、社会に参加しなければならない。そうしなければ、社会の中での自分を認知することはできないからだ。

 

二つは、

友だち作りや態度の変化や、社会的スキルの発達は、通常学級の中でしか起こり得ない。

理由はかんたんである。

これらの目標を達成するためには、年齢相応の障害のない子どもたちが存在しなければならないからである。

<太字は引用者>

「インクル」と「フルインクル」(その7) | ワニなつノート

 実際的な、人とかかわるスキルを身に付けるためには、フルインクルーシブをして、少しでも実社会的な経験を多く積むことが大切だと思う。

(その反面、通常級という社会が嫌になってしまった場合、「社会参画」する意欲を育むことに失敗する恐れがある)

 

子どもには、同年代の理解者が必要である。一応、大人も一緒の時代にいるけれど、かかわりは、遠のいていくはずである。

だとしたら、地域の子どもの誰もを生かしていくために必要なことは、子ども同士をつなげることだろう。

そのためには、誰もをそこのメンバーとして認識するために、「存在」を「知る」必要がある。

「知ることができず存在していないもの」になってしまえば関りようがない。

 

そして、ここからがつまらなくなるのだけど、そのためには、双方(障害のある子どもにも障害のない子どものどちらにも)にメリットがないといけない(ということになっている。現段階の社会の価値観では、そう感じる。それは便利な子どもを育てたいからだし、学力が(も?)大切で、より多くの子が食えるかが重要だからってイメージ)。

 

コミュニケーションの構造

私のイメージでは、「高さ」と「奥行」が浮かぶ。

通常級の子どもだけでコミュニケーションをしているとき、それは、実際の社会とは違う

コミュニケーションの量は蓄積されて高さは積み上がっていくけれど、質が高くはなく奥行がに薄っぺらなコミュニケーションなのではないかと思う。

コミュニケーションが得意でない障害者とかかわる場合、それはそれでその場面でしか体験できないコミュニケーションがある。

コミュニケ―ションの対象をジャンル分けみたいにしたくはないのだけど、たとえば、「自分とは違う」とより感じる人とコミュニケーションしてみることは、自分の成長につながると思う。そして単純に楽しい。

前にも書いた「異質を認めることによる生きやすさ」についての話。

 

あと、別に仲良くなれ、親友になれってわけじゃない。でも、誰が誰といても楽しさを感じられるような人になれればいいのに、と思う。

誰だって知りさえすれば、付き合える。知ろうと思えるかを相性で片付けるかどうか。知ってこの先もいつも一緒にいられるかが相性で、別に学校でくらい一緒にいられることを知ってほしい。

 

障害者が「いる」のが前提になっているか

上で実際の社会とは違うって表現をしたけど、現実は、もとい実社会は「障害者がいる」というのが事実であり前提のはずである。

それを「存在しない」ものにしてしまっては、それは、本当ではない部分がある環境になってしまうと思う。嘘ではないけれど、本当ではないというイメージ。

 

「えっ、うちの職場に障害者いないけど?」

「町でもたくさん見かけるわけでもないし」

もし、そこに違和感を感じられるなら、あなたはあなたの共生社会のストーリをはじめることができる。

 

でも、まあ、まず大人の邪魔をなくそうか

すぐに出来そうなことで一つ大切にしたいのは、とりあえず大人が「よく知る」必要があるということだ。子どもはその後でもいいかもしれない。

 

上でも取り上げた

「あの人たちは、教師の第一の職務は、障害のある子どもたちが、障害のない人たちと友だちになることができるように支援することであると信じている。」

この言葉に対して付け加えている記事がある。

一つ付け加えるとすれば、
教師がこの職務を果たせない場合でも、
子どもたちはお互いに友だちになることができます。

むしろ、その邪魔をしてきたのが、学校であり、教師であり、過去の「教師の第一の職務」だったのです。

《教師の第一の職務は、「教師が教えたいこと」を「教えてあげること」》だと信じているのでしょう。

でも、教師がよけいな教育や指導をしない方が、子どもたちは友だちになることができます。

上の言葉を、正しく書き変えましょう。

「フルインクル主義者は、教師の第一の職務は、障害のある子どもたちが、障害のない人たちと友だちになることができるように《よけいな支援》をしないことであると信じている。」

「インクル」と「フルインクル」(その8) | ワニなつノート

(下線は「ハピペン」)

この「よけいな教育や指導」が、たとえば「自分系云々」だと思います。人と人を分断する教育。

自己都合だけではなく、「『みんな』を『誰も』を大切にする教育」を目指したいところです。

たとえば「『よけいな教育や指導』はなんだろうか?」と問うことが大切かもしれません。

それには「メタ認知」を強化して内省・省察することが大切になってきますが、「何んために?」を問えば、「していることの意味」に気づけるかもしれません。

教師もそれを問う。その理由が「自己都合」でなく、真に「社会に出ていく上で必要な力」であれば、「よけいな教育や指導」ではないのでしょう。

 

たとえば、「自分のことは自分でしなさい!」は、「手伝い合うことで全体の生産性を下げないため」

「社会に出るまでに自分でできなかったら困るため」

「他力本願の子どもに育っては困るため」

「雰囲気がごちゃごちゃしないようにするため」

なんかがあるかもしれない(ちょー適当だけど)。

↓これを目的に合わせて一掃してしまえばいいのに、と思う。

・生産性なら、目標タイムでも決めて協力させてしまおう。

・自分で出来るようになってほしいのであれば、それを子どもと合意しよう。手伝いは応援に変わるはずである。

・他力本願になってしまいそうかも話し合いで合意しよう。

・ごちゃごちゃが嫌だからと伝えて工夫を促そう。

ってな感じに。

 

便利に簡単にやろうとする時代は終わったと思ってもいいだろう。

回り道が子どもの力になり、定着や一般化につながるんじゃないかな。

 

この論文に示されている「可能性」をふまえて子どもを見つめることで、これからの社会に必要な子ども同士のつながりを考えることができるかもしれない。

 ちょっと長いけど

4.2.2 交流教育の中で
インタビューを行ったI小学校特別支援学級の先生は「教育の場は分けても、意識を分けないことが大切。そうなるために、交流教育で私たち教師は子ども同士の橋渡しをする。」とおっしゃっていた。

