かならず幸せになれるいきもの

おしゃべりによる出現する未来から学ぶ

「正しい」や「相応しい」の先

最近「ひれ酒」にはまっている「ハピペン」です。ふぐのひれを入れて呑む温かいお酒です。匂いが独特で心を奪われました。(はじまりは、はまっている酒を紹介するコーナーって意識はない。)

 

6年生が巣立っていって、残る5年以下の子どもたち。

「掃除をするよー」って言うと、みんな掃除をする。

「座るよー」って言うと、みんな座る。

「ちゃんとするよー」って言うと、みんなちゃんとしようとする。

 

「あれー……(何もかもがスムーズすぎる)。」

 

おおっと!

次のステップが、今までと違いすぎて混乱するぜっ!!

 

この間までは、「意志」を育てていたような感じ。

いろいろな子がいる環境でも、自分なりに正しいを選択して動くこと。

その「モデル」が変わったから、スムーズさが少し上がっている。

たぶん彼らには「多様性を認める」がかなり身に付いていると思う。

どんな子が教室にいても生きていけるだろう、と思う。

 

さて、その先……どんな能力を付けるか?

子ども一人ひとりが社会に出るにあたって、一人ひとりが自分の力で生活できるようにしていくにあたって。

これまでは、社会生活のため、自分自身が生きていくために「正しい振る舞い」や「時と場合に合わせた相応しい振る舞い」を指導する視点が強かった。

 

じゃあ、「正しい振る舞い」「相応しい振る舞い」が出来るとしたら、あとはどんな能力が必要なんだろう。

 

当然挙がってくるのは「読み・書き・そろばん」的な知識の群。

ただ、彼らは定着に時間がかかると言えばかかるので、計画的に教えれば進めるって保障があるわけではない。それ以外には何があるだろう?

 

これまで「ソーシャルスキル」は、本当によくやってきた。それが身に付いてきているってことだから、それを生かした何かなのだと思うのだけれど……。

 

より「チームワークや集団を生かして何かをする」ってことができるかもしれない。

日々何かを「目指して」、軽い行事的なものに「向かって」、「みんなで役割分担をして進んでいく」というのが楽しいかもしれない。カリキュラムマネジメント的に何かできないだろうか。

 

合奏もできるだろうなあ。

日常生活を越えた学校生活を提供することが、成長につながる」だろうな、と思う。

 

「どんな力」を付けたいか、「どんな経験」をさせたいか、「どんな理想像」に向かっていくか。

 

これを検討しないとはじまらないなあ。

 

ロングの休み時間を狙った「支援級のイベント」みたいのはどうだろうか、来たい人は来てねって感じで、用意をしておいて。

要は、支援級の「オープンキャンパス」的な感じで、支援級を開放して過ごす企画。

これに向けて、準備をする中で「知識を身に付ける」「ルールやマナーについて考える」「話し合いをする」などの活動を計画する。

 

もう一つ視点が浮かんだのは「受け身」の立場ではなくなったということかもしれない。これまでは6年生に応じて、どう発信するかというのが、暗黙のルールになっていたように思う。

それがなくなった今、中心は変わって、5年以下の子たちが関わり合い、発信し合う側になったということだ。

 

どう主体的にかかわるか、そのために必要な技術、自分たちでできる工夫を出し合って実現していく力を身に付けられるとよい。

 

「何をするために」「どんな力」が必要なのか、少しでも話し合えるといいなあ。

わざわざ時間を設定するくらいのカウンセリングや面談のときに大事なこと

歯医者で歯を綺麗にしてもらった「ハピペン」です!検診は大事よね。

 

今日はカウンセリングの肝です。

 

わざわざ時間をつくって面談なんかをするときは、もう大抵問題が軽くないことも少なくない。

 

そういうとき、どういう手順で進めるか、手探りでもいいし、直感でもいいし、センスや雰囲気でもいいのかもしれない。それで上手くいかないとは言えない。

 

けれども、少しでも基本を明らかにし、見通しが持てれば、面談やカウンセリングをもっと有用な時間にできるかもしれない。

 

特に「どう介入するか」は、いつも思うけど、本当に難しい。

どう「問題意識を持たせるか」が鍵なように思う。

 

大まかな流れ

1.ここにきた理由を明らかにする。

面談になぜ来たと思うか?

何か問題はあると感じるか?

親が問題と感じることはあるか?

などを聞く。

2.ここの場で何をするかの見通しとルールを示す。

話を聞き、相談者が気持ちよく過ごせるように、周りから相談者への影響が嫌なものでなくなるようになど、協力して変えていけたらいいという旨を伝える。

話はなんでも受け止めるが「なんでもあり」ってわけではなく、公平な立場にあることなどを伝える。

3.問題についての事実を聞く。

どんな時だれがどうなってそれが起こりうるのかなど。

分かる範囲で良いから尋ねて聞いていく。

4.問題についての考え方を聞く。

3と4は同時に行われる。

「考え方」によって行動が起こっていることに気づけるとよい。

5.今までとは違った変化で起こせそうなことはあるか問う。

考え方を明らかにし、どのような考え方によって問題が起こっているかが理解できたら、解決策を考える。

ブレイン・ストーミングで自由に意見が出せるとよい。

6.出た解決策の「成果の見込み」と「難易度」を検討する。

成果があって、難易度が低いものを見つけられるとよい。

それぞれの考え方によって、どの行動ならできそうかなどを検討し定めてもらう。

家庭内であれば家族それぞれが何をするのか「役割」が分担できるとよい。

7.決定した解決策を試し、自分自身を観察してもらう。

上手くいきそうか、続けられそうか、よりよいほうほうがあるかなど、何度か試し、実験を繰り返していかなければ、本当の解決にはたどり着けない。

この「トライ&エラー」のような「問題解決」を自分で使いこなせるようになることを目指せるとよい。

上手くいかなければ、また違った手を考える。

 

