読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

それでも幸せな人はいるから

特別支援学級の担任をしていて感じたこと。幸せな子ども時代を過ごす子どもが一人でも多く増えるように

「システム2」と「自我消耗」について(『ファスト&スロー』より)

(「ファスト&スロー」×「特別支援教育」×「ハピペン」その2)

「ファスト&スロー」を今年度中に読み切りたい「ハピペン」です。

 

「システム1」と「システム2」については、こちら。

inclusive.hatenablog.jp

 

「システム2」と「自我消耗」

「システム2」には、「注意力」や「努力すること」についてコントロールする役割があります。

 

しかし、「システム2」を消耗すると、注意力などがコントロールできなくなります。

強い意志を持って行動することやセルフコントロールの努力を続けるのは、とても疲れる」です。

 

疲れが重なることで、人は、

セルフコントロールがしたくなる」か「セルフコントロールがうまくできなくなる」そうです。

このことを「自我消耗」と言う。

 

「注意力」の疲労からくる「監視力」の低下

「自我消耗」を起こしているときは、「システム2」の機能が低下します。「注意力」も「監視力」も似たようなものですが、「注意」は自分の外の情報への意識についてで、「監視」は自分自身に対しての意識です。

外の情報へ「注意力」を使うことで、自我消耗が起こると、自分を見つめる「監視力」も弱まってしまうということです。

「システム2」が弱まった場合の、判断・選択はどこが担うかと言えば、残りの「システム1」です。

「システム1」は、「直感」や「印象」や「感覚」によって判断します。

 

すると、どういうことが起こるかというと、教室の中で、刺激が多く、いろいろなものに注意が向いてしまう中、もしくは集中して取り組まなければならない時間が多いと、そこに「システム2」は消費されます。

「システム2」が消費された結果、自分に「注意力」を働かせることができなくなり「監視」ができず、「立ち歩き」や「不規則発言」などにつながると考えられるということです。

 

「システム2」が働かなくなると、「システム1」は、

・早くギブアップしたくなる

・甘いものの誘惑に負ける

などのことが起こるそうです。

 

子どもたちの様子で言えば、「楽な方に逃げたくなる」という現象が起こっているように感じます。

 

その背景には、それだけ課題が困難だったり、刺激が多かったり、 「システム2」を消耗するという要因があったということです。

また、疲労や空腹も、消耗の原因になり得るということです。

 

「システム2」の消耗を「どう回復するか」

「ファスト&スロー」によれば、

ブドウ糖の接種

・強力なインセンティブ

が、「システム2」を働かせるのに有効だそうです。

 

子どもたちが、学習や活動に「インセンティブ」を感じることができれば、再起したり、努力や集中を持続させられる可能性が高いです。

 

この先の「確証バイアス」の項でも「集中」については扱えたらと思います。

 

追記:あとは、どうすれば「システム2」が育っていくの理論が全く不透明です。この先に書いてあるのだろうか。

「みんな違ってみんな同じ」について

先週10年ぶりにウィスキーを飲んだ「ハピペン」です。バーでロックを2杯飲みました。楽しい時間……。

 

「みんなちがってみんな同じ」

今日は「みんなちがってみんな同じ」についてです。

 

かの有名な「みんな違ってみんないい」。ああ、歌にまでなってやがるぜ。

 

それはそれでいいとして、けど、本当は「違う」って方を強調する必要もなかったのかな、という今日この頃。

 

「みんな違うけど『同じ』なんだよ」っていう「同じ」を強調すると、世の中はどうなるのだろうか。

 

「違いさがし」から「同じさがし」へ。

 

まず、

「みんな違う」ってことが「同じ」

誰もが幸せに生きていいってことが「同じ」
誰もが健康に暮らしていいってことが「同じ」
誰もが安心して学びを得られるってことが「同じ」

もし、そういう考えが主流であったなら、

じゃあどうしたら同じになれるだろう?
同じに近づけるだろう?
を考えるのが、当たり前にはならないだろうか。

 

注意しなければならないのは、同じなのだから同じものを課すということではなく、同じだから納得できる同じに近づけるようなものを合意の上で課すというところだ。

 

それが、昨今の流行りであると信じたい。

 

検索してみると

(1)「みんな違ってみんな同じ」

(2)「みんなちがってみんな同じ」

で検索結果が違う。

 

前は、どれでも「茗荷村」のホームページが出たのだけれど、今は森山直太朗の「みんなおんなじ」という歌についての記事がたーくさん出てくる(2017.2.27現在)。

Eテレの「みいつけた」のエンディング曲らしい……しかも12月から!?。

<ママスタセレクト>

『みいつけた!』新ED曲は、森山直太朗さん「みんなおんなじ」 | ママスタセレクト

<「たの研」内沢達のホームページ>(おすすめ)

一つ面白いページを見つけてしまった。

「生きる力」を育む これからの学校教育 レジュメ (たの研 内沢達のHP)

このレジュメに「みんなちがってみんな同じ」のワードがあったのだけど、この記事に見入ってしまった。

AであってAでない(たの研 内沢達のHP)

<茗荷村>

ラムサ/茗荷村食材リスト

現在の「茗荷村」を検索してみても面白いです。

行ってみたくなる。

<渋川北中ブロック いじめ防止子ども会議開催>

http://www.shibukawa-kita-e.ed.jp/H28/01gakkougyouji/121ijimeboushi/ijimeboushi.html