確かに、大切なのは「場」にこだわることではなく「意識」の問題だということは納得できる。単に「場」だけ一緒にすればいいということではない。

しかし、常に分けられた「場」において、意識だけ分けないなんてことが可能だろうか。
私はその小学校で、実際に交流学級を何度も体験したことがある。例えば、遠足の際、
私は特別支援学級の 1 人の生徒Mさんに「介助員」としてついていき、私とMさんは普通学級の遠足班に入った。I 小学校の普通学級の生徒たちはほとんどの子がとても優しく、特別支援の生徒を温かく受け入れてくれる。Mさんの班でも、そこの班長の女子生徒が率先してMさんの面倒を見てくれていた。しかし、だんだん班長の仕事が増えてくると、どうしても班長だけではMさんに対応しきれなくなってくるのだが、不思議なことに他の班員がだれもMさんにアプローチをしないのである。結局、最終的には私が終始Mさんと行動を共にすることになってしまった。

恐らく、最初に積極的にMさんを受け入れてくれた班長は、「班長」として「今日特別に来たお客さん」をもてなすという役目を果たさなければと、どこかで負担に思っていたのではないかと思う。
他の班員に関しても決してMさんを嫌っているとか無関心な訳ではなく、むしろ話しかけたりと交流を持ってくれるしかしMさんの行動が遅れてしまったり何か問題が起こると、「班長」か「介助員」として来ている私が何とかするだろうと離れてしまうのだ。

確かに、健常児と障害児の教育の場を分けている現在の教育現場において、普通級の子どもたちにしてみれば、障害児とは行事の際だけに来る「お客さん」以外の何者でもない。

しかもそのお客さんが遊びに来る時は常に「介助員」という、面倒なことを全て引き受けてくれる人付きであり、大変な時はその介助員にお客さんを任せてしまえばいいと感じさせてしまう。

「義務教育における特別支援教育とインクルーシブ教育の意義将来がひろがる教育とはなにか :吉川英里」http://www.f.waseda.jp/k_okabe/semi-theses/10eri_yoshikawa.pdfより

(下線は「ハピペン」)

 「大変な時はその介助員にお客さんを任せてしまえばいいと感じさせてしまう」というのは、実際あるなあと思います。

「大人から大人へのなんとかしろ目線」や「自分自身が仕事している感を出したい」、「子ども同士の軋轢を生まないように心配しすぎる」っていうことがあると、やたらに介入しやすい。

それが「よけいな教育や指導」ってやつなのだと思う。

 

けれど、これを避けるためには、「大人同士」の「インクルーシブ観」がある程度理解し合えている必要がある。

そうやって「誰でも一人ひとりを大切に、学校として職員みんなで育てていきましょう」という風土が相当強くないと、子どもに委ねて手に汗を握りながら信じて待つ・見守るってことはできない。

だって、遅かったり、ミスすれば咎めるもんね。その気持ちの持っていく先は、支援級の子を責めるしかなくなる。そんな言われ方をされれば、教師からも同級生(あえて友だちと書かない)からも、支援級の子が傷けられるしかなくなる。

必殺「子どもの権利条約」で「先生、その言い方って誰かを傷つけていることに気づけないんですか?」ぐらい子どもが言い返してくれるといいんだけど(それを素直に聞く大人がいるかは、知らないが)。

でも現代人は、「承認欲求」優先で、自分が傷つかない安全パイを切るような行動を取るように感じるので、言い返すより自分の下に位置すると考える対象を責める方にいくだろうな……。

 

そっちにいかないためにも、一周回って、子ども同士の「つながり」だとか「結びつき」ってのが大切になるって答えに行きつく。これが「<フル・インクルーシブ>についてもう少し」の着地点。

 

教師の役割として、子ども同士を結び付けること。特に支援級の子と通常級の子のつながりをどうすれば強めることができるのか、が今後考えていきたい視点だ。

まあ、単純に知ればいいだけだと思う。

あとは「暴力・暴言、授業妨害」さえクリアできれば、場を共有することは、フラットにできると思う。

(あと最低限の「清潔」も重要な視点である。仲良くなりきれば気にならないが、集団がある子どもを異質という色眼鏡で見ている場合、入口に立つために「清潔」は必要。それでも「人間一人ひとりの存在そのものを肯定」する風土があれば、「清潔」すら「みんなで支えよう」ってなるけどね)

 

<フル・インクルーシブ>についてもう少し(その2.5)

野口晃菜さんのインクルーシブ観とか言って、何も示していなかったことに気づいた「ハピペン」です。

 

野口晃菜さんの記事のリンクをまとめてみました。

 

 どちらがよりインクルーシブか

【連載①】本当に「インクルーシブ」な教育とは?(インクルーシブ教育研究者 野口晃菜さん)-教員採用試験対策/教師・教職の募集情報|教員ステーション

 

自分と相手を知ることが社会生活の出発点に

社会を変える“インクルーシブ教育” | こどもの可能性を拡げる情報 | WorMo'(ワーモ)

 

もしも、今の社会に眼鏡やコンタクトがなかったら?

「一人ひとりに合わせた教育」先生が特別支援教育で活かすべき大切な事 LITALICO執行役員野口晃菜さん(前編) | うさぎノート通信

 

「変えられる」子どもを育てるのは先生の考え方

「変えられる」教育で大切なのは関わる大人が幸せであること 株式会社LITALICO野口晃菜さん 後編 | うさぎノート通信

 

45分間おとなしくすわっているのが正しいってホント?

【第1回 インクルーシブ教育の本質に迫る!】45分間おとなしくすわっているのが正しいってホント?-教員採用試験対策/教師・教職の募集情報|教員ステーション

 

<フル・インクルーシブ>についてもう少し(その2)

  <フル・インクルーシブ>について。続きです。

inclusive.hatenablog.jp

inclusive.hatenablog.jp

 

言いたいことは大まかに三つで、

  1. 「インクルーシブ教育システムの構築は『フルインクルーシブ』に向かっているプロセスだろう」ということ。(前回)
  2. フルインクルーシブには「『場』と『学びの内容』の視点が必要」ということ。です。(今回)
  3. 教師は「子ども同士を結びつけること」が重要性(次回)

といったことです。 

 

2.フルインクル―シブには「『場』と『学びの内容』の視点が必要」ということ

<フルインクルーシブ>を目指しているからと言って、どの子も通常級に入れてしまっては、ダンピングになりかねません。

その状況から、学びが生まれる可能性はなくはないでしょうが、学校教育に求められる意図的・計画的な教育活動とは言えないでしょう。

 

