かならず幸せになれるいきもの

おしゃべりによる出現する未来から学ぶ

力不足感

たまに正夢を見る(気がしている)「ハピペン」です。正夢を、正しい夢と捉えて、デジャブみたいなのを感じたときには「この道が正しいのだ」と納得するようにしています。(中ニ病っぽいか)

 

入学式。6日ってのは珍しいかもしれない。

 

一年生みんなで入学式をすることができました。ただ、結構ヒヤヒヤだった。

支援の一年生の入学式は、正直賭けだ。どうすれば絶対ってのはない。

引き継ぎと保護者の方からの情報でできる限り安心して落ち着いて臨めるようにする。

それでも、人の数、緊張感、独特な雰囲気、きちんとした格好。「いつもと違う」だらけの場に、支援も負けそうになる。(ってか基本負けるだろうな。)

見通し、絵カード、好きなもの、落ち着くボディタッチ、言葉掛け、いろいろと用意するけれど、それぞれの質がどんなだとその子に入るのかは、十分には分かっていないので、経験による手探りと勘になる。

 

今回の自分なりの自分への点数は50点。

五年目だけど経験が足りないと思った。

もっと安心させる術があったのかもしれない、と力不足感がよぎる。

 

全員で入学式を迎え終えることができたのは良かったけれど。まあ、ちゃんとさせれば支援が素晴らしいって話でもないだろうけども。

その子らしく&場への適応のちょうど半々を過ごさせた感じだなあ、と思う。

 

「静かにする」「座る」が出来ればよしって思うけれど、これは誰にとっても簡単ではない。

 

どうすれば「自分も周りも気持ちよく過ごす力」を付けられるか。

じっくり見つめて、学校を楽しんでもらえるように頑張ろう!ってことで。

 

子どもとの出会い

好きなことは「いいね!って誉めること」な「ハピペン」です。

 

着任式ですね。何度か記事にされている話し過ぎない大切さ。でも、何か自分らしさ……なんて贅沢。

 

好きな動物は「ペンギン」。

好きなことは「いいね!」って誉めること。

朝あいさつしてくれたことに「いいね!」をしました。

 

ちょっと長いかな、と思ったのだけれど、2年生の男の子が、下駄箱で「自己紹介いいね!」と言ってくれたので、まあ今年はこの挨拶で良かったか、って感じ。

 

次に教室での対面。

みーんな、お利口さんたち。掃除もやる。やらせようとしても反抗的でない。

いいんだけど、私はあんまり好きでない雰囲気。(初めの印象をあえて素直に書いておこう!後で変わることを前提に……。)

大人の小さい版の未熟な存在って感じの子どもの扱いだと思った。

やらなきゃダメ。そんなんじゃ○年生じゃない。いけません。ちゃんとしなさい。

子どもの言葉を聞きたいところ。「やることはやる。」の指導も重要だけどね。

 

私は、毎年、初日のちょっといつもと違うからこそ出来る彼らの姿を原風景として大切にしている。

初日ってのは、いい姿が多い。

そうできる。なのに、何かが(特に大人の指導のせいかもしれない)影響して出来なくなっていく。それには、心理的な作用もあるのだろうけど、そういうのは飛び越えて、「本当は出来る子」と捉えて、どうすればそれを大人が日常の中で引き出せるかを大切にしている。

 

話していて、みんないい子だと思った。

注意して自尊心を低めてはならないと思う。話を聞いてやれば、たちまちやれる子たちだと思う。

 

私はまだ少し咳をする。すると、すかさず胸を撫でてくれた子がいた。

「そんな子がいるのか!!」って驚いた。

その優しさを壊さない支援をしていく。

出来ないのをその子のせいにしちゃ絶対ダメだろうって思うわけさ。

 

あとは、あれだね、先生が好きって感じは、そこの先生たちが育んだものだってことも絶対に忘れちゃダメだね。

交流の困難さ

今日は職員会議だったり、お昼を何人かで食べに行ったりな「ハピペン」です。

 

ちょっとした配布物、日々の業務に必要な書類、教室整備をして一日が終わる。

開店準備完了。

 

そうして、あとは、子どもの出方を見ないとなんとも言えない。

 

さて、ただ、ただ、思うのは「交流との折り合い」はどこも難しいのだなという感じ。

 

教師のアイデアでいくと、「教師ごとの特別支援観」とぶつかる。

特に年度を跨いで転籍となれば、前担任も黙っていない。「いや、これはできると思うよ。」って話になる。

 