3校集まって「スローガン」を決めたそうです。素敵なスローガンを掲げています。
どんな話し合いを行ったのでしょうか。インタビューしてみたいなあ。

学校の違う誰かが同じスローガンで共生してると思うと、なんかわくわくしますね。

学校間交流ってもっとあっていいのかもなあ、と思わされる。

<素敵なはなし>

世界の変え方7 他人との違いを知る - 素敵なはなし

いろいろな、「同じ」と「違い」を書いてくれています。

<人間解放の「障碍」は何か>

http://kurikawaosamu.life.coocan.jp/lecture.html

 

以上が、検索結果。

「相模原の事件」と「居場所」と「社会とのズレ」の話(その3)

(過去記事)つづき

 

「社会とのズレ」について書いていく。

「入れ替え」と〈システム〉

このブログの記事から着想したところがある。

sosaku.doorblog.jp

 

この言葉を見てほしい。

「入れ替え不能な我々のために、入れ替え可能な<システム>がある」というより、
「入れ替え不能な<システム>のために、入れ替え可能な我々がある」と感じられる社会を生きなければならない

これと「相模原の事件」や「居場所」の話はよく合う。

 

前者の「入れ替え不能な我々のための入れ替え可能な<システム>」とはいつ頃まであったのだろうか。

勝手に高度経済成長期をイメージするのだけど、要は、誰でも生産者として必要とされ、純粋に頭数で人の重要度が高かったということだろうか。

「その人(我々)」を大切にするために<システム>が必要だったということだ。

 

後者の「入れ替え不能な<システム>のために、入れ替え可能な我々」というのは、現代を指すだろう。

従前の<システム>を構築するために必要だった我々。それは、単純に工場や高速道路の建設も含むだろう。

しかし、出来上がった今、工場や高速道路を維持するための入れ替え可能な我々を必要とするだけになった。

日本のパイ〈システム〉を増強していた時代から、パイ〈システム〉を維持しようとする時代への転換とも捉えられるかもしれない。

 

揺らぐ自己

この<システム>のための自己は、揺らぎやすいと個人的に思う。

価値観の多様化によって、一人ひとりが好きなことを思えるようになった。

昔は、選ばれた人しかなれなかったものも、なりたいと思えば目指すことができ、なれるような気になったり、実際になれなくもない状況に行けることが増えた。

名乗ってしまえばアイドルだったり、動画投稿で気軽に演者になれたり。

一人ひとりが、一人ひとりの好きな価値観にアクセスして浸れる時代になった。

 

それと同時に容易に手に入るものは、容易に失う可能性も高い。

その消費のインスタント化が、自己の存在不信・不安につながる。

自分が席を空ければすかさず座られてしまって、もう自分はその席には戻れない。そんな不安が常時つきまとうのが現代社会。

 

拒んだのは職がないことではなく、思想の否定

ブログでは、「実存」についても書かれていて、

私たちは「客観的現実」でなく「体験」をベースに生きる他ない
⇒ありとあらゆるものの全体としての<世界>を問題化する場合、科学的方法に裏打ちされた共同主観的認識としての「客観的現実」だけでなく、現に私たちが<世界>をどう「体験」しているのかに実存的に注目することも大切

私たちが<世界>をどう「体験」するかをめぐる法則性に注目 ユング

といった言葉が書かれている。

こうした思考は、現代の価値観の多様化の中にある自分の主観的な価値観を猛進させる。

 

<システム>によって、自分の「居場所」が否定されたとき。自分は次の「居場所」、席を探せばいい。

しかし、思想や価値観が否定されたとき、人は、自分の存在を主張するために、他を否定することが選択肢として浮かぶ

 

社会の流行りは「共存」とか「共生」とか「対話」とかなのだけれど、それに気づけなかった場合。実存的な辛さで参ってしまっていた場合、誤った考えに導かれてしまうのかもしれない。

 

価値観の多様化する現代では、ほぼほぼ自分の考えと正反対の考えの人がいる。そして、どの考えにもそうしたコミュニティに行けば賛同者がいるだろう。

だからと言ってそれが中庸を得た考えでもなければ、昨今に必要な考えでもないという注意も必要で、まして命やお金に手をかけて実力行使で、何かを変えるというのは、反対に失うものが多きすぎる。

(そもそもお金と命が天秤にのってしまうという風潮もそもそも間違っているだろう)

(その1)でもあったように、そういう考えでは、いずれ、自分の首を絞めかねない。

 

一部を「みんな」と言って全体性として扱い、デタラメの全体性を味方につけて、攻撃や暴力を正当化してはいけない 

ここで、「社会は一人ひとりを包摂できないのか」考えたい。

 

「社会で生きられないこと=自分の人生のすべて」と思ってしまったら、それは大変に生き辛いことだと思う。

生殺与奪の不安を抱え、自分ではなく、相手こそ間違っていると否定することでしか自分を保てない流れも想像がつく(誰も徹底的に自分を否定することはできないだろう)。

 

ならば、

社会の包摂化」によって、社会をどんな人間も受け容れられるシステムに変えていく。

メインストリーム・主流のための社会ではなく、「特別や例外を社会化」するようなイメージ(もろ今やっていることだろうけど、事件は、その社会が特別を許容していることを許せなかったということだろう)。

もしくは、
社会の世界化」で考えてみる。世界は人間を否定していないと思う。どこにいても生きてさえいれば次の日が来る。社会で生きられないことは、その人の生命を否定しているわけではなく、世界的な視点ではどの人々の生も許容されているという考え。だから、誰も殺す必要はないよねって、社会の価値で生命を計らない考え(実際そういう考えで進行していると思うんだけど、どのジャンルで社会の価値こそ至高になっているのだろうか。大人?)グローバル化ってことだと思う。(コスモポリタニズムも入る?)