フルインクルーシブの良さとして、どんな子も一緒になって学ぶことによって、社会性が育まれると考えられています。

私もこの考えに賛成です。

共生社会の実現に向けて、多様性を認める感覚や考え方、力は育まなければならないものだと思います。

 

しかし、<社会性>が育つからといって、誰でも彼でも同じ場にしておけばいいとはなりませんよね。

 

その<同じ場>で、<学ぶ内容>があるはずです。その<学びにアクセス>しなくていいのか?というのが、<フルインクルーシブ>の対極に出てくるものです。

 

「<場>と<内容>のバランス」が重要になっていきます。

<場>とは?<内容>とは?というそもそもの問いも必要でしょう。

 

こんな記事を見つけました。

 

「障害のない者」に対する視点

イタリアのインクルーシブ教育について書かれたものです。

平成27年10月14日 大阪府立寝屋川支援学校の学校便り

イタリア方式フル・インクルージョンの課題 ・すべての人が完全に納得しているわけではない
・法や理念が現場で十分生かされていないケース
・巨額の財政負担 ・受け皿となるハードの不足(学級増への対応)
・大幅に増員が必要となる教員の数・質の確保
・医療や福祉面で学校を支える枠組みづくり (学校が教育に専念できる環境)

イタリアでは、障がいのある子どもが通常の学校でともに学んでいます(フル・インクルージョン)。この体制を実現するために、少人数の学級編成に加え、支援教員の配置等きめ細かな 支援体制がとられているとともに、地域保健機構(ASL)との役割分担等、法律の整備を通じて学校 が教育に専念できる仕組みや環境が整えられています。

一方で現地関係者には、フル・インクルージョンはクラス全体の授業の進度に影響があるという否定的意見もある

大阪府が進むべき方向性 ・障がいの有無にかかわらず子どもたちが自然に交流するなど、イタリアの教育環境に学ぶべき点は多いが、仮に「イタリア方式」を導入した場合、 現状に比べて極めて巨額の財政負担が必要となるうえ、支援教育としての実効性、保護者のニーズ への対応や満足度という点で課題があることが視察を通じてわかった。

http://www.osaka-c.ed.jp/neyagawa-y/pdf/h27/kochodayori-kyosyokuin13.pdf

(下線は「ハピペン」)

イタリアでは「フルインクルーシブ」で学校教育が行われているようですが、共に学ぶことでクラス全体の授業の進度に影響することが懸念されています。

 

「障害のある者」への視点

あるブログの記事を紹介します。

ameblo.jp

読んでいただくと一番いいのですが、2010年のアメリカでのインクルーシブ教育について書かれている記事です。

簡単に説明すると、

本の学校では、国・算・社・理などで、通常級における交流学習をすることは少ない、という文脈で、アメリカでは、「accommodation(適合援助)」(今でいう合理的配慮)によって、様々な教科で交流をしているという話です。

しかし、日本では「同じ条件で同じものをやるのが平等」という考えが強く、難しいかもしれない。アメリカでは、他の生徒とは異なる教材、配布資料をもって交流していると書かれています。

そして、あるとき友人が、「違ったことをやっているのに同じ教室にいる意義はあるのだろうか」と教授に質問したそうです。いわゆる「お客さん状態」だと。

ディスカッションの結果。

「それでも何か学べる」ということ。

学習面ではなく、社会性を育てているということ。

といった意見が出たそうです。

そして「周りにいる子にもメリットはある」と書いています。

最後は、

フルインクルージョン(完全に普通教育の中に組み入れること)は効果的でないと思います。アメリカの法律の中でも、フルインクルージョンは謳ってません。
けれど、インクルージョンの意義は確かにあると思います。全ての子供たちに。

 以上のような懸念は、「特別支援教育の在り方に関する特別委員会」でも議論されていました。

(大久保委員)インクルーシブ教育といっても、私は、同じクラス、通常の学級で常に一緒に学ばなければならないとは思ってないです。知的障害の分野から見れば、お子さん御本人にとって、それが苦痛であったり大変であったりということは当然あるわけですし、

特別支援教育の在り方に関する委員会(第一回)より

(下線は「ハピペン」)

 

ここまでをまとめると、

<場>か<学びの内容>か

言い換えると

<社会性>か<学力>か

ということが言えるように思います。

 

野口晃菜さんのアメリカのインクルーシブ教育視察から

引き続き検索結果を見ているとこんなツイートを見つけました。

上でも出ていた考えです。

 

この視察の報告から、モヤモヤがスッキリする考えの落ち着くところを見つけられました。

 

あくまで一教授の考えということですが、個人的にはバランスのとれた視点なように思います。

 

この「inclusion視察」のまとめがこちらです。

togetter.com

 

この中から、いくつかのツイートを抜粋します。

メリーランド大学の教授との話

メリーランドに着いてから買い物して明日聞きたいことをまとめた。明日一番聞きたいこと:インクルージョンとスタンダード・ベース改革(学力向上政策)は両立するのか?

 

特別教育は1975年以降、通常教育とは別枠で発展。「個々に応じた無償で適切な公教育」がよしとされてきたが、何をもって「個々に応じた」なのか、何を持って「適切」なのかについての議論はされてこなかった。

 

別枠で発展してきたものの、通常教育改革であるスタンダード・ベース改革が始まった際に、障害のある子も含んだ多様なニーズある子ども達がその改革に含まれないのはおかしい、とのことで教育改革の1つとして、障害のある子どもへもスタンダードの適用が必要であるとされた

 

そこで生まれた新しい概念が「通常教育カリキュラムへのアクセス」である。それまでは教育内容は「個々のニーズに応じた内容」が適切とされ、特に決まりはなく、目標・内容・方法・評価全てが「個々のニーズに応じた」IEPで決められていた。

 

つまり「通常教育カリキュラムへのアクセス」以前の従来の特別教育は「なんでも屋さん」だった。全て先生の裁量に任されていた。基準となるものが何もなかった

 

通常教育カリキュラムへのアクセスが義務付けられてからは、ベースは「個々」ではなく「通常教育カリキュラム」にあると明示され、そのカリキュラムに配慮を加える(アコモデーション)・変更する(モディフィケーション)ことにより、「個々」のニーズに応じるとされた。

 

でも私は通常教育カリキュラムを超モディフィケーションした場合(日本でいうところの自立活動を主にしている児童生徒の場合)それは通常教育カリキュラムへのアクセスって言えるの?って疑問を持っていたので、それを聞いてみた