こちらとしては、こちらのまとまりでの活動を思うから、動きや流れのイメージも加味して活動を想像するのだが、スムーズにはいかない。

 

なぜなら「根拠」がどこにあるか分からないからだ。

 

正直昨日から思っているのは話し合いの中で、子どもの気持ちが語られないこと。誰の都合の転籍なんだろう……。

 

それに、特別支援学級において、「保護者」ないし、「本人」の意向は重要だ。

はっきり言って印籠状態。

その言質を取っていないのに、配慮を構想するのは、フライングになる可能性が低くない。

そりゃ、周りもつっこみを入れたくなるわけだ。

 

まあ、最悪なのは、言質を取っても「それを説得して変えるのが支援の仕事だろうよ」って人もいるから、まだマシだけど。

説得が仕事になると本当に辛い。いかに不可能で、よくなくて、ダメか、を示して保護者や本人を納得させるって、想像しただけでも仕事としてひどくないだろうか。

 

現状は、そこまでじゃないから、うまくフライングにならないように、印籠を手に入れて立ち回りたいところ。

 

本当はこちらがきちんと支援観を示せたらいいのだけれど、揺るぎない支援観を示すには、今年は人数的な戦力が少ないのと、ちょっと年齢が足りない気がする。仲間を増やせるかが鍵だけど、もうちょっと見渡せないとよく分からないなあ……。

 

ひとまずは、パートナーが働きやすいことを優先したい。だから、空回りしないように気をつけないと、だ!!

教室環境の整備

今日やったのは、教室環境の整備。

 

教室に入ると、目の前に巨大なプリンターと雑然と置かれた教師机2つ、胸くらいまでの黒い棚3つ、長机2つ。

教室に入って左奥へ。パーテーションの向こうには5つの机が並んで、パーテーションに張り付いた黒板には「進級おめでとう」の文字。

手前の教室の黒板は使われていない。ロッカーがある関係で後ろを使っているみたい。

ロッカーの上には使っていない本・ラジカセ。奥の床にはタイルで休憩スペースとブロックの引き出し。

机同士の距離もまあまあ近い。手を伸ばせばちょっかいが出せる距離。

ロッカー側の廊下側には使っていない長机が2つ。

 

「資源ありすぎじゃね!?」

それに、黒板は前のを使って、ロッカーも使おう!

 

全部隣のプレイルームという部屋に移動した。プレイルームが実質的に必要かは子どもを見てから決めてもおかしくない。そしたら、構築すればいいよ。

 

教室は長机1つ、教師机1つ、子どもの机5つに。

 

「安心できる、落ち着いて学習できる」を構築するために一生懸命になってみよう、と思う。

多少手探りもあるだろうけども。

支援担任としての自立の1日目。

「エピソード記述」とは?

エピソードって言われると、スターウォーズ級な感じ!?とたじろぐ「ハピペン」です。先日、「リフレクション」と「コア・クオリティ」 ってエントリーを書きました。

今日は、この本の話。

エピソード記述入門―実践と質的研究のために

おさらい

リフレクション=内省

コア・クオリティ=核となる性質(価値観)

自分についてのメタ認知を深めたい私は、これらの言葉が気になった。

私は、軸を見つけたい。

自分の中には十分にある感じがするのだけれど、説明する言葉が上手く出てこない。やっぱりメタ認知が必要な気がする。物事や出来事の「意味」を探っていきたい。

白いネコは何をくれた?

この本にも、小さい頃からの「行動の動機」には一貫したものがある。と書かれていた。

ALACTモデル 

①Action (行為)←有益な経験を見い出す支援
② Looking back (行為の振り返り)← 受容、共感、誠実、具体性
③ Awareness of essential aspects (本質的な諸相への気付き)←受容、共感、誠実、具体性、対立の概括、「今ここ」の利用、物事を明確にする支援
④ Creating alternative methods of action (行為の選択肢の拡大)←これまでのスキルの全て+解決策を発見、選択する支援
⑤ Trial (試み)←学習プロセスを継続する支援
参考:教師の経験学習モデル (ALACT) | *ListFreak

(原文)http://files.eric.ed.gov/fulltext/ED266102.pdf

上のリストは、実習生がALACTモデルを使うときのものだそうです。
“←”で書かれているのは、実習生を教えるために必要な“教師の支援スキル”だそうです。これは自身に対しても使えそうですね。
(「今ここ」の利用の意味が分からなかったのですが、「今ここ」で使えそうなものを使えってことでしょうね。周囲との対話だったり、今ここで浮かぶ思いを生かすなど。)