 

以上のような発想をするとどうなのだろうか?

 

 

社会(システム)は回らなくなる可能性がある

「どの人間も生きていていい」を前提として「一人ひとりの入れ替え不可能性」を大切にしたら、入れ替え可能性を担う存在がいなくなるだろうか。一人ひとりが唯一無二になって、代役がいなくなる。

これは、もしかすると、後継がいなくなって、社会のシステムを円滑にしている人がいなくなり社会のシステムが回らなくなるかもしれない。

  

もちろん、入れ替え不可能性を優先したときに社会が回るかは、変数でしかない。

やってみないとわからない領域。一人ひとりが大切にされ、思うままに生きており、ある事柄に価値を見い出したやりたい人がやりたいことをやるっていう状況の中で、今の社会のシステムを存続したい人がやってくれるだろうってことだ。

現実では、そこに金銭が発生したり、それによって社会が運営される(する)ことで幸福を得られている人がいる〈システム〉があるから、〈システム〉を維持する成り手がある程度確保される。

誰しもが、あなた自身のありのままでいいよってなったときに、どう転ぶかは分からない。

 

私たちが、いろいろな人の存在を認めた時に、建設的に助け合えるかは分からないわけだ……。

 

社会に向かう教育

〈システム〉による幸せに満足して、〈システム〉をよりよくする一員になれっていうのが教育なのだろうか。

そうなると教育は、普遍的な(枠がある程度決まった)幸せしか伝えられない。〈システム〉の枠以上の幸せはないってことだ。

そして、目指していく「社会に参加しろ」という目標は、どうしたって<入れ替え可能性>にぶつかる。

それは、社会に出る際に、強制的に「自己存在不信」の「不安」にぶつかることがほぼほぼ決まっているってことだ

社会に向かう教育で、すべての人が幸せに生きられるようになるのかは、私には分からない。もしかしたら、全員幸せに辿り付けるのかもしれない。そして、それは、おそらく社会の枠組みによるってことだ。

 

共生社会」を目指して

だーかーらー

社会の枠組みを広げよう」ってのが現代だと思う。

共生社会を目指した動きがじわじわ来ており、法律も定まって整備されていっている。

これからの「多様化する価値観」を理解し合うこと。

そうしてネットワーク(人間に対する理解)が広がった先に、誰もが生きられる社会があるんじゃないかって思う。

 

この流れに問題はあるか?と考えたのだけど、思いつかなかった。(結局、社会保障のお金は気になるところだけど)

そして、あとは、そのはざまにいる「居場所」が保障されていない人間への対応だろう。(その1)に書いた「経済的な余裕のなさ」から来る、「他のコミュニティへのパイの奪取」が問題になる。

 

暴走を許さない工夫を

なので「価値観の多様化」の中でも暴走を許さない工夫はいると考えられる。

価値観の多様化は、価値観の自由化ではない」ということ。

 

学校はまだどちらかというと〈システム〉の存続ありきだという感じがある(当然1億人の命がかかっているから)。

ただ、そこに、社会は(〈システム〉は)「つくっていくもの」って前提も忘れないで教育していけるといい。(次期学習指導要領はその方向のはず)

 

もしくは、社会を知っていく上で、その非常な不条理さ(社会のシステム性、入れ替え可能性等について)も知って子どもに社会を提供しないとしょうがないってことかもしれない。

 

一人ひとりの命VS.社会 

結局「一人ひとりの命VS.社会」っていう気がするかな。

共通価値などが法律で決まっていたとしても、「アイツに死んでほしい」と思っちゃうほどの価値観の多様化が現代での「実存」であって、それを安堵させ、収束に向かうにはどうするかってことだろう。

 

誰もが認められるわけではない社会で、誰もを認めるための安堵」、安堵するための収束。

それには、「経済の側面」と「居場所」が保障される必要がある。

(その理念・思想はどこから手をつければ補えるのかさっぱり分からないが) 

 

「社会」がズレたのか、「個人」がズレたのか

相模原の事件ほどの価値観が起こるのは、社会では包括できない個人が増えてきていることを暗示しているかもしれない。

〈システム〉外の人。要は、ある特定の文化の社会より、その価値観に合った文化で生きた方がいい人たち(私もそれに入るかもしれない)。

そうした人たちが無理に社会に当てはめられようとしたり、当てはまろうとしたりすると、社会を脅かすことが起こるように思う。

 

必要な視点として「価値観は、価値観と価値観から生まれる」という「可能性」を全員が知ること。そうして、よりよい価値観をお互いで生み出すという文化が当たり前になっていくといい。

 

「社会」からも「個人」に寄っていき、「個人」からも「社会」に寄っていくということだ。

 

私の<入れ替え可能性>の体験 

これまで幼稚園の先生になろうってときや、学童をはじめたときに付きまとったのは「自分以外でもいいのではないか?」という問いだった。

 

私が救われたのは、友だちの中に「そんなこと一切考えない」という答えをもっている人がいたからだった。

 