 

そしたら、目から鱗な答えをいただいた。教科の「本質」を学ぶ機会を提供し、それを達成できていたら、それはカリキュラムアクセスだと。だから通常教育も特別教育もこれからは教科の「本質」について話さなければならない、と。

 

スタンダード・ベース改革の流れからの「通常教育カリキュラム」は教科ベースの教育を知的障害のある子どもにも行うこととしていて、私は「結局水増し教育になるのでは?」とかおもっていたのだけれど、「教科」ってのは、「教科の本質」ってことだった

 

そして、もう一つ大事な質問をした。インクルージョン(最少制約環境)とカリキュラムアクセス(スタンダードベースな教育)は両立するの?」

 

そしたら、「まずは子どもにとってのカリキュラムアクセスの方法は何が良いかを考える」そのあとにそのアクセス方法ができる「場」を選ぶと。

 

つまり「場」のインクルージョンの議論はやっぱりもう収束していて、子どもに通常教育カリキュラムへのアクセスをどのようにして提供するか、をまずは考える、とのこと。「インクルージョンは場の議論だけじゃない

 

先ほどの教科の本質の話に戻ると、現在アメリカではほとんどの州が「コモンコアスタンダード」なるものを導入している。何かというと、全国統一スタンダード。各教科の教育内容・到達目標が書かれている。これ⇒http://t.co/Bf0uKLs1

 

要は学習指導要領みたいなものが、導入されているってこと。違うことは到達目標まで明示されていて、それも試験まで統一されたものが導入されつつあるらしい。このコモンコアが教科の本質をついていると面白い

 

ここらへんがPISA型学力とかともまた通じてくる。要は、「学力」って言った時に、PISA型学力は「教科の本質」を問うているものだと私は解釈している。教科の本質をコアとすることにより、障害のある子どもない子どもも同じカリキュラムで学べるのでは?

 

そして、それは「多様性に耐えうるインクルーシブなカリキュラム」として評価できるのではないか?

 

ちなみに、「教科の本質」を重要視するのであれば、生活スキルはどうするの?と聞いてみたところ、「それは本来家で教えるもの」と言い切っていた。「学校は生活スキルを教える場所ではない。もちろん家庭をサポートはするけれど」と。

 

それに生活スキルは時代によって本当に変わる。小学校の時黒電話で電話の仕方を学んだ子が、高校になったらそれがまったく無駄になって、iPhoneになっていたりする。それは時間のロスだ」って。これも新しく得られた視点。

 

「教科の本質」を学ぶことがどうやって将来につながるの?って聞いてみたところ、それは「哲学的な問題よ」、と言われた。通常教育と特別教育両者が教科の本質は何かきちんと話して、その上で高い期待値を全てのお子さんに持つこと。そしてそれが価値のある活動と信じること。

 

だって私たちはこの子たちにとって一番良い教育がなにか、推定することしかできないじゃない」と言い切っていた。

 

個の課題と社会の課題が異なるように、個への「適切」な教育と社会としての「適切」な教育は異なるよね

そこも混同しているケースが多い気がする。「個々のニーズに応じた」は個への「適切」な教育であって、「スタンダードベース改革」は社会への「適切」な教育。

 

「適切」と鍵かっこ付きにしたのは、個に対して何が「適切」かは個によってもちろん異なるし、社会にとって何が「適切」かは社会によってもちろん異なるからなんです。なので国としての方向性を決める時に、「今はこれを適切としよう」って議論が大事だと思います。 

 

知的障害教育学者・藤島岳先生が「教育って哲学だよね」って言っていた。今日の先生も「哲学と科学と両方」って言っていた。ほんとうにそう。何が正しいか、わからないもの。生活スキルを教えたらいい、とか、教科を教えたらいい、とかわからないもん。

 

だから「信じること」が大切。「教科の本質」が将来にどうつながるの?って聞いた時に、「分からない。でも本質を教えることが将来につながること、それに価値があることを信じること」が少なくとも必要って言っていた

 

 □Bethesda小学校の視察から

視察した場の方たち、全員が「私たちにとってのインクルージョンは…」とそれぞれにとってのインクルージョンの形を話していた。つまり、そういうことなんだ。

 

話がそれたが、Betheda小学校でインクルージョン」と言った時に、それはお子さんによって異なるものであるが、どんな障害種・程度であっても最大限の場とカリキュラムへのアクセスが行われている

 

「特別教育は本来存在する必要なんてないのよ。子どもはみんな同じなんだから。ニーズだってみんな同じ。学び方が違うだけよ。教育に関わるものは全員そういう強い信念を持っていなければだめなのよ。」

 

48年もかかわっている人の強い、強いお言葉。「日本では何が課題なの?」と聞かれて、「『障害』のある人達にとって、何が『適切』な教育か模索しているの」と言ったら、「何が『適切』だと思う?適切なのは"life"よ。幸せで自由な生活と人生よ

 

「障害の勉強をする人は全員歴史を知らなきゃだめよ」歴史的な史資料(当時のコアカリキュラムとか!)も持っていて、全部コピーして送ってくれるって。

 □NPO学校 Cooke Academy Schoolの視察から 

このNPOの学校にとってのインクルージョン「誰もに居場所があること」を模索し続けること、通常の高校と同じ経験ができるようにすることで、地域でも自分の高校に誇りを持って話せること。

 

インクルージョンに「正しい」「間違っている」はないこと。それぞれの立場にいる人が「全ての子どもにとって『適切』な教育って何かしら」と考え、信念を持って行動すること。教授だろうが先生だろうが関係ない。そこに意味がある。

 

珠玉の言葉だらけですね。

・何をもって適切か

・教科の本質へのアクセス

・生活スキルは時代によって変わる

・私たちはこの子たちにとって一番良い教育がなにか、推定することしかできないじゃない

・それに価値があると信じること

・私たちにとってのインクルージョン

・学び方が違うだけ

・適切なのは"life"よ。幸せで自由な生活と人生よ

・「誰もに居場所があること」を模索し続けること

インクルージョンに「正しい」「間違っている」はない

・それぞれの立場にいる人が「全ての子どもにとって『適切』な教育って何かしら」と考え、信念を持って行動すること

 

勇気をもらえる言葉たちです。

2013年の視察についてなので、現在の実態と変わるところもあるかもしれません。しかし、ここに概ね考え方を整理するための言葉が溢れているように思います。

 

