(過去記事)つづき
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「社会とのズレ」について書いていく。
「入れ替え」と〈システム〉
このブログの記事から着想したところがある。
sosaku.doorblog.jp
この言葉を見てほしい。
「入れ替え不能な我々のために、入れ替え可能な<システム>がある」というより、「入れ替え不能な<システム>のために、入れ替え可能な我々がある」と感じられる社会を生きなければならない
これと「相模原の事件」や「居場所」の話はよく合う。
前者の「入れ替え不能な我々のための入れ替え可能な<システム>」とはいつ頃まであったのだろうか。
勝手に高度経済成長期をイメージするのだけど、要は、誰でも生産者として必要とされ、純粋に頭数で人の重要度が高かったということだろうか。
「その人(我々)」を大切にするために<システム>が必要だったということだ。
後者の「入れ替え不能な<システム>のために、入れ替え可能な我々」というのは、現代を指すだろう。
従前の<システム>を構築するために必要だった我々。それは、単純に工場や高速道路の建設も含むだろう。
しかし、出来上がった今、工場や高速道路を維持するための入れ替え可能な我々を必要とするだけになった。
日本のパイ〈システム〉を増強していた時代から、パイ〈システム〉を維持しようとする時代への転換とも捉えられるかもしれない。
揺らぐ自己
この<システム>のための自己は、揺らぎやすいと個人的に思う。
価値観の多様化によって、一人ひとりが好きなことを思えるようになった。
昔は、選ばれた人しかなれなかったものも、なりたいと思えば目指すことができ、なれるような気になったり、実際になれなくもない状況に行けることが増えた。
名乗ってしまえばアイドルだったり、動画投稿で気軽に演者になれたり。
一人ひとりが、一人ひとりの好きな価値観にアクセスして浸れる時代になった。
しかし、同時に「容易に手に入るものは、容易に失う可能性も高い」。
その消費のインスタント化が、自己の存在不信・不安につながる。
自分が席を空ければすかさず座られてしまって、もう自分はその席には戻れない。
そんな不安が常時つきまとうのが現代社会。
拒んだのは職がないことではなく、思想の否定
ブログでは、「実存」についても書かれていて、
・私たちは「客観的現実」でなく「体験」をベースに生きる他ない
⇒ありとあらゆるものの全体としての<世界>を問題化する場合、科学的方法に裏打ちされた共同主観的認識としての「客観的現実」だけでなく、現に私たちが<世界>をどう「体験」しているのかに実存的に注目することも大切
・私たちが<世界>をどう「体験」するかをめぐる法則性に注目 ユング
といった言葉が書かれている。
こうした思考は、現代の価値観の多様化の中にある自分の主観的な価値観を猛進させる。
<システム>によって、自分の「居場所」が否定されたとき。自分は次の「居場所」、席を探せばいい。
しかし、思想や価値観が否定されたとき、人は、自分の存在を主張するために、他を否定することが選択肢として浮かぶ。
社会の流行りは「共存」とか「共生」とか「対話」とかなのだけれど、それに気づけなかった場合。実存的な辛さで参ってしまっていた場合、誤った考えに導かれてしまうのかもしれない。
価値観の多様化する現代では、ほぼほぼ自分の考えと正反対の考えの人がいる。そして、どの考えにもそれを支持っするコミュニティを探してそこに行けば賛同者がいるだろう。
だからと言ってそれが「中庸を得た考えでもなければ、昨今に必要な考えでもない」という注意も必要で、まして命やお金に手をかけて実力行使で、何かを変えるというのは、反対に失うものが多きすぎる(そもそもお金と命が天秤にのってしまうという風潮もそもそも間違っているだろう)。
(その1)でもあったように、そういう考えでは、いずれ、自分の首を絞めかねない。
一部を「みんな」と言って全体性として扱い、デタラメの「全体性」を味方につけて、攻撃や暴力を正当化してはいけない
ここで、「社会は一人ひとりを包摂できないのか」考えたい。
「社会で生きられないこと=自分の人生のすべて」と思ってしまったら、それは大変に生き辛いことだと思う。
生殺与奪の不安を抱え、自分ではなく、相手こそ間違っていると否定することでしか自分を保てない流れも想像がつく(誰も徹底的に自分を否定することはできないだろう)。
ならば、「社会の包摂化」によって、社会をどんな人間も受け容れられるシステムに変えていく。
メインストリーム・主流のための社会ではなく、「特別や例外を社会化」するようなイメージ(もろ今やっていることだろうけど、事件は、その社会が特別を許容していることを許せなかったということだろう)。
もしくは、「社会の世界化」で考えてみる。世界は人間を否定していないと思う。どこにいても生きてさえいれば次の日が来る。社会で生きられないことは、その人の生命を否定しているわけではなく、世界的な視点ではどの人々の生も許容されているという考え。だから、誰も殺す必要はないよねって、社会の価値で生命を計らない考え(実際そういう考えで進行していると思うんだけど、どのジャンルで社会の価値こそ至高になっているのだろうか。大人?)グローバル化ってことだと思う。(コスモポリタニズムも入る?)