いずれも問題意識があり、解決しようとする意欲がなければ、進めていくことは難しい。

その子の立場に立って共感し、受け入れ、認め、話さ時間を積み重ね、社会的に望ましい行動へと導けるとよい。

思いをどう表現するか

電車で、ゆらゆらな「ハピペン」です。

 

今日は友人の結婚式の二次会でした。

 

人が好きな、本当に好きな、ゆえに大切にされている友人の二次会だったのだな、と改めて感じる。

 

「どんな人も大切にする」そういう思いを感じる。誰をも大切にする絶妙なバランス。

 

そこで、感じたのは、「思いの表現は人それぞれ」ってこと。

 

そういうおめでたい会の中で、どうやって何を伝えるかは予測できない。無限大の可能性があることだと思う。

 

その中で練りに練った答えが、どうしても響く。

 

申し訳なさとか、感謝とか、もっと頑張らなきゃ、もっと適う人間にならなきゃ、とか。

いろんなことがよぎる。

 

その大切な時に、かかわらせてもらっていることを愛おしく思う。

 

確かに、自分も、その相手も存在していて影響していることに驚愕する。

 

時間とか関わりを越えた温もりを感じて、お返ししたくなる。

 

生きていてよかったって感じることを伝えたくなる。

 

これは、「つづく」の話なんだと思うけど、生きるってそれくらい日常の中にどうしようもない輝きがあって、嬉しくてたまらないものなんだって、そう思えたらどんなにいいか、って思う。

 

子どもをキラキラと生かしたい。

そんな日。

最後の1年を振り返った言葉から

二日酔いの「ハピペン」です……。

 

以下のような言葉に裏はないか?(荒んでてすみません)

⑴○○先生のクラスでよかった!

 

 

 

(だって私はいじめられなかったから)

 

⑵○○先生の授業分かり易かった!

 

 

 

(私にとっては!できてない子は知らない)

 

⑶○○先生は私にも優しくしてくれた!

 

 

 

(先生は……クラスメイトは?)

 

クラスの子どもはクラスの子どもに無責任でいいか?子どもだから?それって子どもの子ども化を起こしてないか?

教師は何の成長に責任があるのか?学力?一部の子に優しくする心?それって生きてるって言えるのか?

 

みんな自分のことばかり。クラスが見えていない。

「みんな自分のことばかり」これも一つの正体だと思う。自己正当化による自己欺瞞。

いきすぎた個人主義、いきすぎた自己責任論。

 

理想自己が育たない教室。

理想自己が低い子ども。

喰い物にされる弱者。

排除される立場の弱い人。

自己欺瞞で見ないふりをしていたもの。

 

学校からの卒業。

それは、一人ひとりが、学校で被らされていた殻を破ることなのかもしれない。

「評価」「管理」「同調」「混沌」「比較」「差別」「批難」「雑言」「怠慢」「暴力」「破壊」などの殻たち。

 

子どもたちは次のよりよくへ。悪いものは置いて、良いものは残して進んでいってくれたらいい。それが卒業。

 

学校がきついメリットもあるか。

相対的に、家が安心できる場になる子が増える、ってのはある。

ただし、家で安心できない子は荒れる。

 

学校自体は好きだったかもしれない子どもたちの話。

学校をつまらないものにしない教師でありたい。

 

卒業式が終わって

幸せな感じがする!「ハピペン」です。

前を向いてると感じる

まず、単純に浮かぶ感想が「前を向いてる」と感じるなあというもの。

別れを惜しみすぎず、別れたいってわけでもなく。

「もう大丈夫」って感じを受けた。

そう、もう大丈夫なんだと思う。

問題は、そこじゃないから、ってことなのかもしれない。

じゃあどこって?

安心が一つ増えた

卒業式を見て、安心が一つ増えた気がした。

「乗り越えられる力、巣立つ力、自分の足で立つ力」のようなものを感じた。

だから、卒業できるんだろ!その力が育ってなかったら、お前の仕事はなんなんだよ!と言われそうだが、姿を見て、力があるなあと感じて、安心できるのは、実際には今日がはじめて。

理想は、「自分のためにみんなを殺しすぎず、みんなのために自分を殺し過ぎず」だと思う。

けれども、「自分のためにみんなを殺し、みんなのために自分を殺さない」が起こっている中で、よくお互いがお互いを受け入れて、認め合って、存在を「あり」として、巣立っていったなあと思う。