私は「<場>か<学びの内容>か」→「<社会性>か<学力>か」という風に捉えられると言いました。

日本では、「<場>と<社会性>」も優先順位が高いですし、「<学びの内容>と<学力>も」当然に求められます。

 

ここで大事になる観点が<合理的配慮>です。

<合理的配慮>についての

<「合理的配慮」の観点○1 教育内容・方法>

<○1-1 教育内容>

○1-1-2 学習内容の変更・調整(別表2)

 認知の特性、身体の動き等に応じて、具体の学習活動の内容や量評価の方法等を工夫する。障害の状態、発達の段階、年齢等を考慮しつつ、卒業後の生活や進路を見据えた学習内容を考慮するとともに、学習過程において人間関係を広げること自己選択・自己判断の機会を増やすこと等に留意する。

教育内容に関する合理的配慮の中で、学習内容の変更・調整がある。

この中から、要素を取り出すとすれば、「学習の内容や量」、「人間関係を広げること」、「自己選択・判断の機会」という3つの要素がある。

この3つについてその子の実態、卒業後の進路によって、それぞれをどうするか保護者とも話し合い合意を形成する必要がある。

私が思うのは、この3つが今の通常級の実態とも合わせてどの程度望めるかをきちんと話し合う重要性だ。当然、特別支援学級では、どれがどの程度得られそうかも話し合いの中で示す。

 (3)学校における「合理的配慮」の観点

○各学校の設置者及び学校が体制面、財政面をも勘案し、「均衡を失した」又は「過度の」負担について、個別に判断することとなる。その際は、「合理的配慮」を決定する際において、現在必要とされている「合理的配慮」は何か、何を優先して提供するかなどについて関係者間で共通理解を図る必要がある。

○「合理的配慮」は、一人一人の障害の状態や教育的ニーズ等に応じて決定されるものであり、すべてが同じように決定されるものではない。設置者及び学校が決定するに当たっては、本人及び保護者と、個別の教育支援計画を作成する中で、「合理的配慮」の観点を踏まえ、「合理的配慮」について可能な限り合意形成を図った上で決定し、提供されることが望ましい。例えば、設置者及び学校が、学校における保護者の待機を安易に求めるなど、保護者に過度の対応を求めることは適切ではない。

共生社会の形成に向けたインクルーシブ教育システム構築のための特別支援教育の推進(報告):文部科学省

「 <社会性>も<学力>も」一つの場で同時的に育まれる環境が提供されることが一番望ましいが、日本のシステムや価値観(通常級で育つよさ)の普及具合では、まだそう簡単ではないように思う。

そのため「 情報提供→合意形成」が図っていくしかない。としか言いようがない。

 

以上から、フルインクルーシブには「『場』と『学びの内容』の視点が必要」だと考えられる。これらの視点について合意形成をして、学び環境を整備することが子どもにとっての利益が一番高いと考えられる。

 

ところで、平成24年の障害者白書には、「<共生社会>という言葉を知っているか」の世論調査の結果が書かれている。

その結果は、

(1) 「共生社会」の周知度
共生社会」の周知度については、平成24年7月に内閣府が実施した「障害者に関する世論調査」(以下「24年7月調査」という。)の結果によれば、「共生社会」については、「知っている」が40.9%と前回(平成19年2月:40.2%)に比べ微増したものの同程度にとどまった。20歳代では、34.8%となっているが、前回(平成19年2月:26.7%)を大きく上回った。

20歳代で前回を大きく上回ったものの、「障害者基本計画(平成15年度~平成24年度)」の「重点施策実施5か年計画」に定めた「共生社会』の周知度を成人世代全体、若者(20歳代)とも50%以上」には至らなかった。

しかし、「言葉だけは聞いたことがある」24.2%を含めてではあるが、65.1%と7割近くの人が「知っている」と回答しており、19年2月に実施した同名の「障害者に関する世論調査」による同旨の質問に対する回答が61.4%であったことと比較すれば、用語の周知度も上昇している。

年代別でみると、30代及び70代の周知度が低く、これらの世代への啓発広報が重要と思われる。20代が前回に比べ増加しているのは、学校教育において「共生社会」という言葉に触れることが増えたことが考えられる。

第1編 第3章 2.主な調査結果の概要|平成25年版 障害者白書(全体版) - 内閣府より

(下線は「ハピペン」)

 引き続き、「共生社会」や「インクルーシブ」に関する価値観や考えが広まり深まっていくといいなと思います。

<フル・インクルーシブ>についてもう少し(その1)

 

inclusive.hatenablog.jp

 

この記事から半年ちょっとかな、書こうとしたことを書いていなかったために、再エントリー、インクルーシブについて書きたいことはいろいろある。

 

とりあえずの「Google」での検索結果

"フルインクルーシブ"、"フル・インクルーシブ"は、「73件」
"フルインクルージョン"、"フル・インクルージョン"「414件」

フルインクルーシブ、フルインクルージョンについて書かれたサイトに書かれていることをまとめてみます。

私の記事では、特に分けて表現せず「フルインクルーシブ」で統一します。

(フルインクルージョンとの意味の違いは意識していません)

 

ちなみに、私は、ほとんど、LITALICOの野口晃菜さんの言う「インクルーシブ観」が、どの学校にも必要で、バランス感覚も取れたものだと感じています(+αはそこにいる子どもの実態に合わせてあるとしても)。

 

言いたいことは大まかに三つで、

  1. 「インクルーシブ教育システムの構築は『フルインクルーシブ』に向かっているプロセスだろう」ということ。(今回)
  2. フルインクルーシブには「『場』と『学びの内容』の視点が必要」ということ。です。(次回)
  3. 教師は「子ども同士を結びつけること」が重要性(次々回)

といったことです。 

1.「インクルーシブ教育システムの構築は『フルインクルーシブ』に向かっているプロセスだろう」ということについて

まず、文科省の指す「インクルーシブ教育」は何を目指しているか確認をします。

文科省は「障害のある者とない者が共に学ぶ仕組み」と定義している

文科省のサイトでは、

「『インクルーシブ教育システム』とは、人間の多様性の尊重等の強化、障害者が精神的及び身体的な能力等を可能な最大限まで発達させ、自由な社会に効果的に参加することを可能とするとの目的の下、障害のある者とない者が共に学ぶ仕組み

 と示されています。

 

文科省は、「障害者だけ」に関して、インクルーシブ教育を定義しています。

ユネスコの定義するインクルーシブ教育とは少し異なります。)