以上のような発想をするとどうなのだろうか?
社会(システム)は回らなくなる可能性がある
「どの人間も生きていていい」を前提として「一人ひとりの入れ替え不可能性」を大切にしたら、入れ替え可能性を担う存在がいなくなるだろうか。一人ひとりが唯一無二になって、代役がいなくなる。
これは、もしかすると、後継がいなくなって、社会のシステムを円滑にしている人がいなくなり社会のシステムが回らなくなるかもしれない。
もちろん、入れ替え不可能性を優先したときに社会が回るかは、変数でしかない。
やってみないとわからない領域。一人ひとりが大切にされ、思うままに生きており、ある事柄に価値を見い出したやりたい人がやりたいことをやるっていう状況の中で、今の社会のシステムを存続したい人がやってくれるだろうってことだ。
現実では、そこに金銭が発生したり、それによって社会が運営される(する)ことで幸福を得られている人がいる〈システム〉があるから、〈システム〉を維持する成り手がある程度確保される。
誰しもが、あなた自身のありのままでいいよってなったときに、どう転ぶかは分からない。
私たちが、いろいろな人の存在を認めた時に、建設的に助け合えるかは分からないわけだ……。
社会に向かう教育
〈システム〉による幸せに満足して、〈システム〉をよりよくする一員になれっていうのが教育なのだろうか。
そうなると教育は、普遍的な(枠がある程度決まった)幸せしか伝えられない。〈システム〉の枠以上の幸せはないってことだ。
そして、目指していく「社会に参加しろ」という目標は、どうしたって<入れ替え可能性>にぶつかる。
それは、社会に出る際に、強制的に「自己存在不信」の「不安」にぶつかることがほぼほぼ決まっているってことだ。
社会に向かう教育で、すべての人が幸せに生きられるようになるのかは、私には分からない。もしかしたら、全員幸せに辿り付けるのかもしれない。そして、それは、おそらく社会の枠組みによるってことだ。
「共生社会」を目指して
だーかーらー
「社会の枠組みを広げよう」ってのが現代だと思う。
共生社会を目指した動きがじわじわ来ており、法律も定まって整備されていっている。
これからの「多様化する価値観」を理解し合うこと。
そうしてネットワーク(人間に対する理解)が広がった先に、誰もが生きられる社会があるんじゃないかって思う。
この流れに問題はあるか?と考えたのだけど、思いつかなかった。(結局、社会保障のお金は気になるところだけど)
そして、あとは、そのはざまにいる「居場所」が保障されていない人間への対応だろう。(その1)に書いた「経済的な余裕のなさ」から来る、「他のコミュニティへのパイの奪取」が問題になる。
暴走を許さない工夫を
なので「価値観の多様化」の中でも暴走を許さない工夫はいると考えられる。
「価値観の多様化は、価値観の自由化ではない」ということ。
学校はまだどちらかというと〈システム〉の存続ありきだという感じがある(当然1億人の命がかかっているから)。
ただ、そこに、社会は(〈システム〉は)「つくっていくもの」って前提も忘れないで教育していけるといい。(次期学習指導要領はその方向のはず)
もしくは、社会を知っていく上で、その非常な不条理さ(社会のシステム性、入れ替え可能性等について)も知って子どもに社会を提供しないとしょうがないってことかもしれない。
一人ひとりの命VS.社会
結局「一人ひとりの命VS.社会」っていう気がするかな。
共通価値などが法律で決まっていたとしても、「アイツに死んでほしい」と思っちゃうほどの価値観の多様化が現代での「実存」であって、それを安堵させ、収束に向かうにはどうするかってことだろう。
「誰もが認められるわけではない社会で、誰もを認めるための安堵」、安堵するための収束。
それには、「経済の側面」と「居場所」が保障される必要がある。
(その理念・思想はどこから手をつければ補えるのかさっぱり分からないが)
「社会」がズレたのか、「個人」がズレたのか
相模原の事件ほどの価値観が起こるのは、社会では包括できない個人が増えてきていることを暗示しているかもしれない。
〈システム〉外の人。要は、ある特定の文化の社会より、その価値観に合った文化で生きた方がいい人たち(私もそれに入るかもしれない)。
そうした人たちが無理に社会に当てはめられようとしたり、当てはまろうとしたりすると、社会を脅かすことが起こるように思う。