その友達のおかげで「自分のやりたさでやってもいいんだ」ということに納得できた。

 

ただ、その「やりたい」という「主観」を大切にしたとして、それを社会が受け入れるかは、また別の話というジレンマに出会う。

 

このジレンマは、一人ひとりを大切にしたところで、やっぱり経済的な側面も居場所がある保障はないっていうジレンマだ。

やっぱりのところ現代は、パイの量は決まっていて、何を目指そうが席があるかは分からなくて自己責任になる。

 

「一人ひとりを認めるって言ったのに!」と、いざ社会に出るタイミングになって、猛烈な闇討ちをくらう可能性がある。

 

これを是正するほどの、社会のシステムはあり得るのかが大きな課題

これは、最高級にナイーブな問いだけど。

 

でも、おそらくその究極に到達はしないので、「目指すっていうプロセスの最善を常に歩むこと」が求められると思う。上で言った共生社会を目指すっていうのでほとんど良いだろう。

(本当は、近くの人にもっと耳を傾ける程度のことかもしれない。まず、気づけた人から。)

 

ジレンマから存在不信へ

このジレンマの先に、居場所が確保できなかった場合、自己の存在に対する不信につながる。

 社会に自分が否定されたという構図が出来上がる。

この構図が「相模原の事件」にあったものだと考えられる。

 

自分にとって自分だけしか自分を必要としない」さ。

「自分を必要とするのは自分だけ」という「孤独」

その強迫的な不安は自分の生を不安定にさせ、自己を揺るがせ、自分の生命が脅かされるような感覚に陥る。

 

そうしたとき、社会はこんな感じに「まあ社会はそうなっているから(入れ替え可能性によって)、『お前の理想はいらないよ』」といった感じに、ドライに告げてくる。

 

それでも、「役割を演じられるか」とか、「社会と自分の折衷を見いだすこと」とか。

これらが、希望をもって明るく心地よく生きるコツだろうと、今は考えている。

 

もしくは、「社会の拡張」である。

自分が生きられる可能性のある社会を増やす」ってことが大切だと思う。

それは海外でもいいし、別のジャンルの仕事でもいいだろう。

 

シンプルに言えば「自分が認められるコミュニティで、共通価値からはみ出ない自分でいられる場所に辿り着ければいいだけ」の話だ。

(自分を拭うために他者への報復は選択肢として存在しなくていいだろって話)

 

けれど、当然そうできない人もいる。できにくい人もいる。

それは、一体、誰の、何の所為なのだろう……。

 

【結論】

「社会」の<システム>から生まれる価値観。

入れ替え可能性への絶望。自分はいてもいなくてもいいという絶望。

どの人間もいてもいいという主張では、社会は回らない可能性。

「価値観の違い」による「居場所」の取り合い。

いてもいなくてもいいのは、自分ではないという主張。

100:0、黒か白かの考え。

自分こそ「中庸・主流」の正当化。

その犯人の否定が、犯人が他を否定する行動につながった。

自己の心理的殺害が、他者の身体的殺害につながった……。

犯人の行動は間違っていた。けど、そんな犯人を生んだ社会も間違っていた?のかもしれない。

 

【教育に何ができるか】

(1)「価値観の折り合いをつける体験(特活・道徳)」を意図的に取り入れる。

(2)「自己の価値観の否定を乗り越える力(レジリエンス)」を付けていく。

(3)「全員によって全員の居場所は構築できると体験的に知る」

 

そーのーたーめーにー「対話力」を育む。

その一つとして「初対面から話し合いができる距離感までの道筋に慣れる」という視点で考える。

そのためには「いつも通り以外の人とのかかわり力」が大切。

 

結局、言いたかったことは……

「違いがあるほど」「違いを認め合えるほど」「違いとぶつかって修復するほど」、自分たちはより生きやすくなっていくだけの話なんじゃない?ってこと。

「衝突の修復だけが絆を深める」から。

「修復できない衝突は、罪だ」と。

 

もう修復できない人たちへは、祈ることしかできない。

 

(終)

 

自己正当化に対する考え方に役立つのは、こちらの本。

自分の小さな「箱」から脱出する方法

自分の小さな「箱」から脱出する方法

  • 作者: アービンジャーインスティチュート,金森重樹,冨永星
  • 出版社/メーカー: 大和書房
  • 発売日: 2006/10/19
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
  • 購入: 156人 クリック: 3,495回
  • この商品を含むブログ (421件) を見る
 

 

「相模原の事件」と「居場所」と「社会とのズレ」の話(その2)

 

inclusive.hatenablog.jp

 の続きです。

 

今回は「居場所」について。

 

断ち切られた「つながり」

犯人は、結果的に自主退職をするが、犯行後「施設を辞めさせられて恨んでいた」というように言っている。

 

「つながり」がなくなり、「居場所」と感じられる場所がなくなったダメージは大きかったのではないでしょうか。

同時に 「居場所」がなくなったものにとって「居場所」があるものへの恨みというのも大きかったはず。

 

そこには「自分」には居場所がないのに「職員」や「利用者」には居場所があることへの嫉妬があるように思う。

 

また「価値観が多様化」した昨今、「居場所」がなくなることは、自分を受け入れられなかったことと同義で、自分の価値観が否定されたことを意味する。

 

この「嫉妬」と「否定」はキーワードです。

 

価値観の否定は、「世界に一つだけの花」のように、オンリー1で、自分そのものまるごとすべての個性を否定されたと捉え兼ねない。

 

受け入れてもらえない理由はどこにあるか?