 

<プロセス>と言える理由

<プロセス>と言える理由として以下が挙げられます。

○今後の進め方については、施策を短期(「障害者の権利に関する条約」批准まで)と中長期(同条約批准後の10年間程度)に整理した上で、段階的に実施していく必要がある。短期的には、就学相談・就学先決定の在り方に係る制度改革の実施、教職員の研修等の充実、当面必要な環境整備の実施を図るとともに、「合理的配慮」の充実のための取組が必要であり、それらに必要な財源を確保して順次実施していく。また、中長期的には、短期の施策の進捗状況を踏まえ、追加的な環境整備や教職員の専門性向上のための方策を検討していく必要がある。最終的には、条約の理念が目指す共生社会の形成に向けてインクルーシブ教育システムを構築していくことを目指す。

 

インクルーシブ教育は、共生社会の実現を目指している。

そのために「インクルーシブ教育システムの構築」がされればよいか、というと違います。

「インクルーシブ教育システム」として、「多様な学びの場」が用意されました。

しかし、その仕組みができさえすればインクルーシブ教育のゴールってわけではないのです。

 

次に

<フルインクルーシブ>と言える理由

条約の理念とは、「第二十四条 教育」の項にある。

(e) 学問的及び社会的な発達を最大にする環境において、完全な包容という目標に合致する効果的で個別化された支援措置がとられること。

などです。

ここに、「完全な包容という目標に合致する効果的で個別化された支援措置がとられること」とあります。

この「完全な包容」は「フルインクルーシブ」を指していると思われます。

 

特別支援教育に関する特別委員会>の委員である大谷委員も委員会でこんな風に言っています。

特々委の審議を報告した第 25 回障がい者制度改革推進会議(2010 年 11 月 15 日)において大谷委員は次のように 批判した。

「インクルーシブ教育システムにおいて重要なことは、多様な学びの場を用意しておくことである、というこの 結論は、私はどうしても論理的整合性を含めて、どうしてそうなってしまうのか全く納得できません。

従来から、 インクルーシブ教育システムというのは、学びの場を統一して統合し、そして支援することである。

統合して 支援する、多様な支援はあっても、多様な学びの、なんで『場』になってしまうのか、全く理解できません。」 ここで重要なことは、インクルーシブ教育には共通の定義が存在せず、極めてあいまいなものであるが、国連の 権利条約 24 条インクルーシブ教育には明白な定義があるということである。

権利条約 24 条 2(e)には、「フル・インクルージョンという目標に即してのみ、効果的で個別化された支援措置 が取られること」とある。特別支援学校や特別支援学級の個別支援措置は、フル・インクルージョンを目標として初めて行いうるということである。

権利条約 24 条教育に言うインクルーシブ教育は分離教育を認める余地を残して いない。特別支援学校・学級の存在は、どう言い繕おうとも権利条約のインクルーシブ教育と特別支援教育との整 合性は無いことの証明にしかならない。

 

フルインクルーシブとは、どの子どもも全ての子どもが通常学級で学ぶという理念だと言えます。

 

<どの子どもも全ての子どもが>と言える理由

ユネスコは「全ての子どもたちの学びが最大に引き出される教育システムを構築するプロセス」と定義

インクルーシブ教育は、主流からはずされやすい、排除されやすい子どもたちを含む全ての子どもたちの多様なニーズに対応することで、全ての子どもたちの学びが最大に引き出される教育システムを構築するプロセスである。

と示しています。

ここでは「全ての子ども」と「プロセス」ということも出てきます。

 

ユネスコのインクルーシブ教育観が「全ての子ども」を指す理由

これは、「サラマンカ声明」を受けてのものだと考えられます。

教育を受けることへのすべての子どもの権利は、「世界人権宣言(Universal Declaration of Human Rights)」に宣言されているし、またそれは、「万人のための教育に関する世界宣言(World Declaration on Education for All)」によって力強く再確認された。
 障害をもつすべての人は、確かめうるかぎり、彼らの教育に関する願望を表明する権利をもっている。両親は、彼らの子どもたちのニーズ、状況、熱望に最適の教育形態について相談を受ける固有の権利をもっている。
 この「枠組み」を広く知らせるさいの指針となる原則は、学校というところは、子どもたちの身体的・知的・社会的・情緒的・言語的もしくは他の状態と関係なく、すべての子どもたち」を対象とすべきであるということである。これは当然ながら、障害児や英才児、ストリート・チルドレンや労働している子どもたち、人里離れた地域の子どもたちや遊牧民の子どもたち、言語的・民族的・文化的マイノリティーの子どもたち、他の恵まれていないもしくは辺境で生活している子どもたちも含まれることになる。
(中略)
 特別な教育的ニーズをもつ児童・青年は、大多数の子どもたちのためになされる教育計画の中に含められるべきである。このことが、インクルーシブ校の概念へと導くことになる。
 インクルーシブ校が遭遇する挑戦は、まったく恵まれていない子どもたちや障害をもつ子どもたちを含む、すべての子どもたちを首尾よく教育することができる児童中心の教育学を開発することである。

すべての子どもたち」は、

  • 障害児
  • 英才児
  • ストリート・チルドレン
  • 労働している子ども
  • 人里離れた地域の子ども
  • 遊牧民の子ども
  • 言語的・民族的・文化的マイノリティーの子ども
  • 他の恵まれていないもしくは辺境で生活している子ども

を含むということが示されています。 

 

ちょっとまとめ

ここで、一気に表にまとめてしまいます。

 

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黄色が、限定的なもの

青色が、広汎的なもの

緑色が、双方を含むもの

 

ユネスコは、「多様な学びの場」か「完全な包容」かというよりは、「学びへのアクセスが可能な場」を重要視していると捉えました。

 

文科省は、あくまで「障害児」についてインクルーシブ教育を適用しているように思います。

 

◎そうすると問題になるのが、発達障害の可能性がある児童への<合理的配慮>だとか<インクルーシブ教育>ということになります。どう支援していいのか、その根拠が学習指導要領しかないかもしれない(通知もあるかな)と思いました。

 

結論として、やっぱり「インクルーシブ教育システムの構築は『フルインクルーシブ』に向かっているプロセスだろう」ということが言えると思います。

 

注意したいのは、文科省のインクルーシブ教育システムの構築は、まだまだ途中段階ということです。

そして、「フルインクルーシブ・完全な包容」が、国際レベルでは求められているということです。

私たちは、今その途中にいるのだということを認識しておきたいな、と思うのです。

 