②と③のコツが、恐らくだが前にも書かせてもらったこれ。 

「エピソード記述」のやり方

1.たくさんのエピソードをあげる
2.No.1エピソードを決める
3.2を説明できる範囲の背景を説明
4.論理的な解析によって振り返る、価値を探る

痛烈な学び!上條先生とお話ししました。 - 学びとつながりをデザインしたい!より(現在は削除されている)

そうして、小文字のtheory(自分の経験値)を大文字のTheory(学術的知識)に結び付ける

やっぱり、メタ認知を深めるために「リフレクション」は有効なのだろう。

「リフレクション」の具体としての「ALACTモデル」そして、その中にある「エピソード記述」が鍵。

ここまではいい。で、エピソード記述ってなんだよ!な私。

エピソード記述

検索するほどわけが分からなくなりそうなのを堪えて、目についた「鯨岡峻」さん。

エピソード記述入門―実践と質的研究のために この本に頼ることにした。

いくらか面白い。発見もある。

エピソード記述に何を書くか

エピソード記述は、「人が人について『分かる』『分からない』という部分」「人と人のあいだに生まれる『生き生き感』『息遣い』」などの「存在のありようを告げる」。

これらは、行動科学(客観主義、実証主義)の枠組みでは捉えられない。

エピソード記述のイメージ。

相手はどのように思ってその場をいきていたのか、自分はそこで相手の思いをどのように摑んだのか、またどのような思いで関わっていたのか(後略)

P6

記録っていうのは、無味乾燥客観的なものなのだなあ、と学校に入って思った。たとえば、そうやって一般化できるものでないと、研究として価値がないみたいのがあるのかな、と。

けれど、エピソード記述は違う。心とか、思いとか、目に見えないところ。子どもが生きているところを語れる。これをエビデンスと言えるところまで昇華できる能力が身に付いたら、仕事が楽しそうだなあ……。

エピソード記述を行う価値

エピソード記述は体験の「意味」へと向かい、新たな問いを立ち上げ、他者と「意味」を共有することへと向かう

P11

エピソードから見出した意味・本質・メタ認知が、新たな問いにつながり、他者と「意味」を共有することへと向かう。リフレクションの共有と同義だろうと思う。

エピソード記述のコツ

エピソードは何らかの感動や違和感など、自分の心が揺さぶられたときに生まれることが多い

P34

これが、「2.NO.1エピソードを決める」っていう作業のコツになるでしょうね。

まずエピソードがあって、それからメタ観察があるというより、メタ観察がすでに可能だからこそ、それがエピソードとして浮かび上がったとさえいえる(後略)

それがエピソードとして取り上げられた「理由」が大切であると書かれています。

ただ、取り上げた、頭に浮かんだ、心に残ったからには、「そこになんかある」ってこと。これが、結構自分を探る勇気にもなって楽しい。*1

エピソード が満たすべき条件

「描かれたエピソードが満たすべき条件」も示されています。

オーソドックスなやり方は

「①背景②エピソード③メタ観察の提示」

とのことです。

肝は、あくまで目的は「その事態がそのように動いていった意味を探ること」だと書かれています。ALACTモデルの「④新しいやり方の考案」につながる部分だと思います。

 エピソード記述が読み手に伝わるには?

これも面白い。

読み手を説得するのは事象の「重み」である

P161

エピソードをエビデンスとして誰かを説得しようっていうのなら、要は、エピソードによって、書き手と同じように読み手の心も動くかが鍵ってわけだ。(えっ、もう小説家じゃん!?って思う)

 その他

「エピソードが描けないという悩みの出所」という項もあって、私は「関与することで精一杯である」が当てはまるなあ、と思った。そう、それで精一杯だったわ。

そういう、エピソードこそ「重み」があって誰かにとって「有用」なのかもしれないけれど。

 まとめ

つまり、いくつかのエピソードを浮かべ、エピソード記述(まあ、要は、出来事の意味化)を行うことで、エピソードにある「コア・クオリティ」の共通項を探ることで、己の強みを生かした省察が可能になるってことだろう。

自分の心が動くエピソードというのが、子どもたちにとっても価値が高い経験になる、と考えられるとき、そのエピソードの再現性は、価値が大きくなる。

そうして、自分の強みを生かした、また自分の心が動くような、似たエピソードが起こるには、どのような背景が必要なのかをまた探るということだろう。

「コア・クオリティ」が見つかったなら、その核を生かして、自分も子どもたちも心が動く体験をさせる条件が少しずつ見えてくるのかもしれない。

 

やっぱり、これは、面白いわ。

 

inclusive.hatenablog.jp

 

inclusive.hatenablog.jp

 

*1:自分には何もないなんて思っちゃうときもあるじゃない?