強制や恣意がない中、全員が自由にダンスを踊りながら舞台に上がって舞台から降りていったようなイメージ。

オレらは決して手を取り合わないけど、確かにみんなでそこにいた、みたいな。

1年間、一度も見られなかった姿を今日の放課後に見た。

それこそ、ずっと言っていたような、「みんな」って姿かもしれない。

3Fから窓の外を見ると、これまで、責められ続けた子と周りの子たちが4人で放課後わざわざ学校に来て遊んでいる。しゃがんで話をしている。(卒業したんじゃないのかい!?っていう卒業式の日あるある)

階段を駆け下りて職員室でみんなに伝えた。

私自身は、学校生活の中で「許容」されることを望んで行動していたと思う。

けれど、そこには許容できない理由が存在していたのだろう。

そこじゃないからの正体である。

ピアプレッシャーっていうやつなのかもしれないし、集団の自尊心が低いなど。

学校が嫌いなんじゃない。学校の活動・学習内容が嫌いなんじゃない。

ある集団・枠組み・雰囲気・空気が苦手で嫌いで自分を黒くするだけ。

それが社会でその社会がその社会に乗れない人を排除していて、その社会に乗れない人を障害者って言いますってなら、そう。

(じゃあ、そんなしょうもない社会をつくっている人たちは、なんなの?って思うけど。いいから、障害者を増やすのをやめようか。)

まあ、要は、舞台のルールが複雑化してしまったということかもしれない。

舞台に上がるのも下りるのも難しくなっていったわけだ。

「芽は育っている可能性」と「根が張っている可能性」

6年間の中で育てる力の真髄は、6年間の学校生活で良い姿を見せられることではないだろう。

過酷な舞台で育つことも、一つ必要なのかもしれない。ただ、それは結果オーライだから思えることだし、一部に許容されていればいいってわけじゃない。(それじゃ過酷な舞台の範囲が変わっただけだ)

ただ、少なからず、卒業後に生きる力や伸びるための力は蓄えられているってことだ。

人間を許容する力の芽が出ていたり、学校生活では発揮できなかったけれど根が伸びていていつでも咲く準備はできていた、と。

圧力の中を生きる力

私たちは、見えない圧力に負けていただけで、圧力さえなければ、ってことなんだ。

その中では、圧力を生きる力はできただろう。言い換えると、イツメンを見つけて、やり過ごす力っていうような気がする。

問題は、過酷な舞台、圧力の中では、そのルールに従えなかったものが犠牲になる。

いじめ、不登校、学級崩壊などの形でそれは現れる。

放課後に見られたような姿を、学校生活の中でも出せることを目指すのは悪いことじゃないんじゃないかって思う。

だからこその飛躍

ただ、どの子どもも今回はその圧力の中を生き残ったと言えるかもしれない。

このまま不登校とか引きこもりって可能性だってなくはないわけだったけれど、育っていた芽と根に救われた。

圧力の中の辛さを知っている子どもたちは、もしかしたら、この先の人間関係で優しくできることが増えるかもしれない。

あんな辛い目に、もう誰も合わせたくない。そう考えられる可能性もある。

私はあなたを受け入れるよ」こんな子どもたちに育っている可能性があるのだ。

※ただし、同級生が見ていないところでなら、ね。

みんな「いじめ」を人質に取られた

からかい、けり、パンチ、無視、菌扱い、いろいろな内容がいじめアンケートでは挙がる。

それが一番怖かったのだと思う。それで当たり前の正しさも空気を優先して選べなかった。

その空気をつくった正体はなんなんだろうか。

原因はもうとっくに見えなくなってしまったけど。

もしかすると、本当はシンプルだったのかもしれない。複雑化したルールにはダメなこと、良いこと、イライラすること、不安なことが積み重なりすぎてもう誰も処方箋を出せなかった。

教育の奥深さを知る

着地点の着眼点は一人ひとり違うと思う。

卒業後のその姿を狙っていたとしたら、大したものである。

それで、付く力もあるのだからなんとも言えない。

ただ、そういうのは人それぞれのプライオリティなんだろうか。(あと学校目標ね)

ただ一言、言えるのは、教育は討つって言っていいのかってことだ。

賭けで、不登校やいじめや学級崩壊があって乗り越えて良い姿が出ればよしってことはあり得るんだろうか。

それが修復できなかったらどうだろうか、と。

「オレだって本当はやりたくなかった」

「もっと優しくした方がいいって思ってた」

そんなこと言っても「いじめられた記憶」「不登校」「不安感」は消えない。

やっぱり、学校生活内で心地よい集団が経験できた方がいいかな。

反動の変数はとりあえず置いておこう。

「許容」されている様は、本当に心が躍った。

そんな卒業式の日。

フルインクルーシブが担保できないもの

夜中に急に壁掛けの時計が落ちて割れた「ハピペン」です。この先に起こる何かの身代わりになって私を守ってくれたらしい。先輩が言うには……。

フルインクルーシブが担保できないもの

フルインクルーシブが担保できないものは、「その子に合った個別の学び」だと思います。

10の学級に一人ずつ特別支援学級の子どもがいて、それぞれ通常級の中で学んでいるとする。教科によって周りのみんなと同じことをしたり、時にはその子にあった学びをしたりする。