 以下はつづき

inclusive.hatenablog.jp

 

運命はある。そこにいる意味はある。ただ、そこにいる意味に気づけるかが問題。

「そうは言っても」ってのは、いっぱいあると思うよ。でも、誰かがバカになって理想や理念は言わないと。って思っている「ハピペン」です。

 

なんでもないエントリー。誰かを励ますためだけのエントリー(になるかもしれないエントリー)。

 

言いたいことを言っておこう。

 

帰り道で保護者の方に会う。

そんな「予定してなかったこと。予期していなかったこと。」

 

そういうことって山ほどあるよな、って。

 

例えば行事に、仕事で行けないって保護者も世の中にはいくらでもいるだろう。

でも、それって行きたかった前提で、それでも行けなかったってこと。

 

そうしたときに、なんとか、いくらかみんなで補い合おうっていう温かみはあってもいいなじゃないか、って思った。

 

そのためには、「つながり」が前提になるけれど。

 

予定しなかったこと。予期しなかったことが起こって、何かがうまくいかなかったなら、残った人でなんとかしようとすればいいだろうって思う。

 

「思いやり」とも言うかもしれない。

この「思いやり」には、「見通し」「具体」「視覚」といった「支援」も含めよう。
(もはや、法律なわけだけど。)

 

ただ、そのとある<合理的配慮>の合理さの幅っていうのは、思いやりが思いつくところも少なくないと思うんだ。

 

そして、その予定しないこと。予期しないことを乗り越えて子どもは育つ。予定調和を越えた成長を手に入れる。

それが、プロの教師かって言われると知らないとしかいいようがないのだけど。

 

けれど、今日確かに成長を感じた(感じたで仕事になっちゃ困るってのは重々承知で)。

 

それで、帰り。

予定しないこと。予期しないことが起こって思ったのは、

 

運命はある。捨てたもんじゃない。ってことを忘れちゃいけない。

そこにいる意味はある。ただ、その意味を見いだせるかが問題。

 

自分を使って、自分は何をすればいいの?

何を感じればいいの?と。

僕たちに必要なのはそのモデルじゃない。

私たちに必要なのはそのモデルじゃない。

今、僕たちに必要なモデルが、必要なんだ。

 

運命は踏み台。

その運ばれている中での気づきを踏み台にして。

自分に気づいて。

自分を生きていく。

運命を使って自分になっていく。

 

今、自分に必要なものはなんなのか。

今、自分がすべきことはなんなのか。

と問うて。

「みんなでやっている感」と「実利」

とりあえず勢いに任せて昨日のうちに記事を書いた「ハピペン」です。日々目まぐるしく思考が移っていくので、続きものを書くのが苦手ですが、今年度中に、このブログの続きものは完結しようと考えています(中には1年越しのモノもあってだらしなさに嫌気がさす……)

 

昨日の続きで、国大附属等々の研究ネタから「みんなでやっている感」の話。

inclusive.hatenablog.jp

 

「研究のテーマ」が「抽象」だったり、とりあえずの「踏襲」だったりすると、「社会」が求めるものとのズレって生まれないだろうか。
「それじゃない感」があったらどうしよう?だから「児童の実態」を加味するのが大事だよね、ってのが前回の話。

 

それでも、結局「自己満足」的な研究に終わってしまって、「これまでにないもの」ではなく、どこか「抽象的な姿」から脱することができず、先生たち各々はなんとなく参加したのだけれど……要は「成果が分かりにくい!」ってなったときに、それでも残る「みんなでやった感」。

これの価値について考えるだけ考えてみようか、というのが今回の話。

 

求められる「私たち感」

これは、国大附属特別支援学校の休憩中のポスター発表の中で見つけたものなのですが、「共生社会を目指したインクルーシブ教育」についてのポスター発表の中に

キーワード
「対象から主体へ」
私たちの形成
「支援の共同構成」 

といったことが書かれていました。

 

私たちの形成」にピンときました。

これもうろ覚えなのですが、「私たち」という感覚は、今の日本が失ってしまったものだというのを、「『社会を変えるには』小熊英二」で見たなあと思いました。

 

「私たちの形成」とは、どういうことか、質問をしてみると、それは「誰かがやってみようといったことや意見などを積極的に採用し、そこに所属する人が意見を出したくなるようにしていく」というような話をしていました。

 

確かに、自分の意見を取り入れてくれた組織には、積極的にかかわろうとする気持ちが沸いてくるような気がします。

その所属感が、よりよくしていこうという意欲につながり、組織が活性していくということでしょう。

 

これは<貢献感>だとか<共同体感覚>につながる話だなあと思ってわくわくしながら聞いていました。

 

<共生社会>を目指すことや<インクルーシブ教育>については、スーパーこれからのことであり、また、正解のないプロセスでもあります。

そのため、そこにかかわる「みんな」が考えて、積極的に誰もが意見を出せるようにし、また、正解がないのだからこそ、出された意見が積極的に採用され試され、それこそ「トライ&エラー」がなされていくことが重要なのだと考えました。

 

この「みんなでやってる感」が組織の活性には必要なのではないか、というのが話したかったことです。

 

「みんなでやってる感」が失う「実利」

「みんなでやってる感」がもたらすものは、「全体の高揚感」である。

しかし、これは、やっぱり危険なところもある。これまで散々見てきた、「土井隆義」の本には、その危うさが示されていた。

「内輪ウケ」の雰囲気が優先されることは、その外側にいる人たちに不利益をもたらすこともある。

だからこそ、せっかく新聞で報道されているほどなんだから、たとえば「主体的で対話的で深い学び」風味なテーマの方がいいなじゃないか?なんて思ってしまうわけだ。

 

ただ、「みんなでやっている感」によって士気を高めていくことも大切である。

みんながこっちでいこうと言っている中で、強靭的に方向性を変えるのは、空気を読めないフリをした管理職の一撃が必要なレベルだと思う。

それを、一職員がわーわー言ったところで、一部に風評被害が出てもおかしくない。

 