犯人が自分の考えを受け入れてもらえなかったことは、大きなショックがあったと考えられる。(その価値観を受け入れてほしいと切望するほど、仕事が辛かったのかもしれない)

 

しかし、当たり前に、社会生活の中で、そのコミュニティに相応しくない価値観を誇示すれば、そのコミュニティに所属し続けることは難しい。(それが覆るほどの多様化はまだ普及していない。これは、同時に「正され慣れる」、相手の考えと組み合わせて「自分の考えを変える」寛容さを一人ひとりがお互いに持たないと成り立たない)

 

ただ、もしかすると、そのコミュニティの中で価値観の「浮き」に気づけない何かがあったのかもしれない。

また、コミュニティに所属していることが当たり前で、自分の目に見えるもの、コミュニティの価値観が世界の主流だと捉えていた場合、思考はどんどん過激になる可能性がある。

 

犯人は、施設で働く中で(もしくは以前からか)、何らかの影響によって重度の障害者を否定する思想を持った。

そして犯人は少なからずその考えは共感され支持を得られるものと思っていたのかもしれない。

 

wikipediaには「採用後の勤務態度には施設入居者への暴行や暴言を繰り返すなどの問題が多々あり、何度も指導や面接を受けていた」とある。(引用:

相模原障害者施設殺傷事件 - Wikipedia

 ただ、こうした実力行使に出るような過激になった考えは、さすがに誰にも受け入れられることはない。あっても、あってはならない。

 

受け入れ先を探す

そこで、犯人は、職場で受けれ入れられないと分かると、次はより多くの主流を巻き込むために、衆議院に手紙を渡すに至る。

犯人は、感じている主観的な価値観を大胆に客観に転嫁したのだと考えられる。

 「自分と同じ思いをみんなも抱いている」と。

 

「 みんなもそう思っているに違いない」この感覚は、現代の人々がもつ、自分を否定されることへの耐性のなさや、「承認欲求」を求める感覚、に似ている。

これの危険なところは、自分の正しさに目がくらんでしまって、自分以外のもつより正しい考えに対して盲目になって、一線を越えてしまうところだろう。

 

正しさって何か?

私は、倉敷宣言の共通価値に一目を置いている。

どんなに誰かが正しい考えを示したとしても、この共通価値だけは越えてはならない一線なように思うからだ。

 

思想や感情は大切である。ただ、それは、一線を越えてしまっては、表現の度を越してしまう。

 

共通価値以外の価値観については、いくら指示する人、賛同する人がいても、「正解はない」と思った方が、苦しむ人が少ないのではないだろうか。

 

ある価値観とある価値観を「100:0」で考えることをやめていく時代が、これからの時代なのだ、という認識をより多くの人がもてると良い。

 

「ちがいにいいね」ができると本当に良いと思う。

 

居場所捜し、居場所奪い

推測にすぎないが、犯人は、自分の考えを示したいと考えていたと思う。

それは、自分の「在りか」や「居場所」を確保したいと考えたからではないだろうか。

 

犯人にとっての居場所とは、職場という経済的、人間関係的、物理的な居場所もそうかもしれないが、もっと広い漠然として「社会における居場所」だったのかもしれない、と思う。

「なんとなくこの世に自分が自分として存在している感覚」「自分が否定に値せず、正しいという感覚」など、これらを許容されることで、社会内で居場所があると感じようとした。

 

ところで「社会における居場所」と考えたときに浮かぶのは「秋葉原の事件」である。

 あの事件でも最終的にネット掲示板という居場所を失った孤独を感じ、犯行に至ったと考えられる。

 

二つの事件には、自分と対象との「もっているもの」と「もっていないもの」との比較があるように思う。

 

たとえば、犯人の価値観に、

「犯人がもっていて、利用者がもっていないもの」

「利用者がもっていて、犯人がもっていないもの」

の差があったのではないか、と思う。

 

犯人が失ったもの

職場を辞めて、犯人は、自分がもっていたものを失った。

しかし、それを「利用者がもっている」ということは残った。

そして、犯人がもっていないものを利用者がもっていることを相応しくないと感じた。

それが「社会的な居場所」なのではないか、と思う。

そう考えると辻褄が合う(まあ随分勝手な妄想であることは重々承知で)。

 

しかし、その一線を越えてしまうほどの「居場所」の魅力とはなんだろうか。

 

現代の「居場所観」と「つながり」について

 前にこんな記事も書いた。

inclusive.hatenablog.jp

 

「キャラ化」などの話でも散々言っているのだけれど、現代は「承認欲求」が満たされなくて、渇望状態である。

 

「自分がいてもいい居場所」があると、人々は、その居場所をキープするために尽力する。

ときには、「自分が居場所」と思う場所のルール以外は一切無視で、そのコミュニティがもつ価値観を優先し行動が犯罪に及ぶこともある。

 

その背景にはあるのは「価値観の多様化」である。

価値観が多様化すれば、人それぞれ良いと思うものが変わるから、承認される機会が減る。

そのため、安定した承認を確保するために二つの現象が起こる。

承認を得るために偽ること」と

否定されないようにするために他の価値観を否定すること」である。

誰も誰の正解を知らない中で、否定されないために「摩擦をなくして承認し合う関係」を維持しようとする。疑心暗鬼になりながらも、そのときそのときの偶然的に発生したつながりを守ろうとすることで、承認を得ようとして心を消耗していく。(ノリに合わせることだけに意識が向き疲れるってこと)