みんなと同じことをするためには、大人のサポートを必要とする子は少なくない。

みんなの中にいながらその子にあった学びを提供するには、学級内に複数の大人が必要だと考えられる。

また、集団の独特の環境が苦手で集中しにくい子もいる。

やはり、その子が最大限に伸びるための、その子に合った配慮がされた場は必要で、その場での「個別の学び」は必要だと言える。

現行の特別支援学級の教育課程

現行の特別支援学級の教育は、弾力的で柔軟な運用ができます。

子どもの発達・成長に必要な力であれば、その力を付ける活動を取り入れることができます(とても大雑把な表現ですが、「総則」を基にした捉え)。

一人ひとりに合った「ピンポイントフィッティング」を提供することが可能なのです(それだけ彼らはピンキリで多様な価値観を受け入れるシステムでないと運用が難しいってことなのだろう、と捉えています)。

それは、自己実現と社会参画のため。自己実現と社会参画のための力について「どんなことをすることによって、どんな力がつくのか」が問われる。

 

この問いに適うために、個別の学びか、集団の学びか、どちらがよりその子が10年後に生きる社会の実態に合うかというのが必要な視点。

 

文科省が「インクルーシブ教育システム」として示していることをまとめると以下のようになる。

子どもの実態に応じて学びの場を変える

可能な限り「共に学ぶ」ことの追究

連続性のある「多様な学びの場」の活用

『インクルーシブ教育ってどんな教育?』P9

文科省の示す「インクルーシブ教育システム」には、このダブルスタンダードがある。

(このシステム自体は現実的だと思う。)

 

それは、将来の自己実現と社会参画に必要な力が、個別で学ぶべき力もあれば、集団で学ぶべき力もあるからだ。

 

特別支援教育の在り方に関する特別委員会」でもよく話されていたのだけれども、やはり、「視覚障害」の児童生徒は「視覚障害者」として社会で生きていくための独自に蓄積された学びがある、ということだった。

 

このニュアンスを、特別支援学級の子にもあてはめると、フルインクルーシブの時間だけでいいのか?というのは自然に出てくる問いです。

「原則を通常学級」に

だから、言ってしまえば、よく言われる請求は「原則を通常学級」ということだったりする。これは、サラマンカ声明にある言葉を基に言われていることだと思う。

しかし、条約でも法律でもそれは明示されているとは言い難いため、難しい請求と言える。

よって「フルインクルーシブは必要ない」とは言ってない

実際的に学校がすべきことは、「個別の学び」も「集団の学び」も、両方担保してあげることで、自由に(当たり前だが、そのときの児童生徒の気分で好き勝手にではなく、身に付けたい力によって)選択ができるということだ。

「個別の学び」“だけ”でも、「集団の学び」“だけ”でもいけない。

 

フルインクルーシブが可能な風土は、特別支援学級の子にも通常級の子にも居心地の良い居場所なはずである。

特別支援学級の児童生徒がいない方が居心地が良いという捉えがあるとしたら、その集団はフィクションである(現代の実社会もフィクションを生きているところがあるのかもしれない)。

将来の社会は、ダイバーシティで、多様性を受け入れられる集団で過ごす経験は必ず役に立つと考えられる。

 

しかし、通常級が、学級崩壊、違いを認められない風土、特別支援学級児への差別・いじめがあると、集団の学びに参加することは難しく、「自由に選択できる環境」は担保しにくい。

 

「個別も集団も選択できる状況」を担保できることを目指すのが当面すべきことだと思う。

ただ、集団の中で個別の学びを担保できる可能性もある。子どもの実態によるけれども、「授業のUD」や「クラスワイド」な支援などの考えはその一部。

だから、必要な考えは「どこを目指すか?」であって、そこを目指すためなら方法はいくらでもあるのだと思う。

結論として自ずと出てくるだろうと思うのは、通常級の子にとっても、特別支援学級の子にとっても必要なのは、「フルインクルーシブできる学級」を目指すってことだ(以外と当たり前に言葉化できていなかった表現が見つかってちょっと嬉しい)。

「前提」と「責任」と「きょうどう」

そのために必要なことは、先日言った「インクルーシブは当たり前のこと」というような「前提」を手に入れることだろうって話。

inclusive.hatenablog.jp

 

それと、学級担任が「自分のクラスの責任」は「自分だけにある」という勘違いをして、「他のクラスに無責任にならないこと」だと思う。(自分のクラスは自分だけのせいじゃないって無責任になっていいってことでもない。ただ、学校のどの子どもにも現実的な範囲で責任を感じていいってことが言いたい。責任を感じられる範囲は学校規模で全然違うだろうから。その責任の分散はプロとしての仕事の在り方としてありかと言うのも考えなきゃいけないかもしれない。)

この責任の分断が、結局「子どもの成長を奪っているかもしれない」ということを忘れないことが大切だと思う。

 

どの先生がどの学級の子どもとも気兼ねなくかかわれるような、学校の風土があるといいな、って。

「私のクラスは私のものです」て責任感で学級を管理している学級ほど、多様性を受け入れにくくなると思う。

たとえば、担任以外の注意が(担任の注意も?)入らないクラスがあるとする。そのクラスが注意を受け入れていないのは、他人を受け入れていないのは、子どもなの?担任なの?って話しだ。