はっきり言ってここが、学校現場の難しくてややこしいところだ。

みんなそれぞれの<価値観>で動いているし、実利が見えにくいために経験則という年功序列で客観的な議論がしにくいところがある。

やっぱり「社会が求めるものとの整合性」は重要だと思う。

「これまでにない」とか「これからの社会に照らし合わせた」って視点を疎かにしてはいけない。

この「実利益」のようなものが、「みんなでやっている感」を優先することで失われるものだ。

ただ、それによって、先生たちの士気があり、結局子どもたちを育てられる可能性はあるし、まあ出すべき意見は出すとして、そうした研究をしていく中で、所属する人たちが日々成長していくのが必要な気もするので、「何が悪い」って感覚や否定や非難は抱いていない(つもりである)。

当然、もし、特に、子どもに対する損失があり得るなら、全力で意見しなければならないのは言うまでもない。

 

<研究>についてのまとめ

ここまできて、私は、改めて<研究>についてなんとなく知ったのである。

・何を明らかにするのか

・それは今までにないのか

・それを社会の誰かさんは求めているのか

と言った、めちゃ当たり前のことを脳細胞がリンクして、理解を深めた今日この頃って話。

 

そうして、結論としては、結局「バランス」ということになる。

「みんな感」か「実利」か。
その辺りを俯瞰して見つめ、とにかく、議論の際は、多様な意見が出されることが望ましいと思う。

 

私はどちらかというと<現実主義>だったり<功利主義>だったりするところがあるので、なんとなく「みんなでやってる感」から外れる意見を言ってしまうこともあるなあ、と。

そう振り返るとちょっと落ち込むのだけど「まあ、でもバランスバランス!バランスだよなあ」ってことで、自分を励ますエントリーみたいになってしまったところで、この項終。

 

社会を変えるには (講談社現代新書)

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<研究>について

最近はどうしても睡眠を優先してしまう「ハピペン」です。ブログを書く元気を捻出できません(あーどうしよ)。
ただ、思っていることは日々あるので、日にちを遡りながら少しずつ更新していけたらと思っています。そんな中<研究>について思ったことを。

 

先日、国大附属特別支援学校の研究発表に行った。これまでも何度か、研究発表を見ているわけだけど、今更になって視界が開けたというか、<研究>の感覚が落ちた。

 

「抽象的なテーマの具体的な姿をイメージしている」

一番「おぉ」と思ったところです。これによって、<研究>をとことんやっている感じを私は受けました。

 

<人間関係形成能力>のために

・正しく考えること

・コミュニケーション

・自分を知る(キャリア教育)

を柱に研究をしていました(ちょっとうろ覚え)。

 

そして、このそれぞれに、「正しく考える」とは何か。「コミュニケーション」とは何か。「自分を知る」とは何か。の具体が出されていて、それを育むための環境調整など、育むための要素について、とにかく細かく示されているように感じました。

 

研究をはじめようとしたときに、ここまでは出せる可能性が高いですが、その先の具体まで出すには、より多くの時間が必要になると思います。

研究を行う人数が多ければ、その意見をまとめていくのにも方法が必要だと思いますし、一人ひとりの価値観や熱量も違うため、なかなか具体的な姿が腑に落ちて一丸となって研究を進めていくことは難しいと思うのです。

それでも、それを「みんなで納得して」合わせて進めているように感じました。

誰もが一つの方向を示してというのが本当に大事だし、その大人たちの団結した姿は子どもたちの安心につながると思うのです。

 

全大会で言っていた今回の研究の背景に、目指すところは一致していたとしても、その指導法などは一人ひとりバラバラでやっているところがあった、と話していました。

だからこそ、全員で納得しながら進んで行っているように見えたのだと思います。

バラバラにやって目指していたものを「構造を分析」する必要があると捉えたと言っていました。

 

やっぱり「実態に合わせて」が大事

昨今「深め合い」や「学び合い」、「高め合い」などを研究テーマにしていることが少なくないと思います(指導のユニバーサルデザイン化もちょっと流行っていますかね)。

 

今朝、「次期学習指導要領(案)」が新聞でも報道されるほど、社会の関心は次の教育にシフトしていっていると感じます。

 

そんな中、学校では、年度末反省などで次年度の研究方針なども話し合っているころでしょう。

 

「これまでを引きついで続けていくのか」「新たな視点で研究していくのか」は、様々な視点から意見が出されます。

ここで、研究のテーマって重要だなってものすごく当たり前のことを思いました。

もし、テーマが「抽象に留まって」しまったり、はたまた、「これまでを踏襲して終わって」しまった場合、「そのテーマが目指す子どもの姿」は本当に今社会に求められている姿に相応しいのかが問われにくい、と思ったのです。

このミスリードは結構恐いなと思います。
だって、学校全体で、本当は思ったより「そこじゃない感」のある力を育ててしまうってことになるからです。

もし、テーマが「抽象」になってしまったり、「踏襲」してしまったとしたら、どうすべきか。

私が思ったのは、そのテーマに対して「児童の実態」を加味すれば、まだいいかな、と思います。

 

国大附属の研究は「3年間」をイメージしたものでした。

一年一年、不明だったところを明らかにしていき、目指す姿へ向かっていました。

そんな風に「トライ&エラー」(PDCAサイクル?)をすれば、研究が生きたものになると思います。

「児童の実態」に合っているかを考えることで、「そこじゃない感」が少ない研究ができると思います。

(「そこじゃない感」=自己満足ってことに近いですね。自己満足で終わらない研究を、と。)

 

そして「これまでなかったのもの」を

そして、どうせやるなら「これまでになかったもの」か、という視点を大切にしたいですね。

国語で「読む」「話す・聞く」「書く」などの枠で研究をすることもあると思います。

そのためには、どんな力が必要だと思うかを、職員間で話し合って考えることもあるかと思います。

 

けれど、それって全国的にどっかしらでやってない?って思うところがあります。

「児童の実態」っていう方へすごく寄って、その各々の先生方から出る「方法論」っていうのが大事だっていうのもあるかもしれません。

けれど、それって結局「教師の知識量」によるじゃん、という感じがして、「自己満足化してない?」ってちょっと思うのです。

 

だとしたら、いくつか検索でも本でも網羅的に方法論を出してしまって、実態に合ったものをチョイスする時間でもいいんじゃないかな、って思ったのです。

 

すでにありそうな研究をわざわざ私たち流ってことでやる意味ってあんまりないような……。

 

ただそれぞれが思い思いに考えを出してオリジナルのものをつくっていく過程は「みんなでやってる感」はあります。

「“それ”」がいるってこともあるのかもしれません。

「私たち」の満足感が必要なステージもあるってことです。

あくまで、「自己満足」ではなく「私たちの満足」っていうところについて。

その話は次のエントリーで……。