「他人を幸せにできる人間だけが自分を幸せにできる」

これは3/31の話です。

何気なさ担当の「ハピペン」です。もう言えないって分かったとき、あの日「おかえり」を言ってあげれば良かった。その何気ないことが、繰り返せなくなるかもしれない、ってところに美しさがあるだろうな、とか思ってます。

 

学童で最初に大切にしたのはそれだった。当たり前に安心して「ただいま」が言えること。おいしいものを「おいしい」って言えること。学童は第二の家庭。だから、自分がきょうだいから呼ばれる呼び方で子どもにも呼んでもらった。

その最高級、さりげなさ、儚さ。

家族はずっと家族だが、職場は変わりゆく。

(実際「第二の家庭」は広告で嘘だと後で気づいてしまったが。)

 

今いるのは小学校。

家庭的な(?)、チームワークが良い(?)、清い泉のような(?)職場からもいよいよ旅立つ。

 

お昼には、保護者と子どもが来た。「もしかしたらまだいるかもと思って」だって。親に泣かれる。

 

夕方。「ハピペン」が帰るときは放送で呼んでくださいって人もいた。

(でも、風邪で休んでたから、片付けが終わらん……。)

 

そんでもって「よーし!もう帰る!」

 

そして、集まる。握手する。泣かれる。

わーっとなって外に出る。雨。

(「あれ?オレ上履きじゃね?」)

 

「すみません!オレ上履きじゃないっすか!?」

職員室は泣き笑う。

 

オレは、これまで、みんなが泣いてくれるほど何をしたんだろう……。

 

そういえば、子どもは基本的に泣かない。ちょっとは淋しそうだけど。大人が泣くよなあ……。

 

子どもが泣かない感じは「ずうっとずっと大好きだよ」に近いかもしれない。

もう確かにお互いの中にいるから、そう向き合って来たから。

これは、ひどい妄想なんだけど「自分なんか大丈夫だから、次に行って」って感じ。

「もっと誰か救って」とか「どんな人間も生きていい」とかって他でやってきて、みたいな。

 

子どもは「はりきりすぎないでがんばって」って書いてくる。まあ、かわいいかな。

その辺、やっぱり、オレを見てた証拠だなとも思う。だから、別れられる。

 

大人が泣くのはどうしてだろう。

何人かに言われたのは、やっぱり「もっと見てほしかった」「うちの子も見てほしかった」「本当に感謝している」など。期待とか、不安とか、願いとか、もっと必要だったのかもしれない。

もっと一緒笑いたい、過ごしていたい、感じていたい。いわゆるロス。

今回、単なる、いなくなる淋しさを越える何かを感じて不思議な気持ちになった。

 

やっぱり「いた」んだ。何気なく「いた」。もうそれが当たり前に「いた」。生活の一部。存在の一部分。その「いる」とか「いない」とかは、足りているか、足りていないか、そのイメージの差。

毎日等身大でいた子どもたちは、本気だったから、「いて」当たり前にしなかった、いなくなるのも分かるのかもしれない。どの子も自分たちより、私やこれから私に出会う誰かを思っていた。って言うのはいいすぎかもしれないけれども、ちょっと出来過ぎかそんな子どもじゃ……。

(ただ、刹那を生きているだけの可能性もある)

 

今、ちょっとした食事も終わって一人でココアを飲んでる。叫びたくなるほどじゃないけど、有り難いことだなあ、と感じる。

特別何かがドーッと湧き上がってくるわけじゃないんだけど、純粋な事実として、今自分は幸せな状態なんだろうな、っていうのを感じる。

そして、この幸せは、自分の欲求を満たせたから、というよりは「他人を幸せにできていたから感じざるを得ないもの」みたいな幸せ。

 

露骨に「いてよかった」ってことが分かる。いるってことは、これまでの毎日となーんにも変わらないのに。

その「いてよさ」の当たり前さが一つの幸せなんだろう。

 

これは言葉遊びに近いだろうけど、

他人に幸せを与えられるってことは、幸せをもっていたということ。与えた側に幸せがあったということだ。

それに気づけるのは、誰かに幸せを与えたとき。与えたときはじめて自分に幸せがあったって気づく。

そして、その幸せをもっていた自分は、幸せを与える前と与えた後で何か違うか。

おそらく、違わない。

自分にはずっと幸せがあった。それは、与える前も、与えた後も、今も、ある。

誰かに幸せを与えられたとき。それが明らかになる。「自分は幸せだなあ」って。

誰かに幸せを与えられたとき、自分は心から純粋な幸せを感じられる。

 