担任の注意だけ聞けるクラスがある場合もある。子どもたちは、「その先生の価値観」しか受け入れられなくて、イレギュラーに耐性がなくなっていく。それは、飛躍して捉えれば「自分で考える」ってことができないってことだと思う。(担任の価値観の幅が広く、自分で考える力がないわけじゃないけれど、担任以外の昔ながらの価値観や指導言にピンと来なくなるってことはあるかもしれない)

管理された中では、その管理からついはみ出てしまう本能的な振る舞いと、その管理にされた環境に寄った依存的な振る舞いしかできない子がそうやって生まれるんじゃないか、って思う。

 

だから、まず先生同士が多様性を認め合うってことが必要になる。(よく言われることだけれども。)

先生たちが先生たちを「支援」し合う風土ができれば、本当は子どもたちが生きやすいんじゃないか、って思う(十分助け合っているって人たちも少なくはないだろうけど、それが誰にでもどこにでも起こらないってことは、なぜ?って)。

競争から共同・協同・協働へってだけの話かな。

 

インクルーシブ教育ってどんな教育? (インクルーシブ発想の教育シリーズ)

インクルーシブ教育ってどんな教育? (インクルーシブ発想の教育シリーズ)

 

 

「何のためのインクルーシブか」の解

これからインクルーシブ教育を進めていく上で、「『なぜインクルーシブ教育をするのか』という問いにどう応えるか」という課題があると、全国障害学生支援センターの殿岡翼さんが言っていた。

 

みなさんは、なぜ共生社会を目指す必要があると思いますか?なぜインクルーシブ教育が必要だと思いますか? 

 

私は、これを聞いたとき「え?なんでだろう?」と思いました。単純に「やった方がいいことなんだからやればいいじゃん!」と思いました。

 

けれど、一般的にはそう簡単にはいかないものなのだな、と日々痛感しています。

そうですよね……。

「じゃなきゃそもそも差別なんてないからね!」

 

今回の話は

条件付きのインクルーシブは存在しない

学校が『勉強』も『インクルーシブ』も『よりよく生きるための価値観』を手に入れるという意味で同レベルの重要度で扱うべきだ」という話に収束していきます。

 

結局、差別解消法が成立する理由は「差別があるから」だよね。

本当は、そんな法律なくても差別ってない方がいいよね。だけど、つくるのは、法的根拠がないって言い返してきて差別する人がいるからだと思うんだ。

 

たとえば「インクルーシブ教育」は、「インクルーシブ教育」を推進していこうと考えなかった時代にとっては新しいものなのかもしれない。

「なぜインクルーシブしなければならないか?」という疑問にそもそも差別性があることに私たちは気づかなければいけない。気づけないほど当たり前のように私たちは差別をしている世の中を生きているってことだ。排除されている人がいて、排除をしている私たちなのに、それに自覚がないがために、それを改善しなくちゃいけないんですか?なんて問うているのだから。

 

「なぜインクルーシブしなければならないのか?」って、おい!

「なぜインクルーシブしなければならないのか?」

その背後には「なんで今までしなくても良かったことをわざわざしなきゃいけないの?」って言葉が隠れているように感じる。

理由の一つは「苦しんでいる人がいるから」としかいいようがない。

「なぜインクルーシブしなければならないのか?」と言える人は、その苦しんでいる人の存在が見えない。気づけない(気づこうとしないだけじゃないかと思う)。

そういう意味では、ここがインクルーシブの難しいところなのかもしれない。自ら手を汚さず、目もくれず抹殺できてしまうからだ。「だって、今まで私それで何も困らなかったよ?今までそうだったんだから、今までが正しくない?」って。

 

そういう人は、自分の中の価値観しか自分を生かす根拠がない人々ってことだ。ここに人間がよりよく簡単に生きやすくなるヒントがあることに、私たちは気づかなければならないと思う。自己責任論、個人主義の怖いところだと思う。

 

「インクルーシブ」をしなきゃいけないものだからするでは、ダメだろうか?そこで腑に落ちない感じがもっている感情や考えはなんだろうか。

 

合理的配慮を「ずるい」という子どもたち

その子が安心して参加するための配慮を、「ずるい」と言って責める子がいることがある。

声が小さい子がマイクを使う。集団のしゃべり声が嫌いな子がイヤマフを使う。

このアイテムの使用を「ずるい」と言う子がいる。

 

その「ずるい」という指摘は、存在否定に近い、ある条件を受け入れられないなら「いるな」ということだ。

アイテムを使わないでいられないんだったら、「ずるい」ってわけだ。

 

合理的配慮は、「保護者、教師、本人」で合意形成をして行われているだろう。「ずるい」という子もそれが相応しければ受けられるってことにしてくれればいいだけなのだけど……。

 

二つの面白い視点がある。

 

一つは、その合理的配慮を受けている子が仲の良い友達だったら、「ずるい」と言わない可能性だ。反対に、仲の良い子じゃなかったら「ずるい」と言う。

このパターンからは、もう差別しか感じない。そもそも内容に対して言っているのではないということだ。「対・内容」ではなく、内容はあくまで攻撃のためのネタでしかなく、「対・人」に「ずるい」と言っているってことだ。

だから、やっぱりそれは「存在否定だよな」って思う。なんでもいいから、陥れたいってだけじゃないか?