必要な視点として「価値観は、価値観と価値観から生まれる」という「可能性」を全員が知ること。そうして、よりよい価値観をお互いで生み出すという文化が当たり前になっていくといい。
「社会」からも「個人」に寄っていき、「個人」からも「社会」に寄っていくということだ。
私の<入れ替え可能性>の体験
これまで幼稚園の先生になろうってときや、学童をはじめたときに付きまとったのは「自分以外でもいいのではないか?」という問いだった。
私が救われたのは、友だちの中に「そんなこと一切考えない」という答えをもっている人がいたからだった。
その友達のおかげで「自分のやりたさでやってもいいんだ」ということに納得できた。
ただ、その「やりたい」という「主観」を大切にしたとして、それを社会が受け入れるかは、また別の話というジレンマに出会う。
このジレンマは、一人ひとりを大切にしたところで、やっぱり経済的な側面も居場所がある保障はないっていうジレンマだ。
やっぱりのところ現代は、パイの量は決まっていて、何を目指そうが席があるかは分からなくて自己責任になる。
「一人ひとりを認めるって言ったのに!」と、いざ社会に出るタイミングになって、猛烈な闇討ちをくらう可能性がある。
これを是正するほどの、社会のシステムはあり得るのかが大きな課題。
これは、最高級にナイーブな問いだけど。
でも、おそらくその究極に到達はしないので、「目指すっていうプロセスの最善を常に歩むこと」が求められると思う。上で言った共生社会を目指すっていうのでほとんど良いだろう。
(本当は、近くの人にもっと耳を傾ける程度のことかもしれない。まず、気づけた人から。)
ジレンマから存在不信へ
このジレンマの先に、居場所が確保できなかった場合、自己の存在に対する不信につながる。
社会に自分が否定されたという構図が出来上がる。
この構図が「相模原の事件」にあったものだと考えられる。
「自分にとって自分だけしか自分を必要としない」さ。
「自分を必要とするのは自分だけ」という「孤独」。
その強迫的な不安は自分の生を不安定にさせ、自己を揺るがせ、自分の生命が脅かされるような感覚に陥る。
そうしたとき、社会はこんな感じに「まあ社会はそうなっているから(入れ替え可能性によって)、『お前の理想はいらないよ』」といった感じに、ドライに告げてくる。
それでも、「役割を演じられるか」とか、「社会と自分の折衷を見いだすこと」とか。
これらが、希望をもって明るく心地よく生きるコツだろうと、今は考えている。
もしくは、「社会の拡張」である。
「自分が生きられる可能性のある社会を増やす」ってことが大切だと思う。
それは海外でもいいし、別のジャンルの仕事でもいいだろう。
シンプルに言えば「自分が認められるコミュニティで、共通価値からはみ出ない自分でいられる場所に辿り着ければいいだけ」の話だ。
(自分を拭うために他者への報復は選択肢として存在しなくていいだろって話)
けれど、当然そうできない人もいる。できにくい人もいる。
それは、一体、誰の、何の所為なのだろう……。
【結論】
「社会」の<システム>から生まれる価値観。
入れ替え可能性への絶望。自分はいてもいなくてもいいという絶望。
どの人間もいてもいいという主張では、社会は回らない可能性。
「価値観の違い」による「居場所」の取り合い。
いてもいなくてもいいのは、自分ではないという主張。
100:0、黒か白かの考え。
自分こそ「中庸・主流」の正当化。
その犯人の否定が、犯人が他を否定する行動につながった。
自己の心理的殺害が、他者の身体的殺害につながった……。
犯人の行動は間違っていた。けど、そんな犯人を生んだ社会も間違っていた?のかもしれない。
【教育に何ができるか】
(1)「価値観の折り合いをつける体験(特活・道徳)」を意図的に取り入れる。
(2)「自己の価値観の否定を乗り越える力(レジリエンス)」を付けていく。
(3)「全員によって全員の居場所は構築できると体験的に知る」
そーのーたーめーにー「対話力」を育む。
その一つとして「初対面から話し合いができる距離感までの道筋に慣れる」という視点で考える。
そのためには「いつも通り以外の人とのかかわり力」が大切。
結局、言いたかったことは……
「違いがあるほど」「違いを認め合えるほど」「違いとぶつかって修復するほど」、自分たちはより生きやすくなっていくだけの話なんじゃない?ってこと。
「衝突の修復だけが絆を深める」から。
「修復できない衝突は、罪だ」と。
もう修復できない人たちへは、祈ることしかできない。
(終)
自己正当化に対する考え方に役立つのは、こちらの本。