 

価値観が閉じたコミュニティの行く末は、人が減って弱体化していくか、刺激が減って過激化していくかである。

 

たとえば、これが、学生のときは、ただコミュニティから抜け出せばいいだけかもしれない。明日を信じているうちは、別のコミュニティがあるはず、と小さな希望を抱いて次に進むかもしれない。

 

では「社会人だったらどうか?」が今回の考えたいこと。

 

「経済苦」と「孤独」が飲み込む「つながり」

前回の記事で、LITALICOの記事を参照しながら、「経済苦」と「孤独」が、優生思想を後押しする可能性について話した。

 

しかし、今回の犯人は、元職員であった。

そこに「利用者とのつながりはなかったのだろうか」。

もし働いているときには「つながりがあった」として、犯行時には「つながりがなかった」としたら。

「なかった」としたら、それは何かによって「つながり」は「なくなった」ということだ。

 

職場が彼を許容できなかったのか、彼が職場を許容できなかったのか。

 

その「つながり」は、もしかしたら、「理想の自分」と「現実の自分」との「つながり」の可能性もある。

理想の自分は、「経済的」に十分ではなくても「仕事」があり、十分ではなくても役割があるような「居場所」がある自分。

現実の自分は、「経済的」に離れていしまう自分。「居場所」がなくなり「孤独」になる自分。

 

この「理想の自分」を失う感覚が、「現実の自分を否定」する場合、「現実」の原因を自分以外に持ち出し、理想の自分はさておき、「現実の自分」は間違っていないという強行に出ることがあるのかもしれない。

 

「理想の自分を目指すか」
「現実の自分を否定されないようにするか」

は似ているようで違う。

どちらも、承認の感覚としては、同じなのかもしれない。

 

言い換えれば、

「自分を上げるか」

「他者を下げるか」

ってことだ。

 

その「他者性」を失って、後者の考えで邁進したとき事件は起こる。

 

「社会とのズレ」へ

彼は「居場所」を失って、「自分が存在している実感」を失ったのかもしれない。

その背景には「社会とのズレ」があると考える。

人は「社会とのズレ」に気づいたとき、

・社会の考えを取るか

・自分の考えを取るか

の二者択一に迫られるのだろうか。

何度も言うが、「正解はないのに?」、どちらかに「決めなければならない」ものなのだろうか。

100:0の思考があり、自分を否定することは、自分そのものの否定につながると捉える昨今、自分を否定する選択できなかったのだろう。

 

「居場所」を感じられないことは、「生きることへの不安」「自分の存在についての不安」へつながる。

 

次回 「社会とのズレ」に続く。

「相模原の事件」と「居場所」と「社会とのズレ」の話(その1)

日差しは春ーな「ハピペン」です。日中は風が冷たいですが、日差しはポカポカですね(そうでない地域もあるでしょうが……)。

 

さて、「相模原の事件」と「居場所」と「社会とのズレ」について。

 

「相模原の事件」について

今回は、「相模原の事件」について。

 

もう言うまでもないでしょうが、重度の障害者は社会に不利益ということで19名が殺された事件について。

 

インクルーシブ教育に関する研修会で、「あの事件は教育の敗北を感じた」と話していた先生がいました。

「あの事件について学校で何か取り扱ったか?」と質問をすると、ほとんど手が挙がらないそうです。

「教育者として、あの事件を素通りして、教育を行っていていいのか」と。

確かにその通りだなと思いました(どう扱うといいっていうのはさっぱり分かりませんが)。

 

しかし、とにかく考えてみることで、何か日常の教育に返していくことはできるのではないか、と思い書いていく。

 

自分なりに、今の子どもの実態と照らし合せながら考えてみたいのです。

 

全3回予定。

 

事件の後、時間を起こすに至った思想、優生思想などがいかに不適切かを説明する記事を見つけました。2つ紹介します。

 

何が「牙」を向き、どのような考えがそれを「払拭」できるか

今日のメルマガで紹介されていたLITALICOの記事(記事自体は2016.9.27のもの)

h-navi.jp

以下引用

私たちがいま最も注意しなければならないことは、「税金のお世話になっている人間は世の中から消えても良い」という“現代版・優生思想”が、世論として市民権を得ることであると考えます。

必要な視点ですね。私は、いじめや不登校と同じで、立ち位置や視点が違うだけで、これは、どこにでも起こり得る話なのだと考えました。

 

私たちの社会の“余裕のなさ”は、障害のある方への配慮の本質を失わせる理由の1つになりうると考えます。

また

優生思想に市民権を与えるもう1つの要素は“孤立”です。

(中略)

この“社会的死”は、どのような人間も陥る可能性があるものです

とあります。

 

この「経済苦による余裕のなさ」と障害者が福祉によって隔離されて「孤立」しているということが、優生思想という「牙」を生み、最もらしい言い訳をふりかざして、暴力による排除に及ぶ可能性があるという話です。

 

また、"社会的死"は、誰にでも起こり得るとあります。

今回の事件は、優生思想という発想で、自分より弱い・劣っている・孤立すべき対象と捉えている存在に、犯人が抱く"社会的死"への不安を覆しなすりつけたとも考えられると思いました。