 

二つは、周りの子が「ずるい」って言いさえしなければ合理的配慮「してあげますよ」ってやつ。そこにあるのは、自己保身だろうと思う。自分が「ずるい」と喚く子どもに対処しなくていいなら、なんでもやれます、って。自分が大変じゃなきゃいいですよ、と。もし「ずるい」って子が出てきたら「納得させられる理由を考えてください」って。

 

で、この「条件付きの配慮」って「配慮なのか?」ってことが言いたい。

絶妙に絡み合う「なぜインクルーシブしなきゃいけないの?」と「条件付きの配慮」

「インクルーシブ・共生」を目指した「合理的配慮」は「子どもたちが納得できるか」などではなくすべきことだ。

必要なのは「インクルーシブすることでどんな得があるか」とか、「合理的配慮をしたらずるくてオレらは損だ」とかの話ではない。

配慮は「交流級にいるからなし」ではなくて、必要に応じて受けられるものだ。その当たり前さを指導していくことが必要なのだろう。

たぶん、この配慮への損得の感情が少しでもあると腑に落ちなさを生んでいるのだと思う。

 

「なぜインクルーシブするのか?」は、「勉強することに得があるか?」と同質の問いで、学校で勉強することの根拠に「法律」がかかわってくるところがあるように、「インクルーシブ」も「法律」で定まっているからと言えるような、それくらい当たり前のことでしかない。

しかし、それでは、「具体的な効果が、エビデンスが」と言われるかもしれない(たぶんそんなんばっかだ。あと、それで社会・学級が成り立つのか、とか)。

 

ってことは、問題は、「勉強をすることで幸せになることができている人がいる可能性がある」ように、「インクルーシブすることで幸せになることができている人がいる可能性があるか」っていう話になるかと思う。

それを覆すには、実例を増やすしかない。また、子どもたちが「インクルーシブする側になる価値」を選択したくなるにはどうするかを考えていくしかない(国が未来に必要だって求めているんだから)。

 

「インクルーシブの価値」

「インクルーシブの価値」と「勉強の価値」。二つに違いはあるのか?

どっちの方が必要ってあるのか?

私は「インクルーシブ」にある価値は、根源的には「共にいる喜び」だと思う。

そして「共に生きる喜び」は生きるってことそのものなんじゃないだろうかと思う。

「勉強」みたいにいつかの自分の生活費につながるかもしれないこと、自分の自己実現につながることの方が「より学びである」ってことはないだろう。

私は「自分がしたいことができたけど、自分以外の誰かが地球に生きている喜びは一切感じられない」という人間もありだ、とは思えない。


結局、「学校は『勉強』も『インクルーシブ』も「よりよく生きるための価値観(や視点)」を手に入れる場である」と捉えることができれば、「勉強」も「インクルーシブ」も重要さや無理強いしたくなるレベル、価値は等価である。


「インクルーシブ」が<ある>より、<ない>方がいいかというのを考えてもいいと思う。存在を認め合えないより、存在を認め合えた方が単純にいいに決まっているだろうけれども。

 

勉強の大切さは主観か?

「勉強の大切さ」と「インクルーシブの大切さ」どちらの方が世の中で多く語られているだろうか。どちらの方が耳にするだろうか、目にするだろうか。

私は、勉強だろうと思う。

もしそうだとすれば、勉強についての大切さはいろいろな人が説いているわけで、多くの人に勉強についての客観的な意見は入っているわけで、勉強を大切と思う一般論は少なくないと考えられる。

ここで、問題に気づく。「勉強は『客観的に大切』という価値観が存在できている」が「インクルーシブは『主観によって大切』かどうかを判断している」ということだ。

 

使い古されたフレーズ「学校は『勉強』するところ」。

これと同じように「学校は『インクルーシブ』するところ」って当たり前さがあってもいいってことだ。

 

だから、なんで「インクルーシブ」の価値を認められないのか

「インクルーシブの価値を認めない」、それって、差別なんじゃないだろうか。

もし、「合理的配慮」ができないとしたら「過度の負担」ってことが理由として挙げられる。

たとえば、「子どもたちの『ずるい』を治めることへの『負担』」があるかもしれない。

しかし「ずるい」という子どもも、治めることを「負担」と思う大人も、ここに登場する人々はもはやみんな「自分の感情しか優先していない」。

私たちの「枠」で負えなければ、あなたは「枠に入れられません」ってことだ。

ここに生まれるインクルーシブしてもらうっていう主従関係はなんなのか。

 

そもそも「その者のまま」で存在させなかったのは誰なのか?

声が出せないことによるマイクも、周囲のざわつきに対処するイヤマフも、「その子」にとって必要なのであって、僕たちは関係ないのだろうか。

「その子が勝手に困っているだけ」なんだろうか?

たとえば、「僕たちが変わらないことを選んでも、その子にいてもらうためにその子がみんなのためにしている配慮」とは言えないのか?

平等にするのは、アイテムの条件ではない。「そこで学びたい人がそこで学ぶ権利」だ。

彼らが権利を侵害することを回避るために、その子なりに配慮を手に入れていると言ってもいいかもしれない。

必要に応じて、特別支援学級で学ぶ必要はあると思う。実際見ていても、まだまだ全然それが必要な実態があると思う。そうした特別な場がなければ行動的にも発達的にも伸ばせないものがある。

ただ、それはイコール相応しくないからそっちへ行けって話ではない。本来どちらも居場所であって、その子の学びに応じて選択すべきなのだ。

「社会に参加したいに気持ちにさせるため」「社会に参加する力を身に付けるため」の両面から考えても両方の場がほしい。

 

「インクルーシブをする価値」というのが主観ではダメ

どの子も安心して学ぶためには、「インクルーシブ」がどこにもかしこにも前提であってほしい。「インクルーシブをする価値」というのが主観的な判断ではよくない。

したい人はするけど、したくない人はしなくてもいいってものでは困るし、そもそもそういうものではないのだから。

それなのに、子どもが「ずるい」って言ってしまうから、「過度の負担」ってことで「しなくてもいい」という選択肢ができる現実があることが、苦しいなと思う。

「勉強」については多くの人が携わるから、勉強ができないことによって苦しむことは回避しようという感情が強いけれども、「インクルーシブ」については多くの人が苦しむわけではないから、回避しないくていいという感情でも「まあ、いっか」ってことなんだろうか。

その「ある姿でなければ否定してもいい」っていう姿勢に、違和感はないのだろうか。

たとえば、私たちが目指さなければならないのは、「インクルーシブは『すべき』といった慣習であって、客観的に必要だと思えるようになること」だ。

 

インクルーシブの考え方 

まず、どうすれば「そこに存在することができるのか」これだけを問えばいい。

ほとんどは「『否定的な言葉』さえなければいられる」

そうして、できることを役割として与えればいい。

そして、「どうすればある姿で存在できるのか」は、その次の話だ。

その次にたとえば通常級でやっていること。みんながしている活動をするためには何が必要かを考える。当然これは、「みんなと同じ条件で同じことをすること」を目指すのではなく、「同じことをするには」「同じことをすることに近づくには」を目指そうとするくらいのものだ(保護者の願いが入ってくると、また別)。

 

「条件付きのインクルーシブ」は、「インクルーシブできている」とは言えない

「ある条件を出したとき」、それはすでに「その者のまま」を受け入れていないということになる。条件は、そのままでは、その場にあなたは相応しくないという宣言だ。

もちろん、言いたいことは「なんでもかんでも受け入れろ」ってことじゃない。

支援を要する子だって、「みんなが作りたいものに合わせて頑張るよ」。でも、それはイコール「みんなには支援を要する子も含まれるんだから、みんなも支援を要する子に合わせてよ」ってことだ。

みんなが条件を出すように、こっちも条件を出すだけ。

そこに主従関係はない。

伝えるという活動を受け入れるから、みんなに聞こえるためにマイクを使わせてください。

うるさいのを受け入れるから、みんなといるためにイヤマフを使わせてください。ってだけの話だ。

それを、「ずるい」から、「マイクを使うと嫌な気分になって教室にいられないから使うな」とかってインクルーシブされる側に「インクルーシブしろ!」って求められると、もうね、なんて返そうか迷うね。

 

たとえば、そっちが抱く「ずるさ」とこっちが抱く「ずるさ」は同じだよね?

見方を変えれば、

マイクを使わなくて発表できることの方が「ずるい」。

「その能力をよこせ!」って話だ。

イヤマフを使わなくてもざわついた教室にいられることの方が「ずるい」。

「その耳をよこせ!」って話だ。

でも、それってできないよね?それだけの話で、だから、道具を使うってことじゃないのかな。

見えてくるのは、益々ただ違いを責めたいだけ、普通でないことを悪いって言いたいだけじゃないか、って感じがしてくる。「オレらに対するずるさは解決しようがないから無理、でも、お前のは取り外せるよね?だからダメ」みたいな。

だから、その個人主義と自己責任論はなんなのだろうか。

(その根本原因は、「知らないから」ってことなだけなんだと思うけどね。上の方の「仲が良ければ言わないんだから」、その子が重要な他者だったら、そんなこと言わないんだから。共に生きていてほしい。共にいてほしい。ってなるんだからね。一人の命から二人分の命になるにはどうするのか、ってね。)

人間がそこに「いること」の価値を高める

さあ、どんな価値観を育てようか?

 

必要な視点は、

集団を値として育つ。一人より二人、二人より三人、多数よりみんなとして育つこと」

個人を値として育つ。昨日より今日、さっきより今、現在より未来として育つこと」

そうして「お互いが『いること』」に価値を感じられるようにしていく。

「共に生きる喜び」を尊いと思えるようになっていけるといい。

「Aさんがいない方がいいとは思えない」。『つながり』から誰にも愛着を感じられるといい。人は愛のある生命は否定できない。

 

そして、それこそが「勉強」と同じに「インクルーシブ」がもたらすいわゆる客観的な尺度であえて言うならば「得」なのではないだろうか?(これをいらないって言えるんだったらもうどうしようもないなあ……。)

 

インクルーシブする側が、みんなに条件を合わせることを条件として提示することが、普通にあると思う。

これまでの価値観がそうだったから、障害者が健常者に近づくことが求められていたから、それを正論みたいに普遍的価値みたいに美徳みたいに振りかざすけど、もうその価値観は古いんじゃないの?ってことを、知るだけでいいから、とりあえず知ってほしい。

 