 

そして次に紹介されている優生思想を「払拭」するための考えが「比較優位」です。

経済学「比較優位」の考え方では、だれしもが社会の一員として活躍できる

私たちの社会は、人間に優劣をつけ他者よりもすべての面で劣っている人間は使い物にならないと見なしがちですが比較優位の理論に従えば、どのような人間も社会の一員として受け入れることが、全員にとって得となるのです。

(下線は「ハピペン」)

もう一つ。 

やつぱり経済面から見出される「牙」とその「払拭」

次は、夏に見た記事。

blogs.yahoo.co.jp

 

 この記事には、

 理念や理想が覆されることに対し、理屈で応じるにはどうするかについて書かれている。

 

以下引用

どんな命にも価値があるとか、いろんな生き方や個性が尊重されるべきだ、といった理念で畳みかけることもできる。

本来はそれで十分だろう。だが、それらの言葉を空虚なものにしないために、それを支える理屈を臆せず考える必要がある

(中略)

理念にはその存在理由が確実にあることを、理念以外の理屈をもって示す作業は重要である。

こういう、理想やきれいごとを理屈でもって証明する試みって大切だと思う。私の好きなジャンルです。

 

社会にとってコストが多大である者は抹殺されるべきであるという発想について。

(中略)

コスト自体は確かに客観的に存在している。

だが「多大」という量は各社会が持つ主観によってしか決まらない。

つまり、仮にコストに応じて生命を絶ってもよいという規範を是認するのだとしても、どの程度の障碍をその対象とするかという線引きは、どこまで行っても社会的にしか決定しえない

(下線は「ハピペン」)

では「その線引きは、一定の基準で済むのか?」という問い。

社会から重度の障碍者が消えれば、それによって少し狭くなった社会が、今度は社会の全体となる。

(中略)

禁断の線は引かない――。これが人権概念の起点の一つである。

すべての人が個人として尊重されるという決まりを守るほうが、一見人権概念で保護される必要がないような恵まれた人も、あるいは次は我が身と思わされるような立場の人も含めて、みな安心して生きることができるという知恵である。

どれほどコストがかかっても人権を徹底して保護することは、いかなる場合でも生死をめぐる人間の線引きをしないという、社会としての誓いを意味する。

単なる他人への情ではないのである。

どこかに線を引けば、線を引く口実は、次々にそのときそのときの社会の価値や、立場の優位な人によって、でっちあげられてしまい生きることへの安全が次々に奪われてしまう可能性がある。

人類全体の利益として、線引きはしないことが、有益だと考えられる。

 

さて、相模原の事件を起こした犯人は、何を思って犯行に及んだのでしょうか。

私は「居場所」というキーワードが関係していると思うのです。

 

次回へつづく。

【まとめ】インクルーシブ教育とは(後編)

どんどんどんどん進めよう!つべこべ言わずに進めよう!な「ハピペン」です。

これもまた、半年以上ぶりにまとめます。

 

これのつづき

inclusive.hatenablog.jp

inclusive.hatenablog.jp

 

そもそも伝えたかったズレ!

文科省から出た、「インクルーシブ教育」に関する様々な定義。「共生社会」を目指す文言。これはこれでいいと思います。現状相応しい。

 

それは、過渡期であって、「共生社会」を目指す、短・中・長期的目標であると捉えることで納得しましょう。

 

ただ、その到達したい先にある様々な背景や内実のようなものが、分からないまま今を受け取っていってしまうことに、問題がある。と感じたわけです。

 

要は、「共生社会って何?」とか、「どこのための今?」って状態では、今必要なことを実行しようとできないよね、ってことです。

 

その根拠が、

□障害者政策委員会と内閣とのズレ

□障害者政策委員会と文科省とのズレ

です。

 

背景となるのは、「サラマンカ声明」や「改正障害者基本法」や「障害者の権利に関する条約」などです。

 

これらが示していることの「解釈」や「立場」の違いがズレを生んでいるのだと思います。

※注:ズレがわるいってわけでもどちらかが一方的に違うということでもありません。

ただ、どちらの主張も「知る」大切さはあると思うのです。どちらかだけを正しいと思うことがマズイと。

 

なぜズレが生まれるか?

それは、「<共生社会>の目指し方」や「インクルーシブ教育」に正解がないからです。

そこにいる人々によって「インクルーシブさ」は変わるのです。

それは、どんな教育が未来の子どもたちにとって「正解」か分からないことと同じ理由です。

 

必要になる前提は一つだけです。

それは「インクルーシブ教育」は、そこにいる人々の合意形成によってしか見えてこないってことです。

そして、そのために必要になるのは「対話」だろうと思います。

 

気をつけるべきことは

上の※注:でも言いましたが、「どれが正しい」や「正解はない」ってことです。「インクルーシブ」に関する視点は「決まっているもの」ではありません。

だからこそ、文科省は「インクルーシブ教育システム」と、システムを作っているにすぎないことは明示しているわけです。

システムという枠組みを示しているだけなのです。<目指すところ><就学先を決定する仕組み><合意形成><合理的配慮・基礎的環境整備>の法的根拠など。その中身、実際、具体はいくらでも合意形成によって変更・調整ができるようになっています。

※ただ、その枠組みの前提が、国際的な実態とズレているところがあるという課題は残っています。それは、過渡期であってプロセスである。というところに含まれると信じるしかありません。(障害のあるなしにかかわらずすべての子をインクルーシブするのか?またフルインクルーシブを目指すのか?といったところです。)

 

以上がまとめになります。

今後は、じゃあ「どうすればインクルージョンできるか?」を書いていけるように頑張ります。

 

そのはじまりはこちらの記事から。

(後日リンク)

 

インクルーシブ教育とは(完) 

(おまけ1)そして、気づいてしまった間抜けな私

文科省のインクルーシブ教育システムの構築は、当然に法律を受けてのものである。条約を基に、法律が変わったり、整備されたりした。

 

そのため、「サラマンカ声明」「ユネスコのインクルーシブの定義」は吟味されていないわけである。

 

・障害者の権利に関する条約→<合理的配慮>→障害者差別解消法

・障害者の権利に関する条約→インクルーシブ教育→<就学決定を決定する仕組みの改正>→学校教育施行令一部改正

といった具合に

 

そのため、とある理念を思っても、法的根拠としてのアピールは難しいのだな、と今更になって分かりました。

 

「障害についてのインクルーシブとは」は、かなり深めることができたが、

サラマンカ声明やユネスコの定義する「すべての子ども系のインクルーシブ」については、日本では当分は草の根運動的なものになるのでしょう。

 

(おまけ2)ズレを感じた<議事録>のリンクたち

注:実際、捉え方次第でズレはない可能性はあるのだろうとも思っています。(出てきた構造に従うしかない部分はあるわけで……何を真実とするかは、人それぞれ根拠によって変わってしまうというね……)

(1)障害者政策委員会と障害者基本計画

<障害者政策委員会>

内閣府副大臣として障害者政策を担当している前川清成副大臣に議論を集約した取りまとめを渡す回

障害者政策委員会(第5回)議事録 - 内閣府

②その取りまとめ

http://www8.cao.go.jp/shougai/suishin/seisaku_iinkai/pdf/kihon_keikaku/honbun.pdf

③(第3次)障害者基本計画(原案)(平成25年7月)

http://www8.cao.go.jp/shougai/suishin/seisaku_iinkai/k_6/pdf/s4.pdf

<障害者政策委員会>

④(原案)に驚いている回

(東大 福島教授)この後、御説明があると思いますが、ざっと拝見した限り、失礼ながら、昨年の12月のものと比べてかなり後退してしまっている。後退と言ってはあれですが、必ずしも十分ではないと思います。この後、多分いろいろな議論が出ると思うのです。それを踏まえて、再度政府で調整いただいた後、果たしてこの政策委員会にフィードバックいただけるのかどうか。

障害者政策委員会(第6回)議事録 - 内閣府

⑤(原案)の修正後についての回

「可能な限り反映していただいて」と幕を閉じる。

障害者政策委員会(第7回)議事録 - 内閣府

印象としては、とにかく時間がなかった感じ。

⑥(第3次)障害者基本計画(平成25年9月)

できあがったもの。

障害者基本計画(第3次)本文 - 内閣府

「②と⑥」を比べるとズレがあるなってことです。個人的には「他の者との平等」についての記述がなくなったことが気になりました。(平等を前提にすると、基準が広すぎるからかなとも思いましたが。)

 

(2)特別支援教育の在り方に関する特別委員会と

特別支援教育の在り方に関する特別委員会>

特別支援教育の在り方に関する特別委員会(第6回) 議事録:文部科学省

「論点整理」(案)ができました。

<障害者制度改革推進会議>

障がい者制度改革推進会議(第25回)議事録 - 内閣府

「論点整理」(案)を<障害者制度改革推進会議>で見てもらいました。

結構、切られる。

特別支援教育の在り方に関する特別委員会>

特別支援教育の在り方に関する特別委員会(第7回) 議事録:文部科学省

「論点整理」(案)が切られました。ということについて。

文科省の中だけで考えていることと、内閣の障害について担当しているところとでは、盛り込まれる考えに差があるということを思ったのです。

 

究極!

結局は、差別がなくなることが大事。

土台としての法整備や理念は言葉化されているのだから、それを知ってどう広げていくか。

そして現場レベルでそのためには、どうすれば、差別になりえないかの視点が様々に必要。特に<社会性>と<学力>っていう視点は、個人的には重要だと思う。

そして、学校は「学級に障害がある子もない子も迎え受け入れられる<フルインクルーシブ的>な環境を整えておく」っていうのが、当面の筋なのかな、って感じです。 

 

以上。

「広がるスマホ育児?」

 昨晩から喉が痛い「ハピペン」です。ちょっとやばい……。

 

先日こんな記事を書きました。

inclusive.hatenablog.jp

 

そして言っているそばから、2/19(日)の夜、ヤフーニュースのトップに

広がるスマホ育児 医師ら警鐘」という見出しがありました。

 

記事には、小さい頃から、スマホを当たり前に使っていると依存症などのリスクがあると書かれています。

 

このニュースの最後に「スマホ育児どう思う?」という質問への投票があります。

・できる限り避けた方が良い

・ 限定的に使うなら良い

 ・機能を生かして積極的に使った方が良い

・そのほか

 

日曜の時点では「限定的に使うなら良い」が「数%」多く投票されていました。

 

そういう時代なのだなあ、と思いましたが、みなさんはどう思われますか?

是非、現在の投票結果を見てみてください。

news.yahoo.co.jp