インクルーシブする側の「もっといいアイデアありますよ」は、いいと思う。めっちゃ嬉しい。

だけど「インクルーシブ?いいよ!でも、その代わりこうしてね」は、やっぱり違うかな、と。

 

それでね、こんな風なインクルーシブについての課題に出会えるのは、私の価値観と違う人がいるからこそで。

inclusive.hatenablog.jp

 

私はその人を包摂できているのか正直分からない。でも、出来る範囲で議論していくしかないところだとは思う。

 

P.S

・「学力」みたいに「インクルーシブ力」っていうのが示されるようになってくるのかもね。道徳的価値、人間性って感じがするけど。

・「インクルーシブ観」も、洗練されてより普及してくるのだろうな、と思う。たとえば、「包含集合のインクルーシブする側が、インクルーシブされようとしないこと」とか「部分集合のインクルーシブされる側が、インクルーシブすることはできないこと」が一般的な考えになってほしい。

「価値観の違いこそが課題を生む」

卒業式まであと3日!の「ハピペン」です。毎日、一つ一つ、課題と向き合って進むしかない。

 

そんな中で、「価値観の違いこそが課題を生む」と感じました。

 

そんな言葉があるか知らないが「卒業式観」ってそもそも一人ひとり違うのではないか、と。

 

もっと細かく言えば、卒業式の中の「コール観」など。もちろんこの辺りは正解のないものだと思う。

 

たとえば、コールを「一人一か所言うか」「複数人で言うところもつくるか」は、経験によるだろうと思う。

この二つに価値観の違いがあるということにわざわざ気づかなければ、そのときの実態によって自然に勝手に「コール観」は変わるはずである。(要はだってどっちがいいってないし、どっちでもいいよね?)

「コール観」の違いに良いも悪いもないから、実際は、単に大規模の学校か、小規模の学校かといったちょっとしたことで、「どんなコールにするか」は変わるだけの話である。

 

だから、こういうコールの在り方こそ至高ってことはないはず。

国レベルの教育政策の違いのせいで、社会に出てから「君はゆとり世代だからなー困るなあ」とか言われちゃうみたいに、「いや、君は卒業式のとき一人一か所だったでしょ?それじゃあなー困るんだよ」なんてことは絶対言われない。

 

だから、絶対的な「コール観」てないと、私は思う。

 

ただ、ここでまた、「参加」か「力」かみたいな話が出てくる。

優先順位は「ある『枠』を達成する力を一人ひとりが身に付けることなのか」「活動にみんなで参加して活動を達成することなのか」どちらだろうか。

実際は、どちらとかくだらない話をしている暇があったら、上手く設定してどちらも達成したらいいと思う。

しかし、執拗な「コール観」などがあって、どちらか一方しか優先しないという考えが起きた場合、両方を手に入れることはできない。

 

その優先順位の違いが「価値観の違い」ってことだ。

 

その価値観の違いは、どちらが正しいとい最終的に決められるものではないと思うが、「その価値観を擦り合わせる」という課題が生まれる。

(法か、慣習か、道徳か、生産性か、経済的か、幸福度か、将来か、どれもクリアしてるとしても頑なな人もいる。)

 

ただ、これは悪いことではない。

価値観の違いに出会って、課題を見つけて解決していくことは、生きることの意味の一つかもしれない。

一つの価値観しかなければ、そこには課題は存在しない。いつもいつも通常営業で日々をやり過ごすことができる。

 

価値観の違いにぶつかった「居心地の悪さ」は、「自分にとっての大きな成長チャンス」の可能性がある。

大事なポイントとして、「一人で戦わなくていい場合に限る」って感じがするけれども。

 

「価値観VS.価値観」の中で、こちらも一人で戦わされてしまうわけではないからこそ、こういう前向きな考えができる。

 

どんな価値観にも味方はいる。どうしてもその場で自分の価値観に理解を示してくれる人が自分しかいないときは、無理しなくてもいいと思う。

 

ただ、あなたの価値観は悪いってわけではないってことは忘れないこと。

たとえば、悪いのは、その価値観を見直さないことだと思う。

そして、新しい価値観は否定されがちで、時代が追いついていないだけのこともある。

今は、過渡期だってことだ。

 

ただ、ある価値観が誰かを不幸にしていて、またある価値観が誰かを幸せにするなら、その価値観は検討に値するってことだ。

 

ある価値観を大人が辛いから拒否しているのか、子どものためかも吟味する必要がある。別に大人のために価値観を擦り合わせる必要はないんだ。

 

すべて子どものために。

目の前の子どものため、未来の子どものために相応しい価値観を示せる大人でありたい。

自分の古い価値観を崇高化してさも正論、さも正解のように振りかざしている大人は、その価値観から外れる子どもを平気で見殺している自分の異様さに気づいた方がいい。

 

どの子も好きな在り方で生きていいんだと思うよ、本来この世界は。

 

そんな中で、違った価値観に出会うから「自分がしなければならないこと」「自分がすべきこと」「自分がしていきたいこと」が生まれるように思う。

 

決して「価値観の違いを否定しない」で。

そこからが始まりだということだけは忘れず。

そこからこそ「始められること」への温かさにだけは鈍感にならず。

「価値観の違い」を受け入れて、愛おしめたなら、見える世界がある。

 

「何に気づいたか」は、明日の記事で。