そうして、オレは、自分っていう何気ない存在を「ありだよ」ってことにできる。

 

あなたに幸せを感じさせられたから、オレも幸せを感じられる。そう一緒に生きた。

「じゃあ、またね。幸せたち。また、会おう!」

そうして、またそれぞれ、別の誰かに幸せを与えていく旅が始まる。

 

今日見た涙たち。

最後にそういう涙を受け取った日。

「リフレクション」と「コア・クオリティ」

さて、やっと平熱を取り戻したかという「ハピペン」です。高熱の後は後遺症で頭がガンガンですね。一日で熱を下げるとこういうことになるなあ、と最近思います。

 

先日こちらの記事がとても気になりました。(削除されていました。)

 講習の記事で、この本が紹介されていました。

コルトハーヘン教授の教師教育学――教師の学びが変わる

これのAmazonのレビューにあった「コア・クオリティ」という言葉が特に気になりました。

 

ちょうど同じ頃に、こちらの記事(書評「まんがで知る教師の学び」 - 小学校教師ふたせんの朝3時からの共育現場〜育つ育てる育てられる〜)の中で紹介されていた「タイムマネジメント」の話にも強く心を惹かれていたのです。

TQ-心の安らぎを得る究極のタイムマネジメント (SB文庫)

 「出来事は自分が選んでいる」。その選ぶ「価値観」が重要で、その価値観を達成するために生きる(出来事を選択する)ことが、「心の安らぎ」につながるって話ですね。

 

えっ、価値観って何!?」ってことを2,3日考えている中で「コア・クオリティ」にも出会う。そして「リフレクション」。

この辺りが、要は価値観を捻り出すために重要なのだろう、と。

 

そして、検索。「コア クオリティ」。ポチッ。

おお!すごいページだ!

NAKAHARA-LAB.NET 東京大学 中原淳研究室 - 大人の学びを科学する: コルトハーヘン先生による「リフレクション学」スペシャルワークショップが終わった!:リフレクションという名の「詰問」「教え込み」「だらだらトーク」を超えて!

コルトハーへン先生のリフレクション研究は、別名、「リアリスティックアプローチ(Realistic approach)」とも呼ばれています。
 誤解を恐れずひと言で述べるならば、リアリスティックアプローチとは、

1.学習者が、「リアルな日常の経験」を「リフレクションすること」を通して、学ぶ形式である

2.そのプロセスを通して、学習者がすでにもっている学術的知識(大文字の理論:Theoryとよばれます)と、日常の経験から形成された実践知(小文字の理論:theory)を「むすびつけること」をめざす。

http://www.nakahara-lab.net/blog/2014/11/post_2296.htmlより

「大文字のTheory」「小文字のtheory」「省察」などの言葉たち。前に赤坂先生の講演で聞いたことがあった。これを言っていたのだな、とつながる。

こうして「省察の方法論」に出会えたという感じだろうか。

そして、その方法論を通して「己の価値観」に出会えたらと思う。

 

その鍵が「エピソード記述」ってことなのだと思うのだけれど……これは、まだよく分からない。

1.たくさんのエピソードをあげる
2.No.1エピソードを決める
3.2を説明できる範囲の背景を説明
4.論理的な解析によって振り返る、価値を探る

痛烈な学び!上條先生とお話ししました。 - 学びとつながりをデザインしたい!より

 

こちらのサイトも多いに参考になりそう。

shumpeioe.hatenablog.jp

コルブの経験学習モデルでは、①実践、②経験、③省察、④概念化の四段階のプロセスが循環していると提唱されているのに対して、コルトハーヘンが提唱するALACTモデルでは、「行為」「行為の振り返り」「本質的な諸相への気づき」「行為の選択肢の拡大」「試行(行為と重なる形)」の循環モデルとして説明しています。

http://shumpeioe.hatenablog.jp/entry/2016/12/30/152003

この「行為の振り返り」と「本質的な諸相への気づき」が、「エピソード記述」に位置するのかなあ、と思うのだけれど。分からん。

「行為の選択肢の拡大」は、その価値観への気づきによって、それに適う他の行為は考え得るかを探るってことだろうか。

それだと、とても腑に落ちるなあ、と思う。

 

この辺りが、4月からの課題になっていくように思う。

ある不登校の記録

急に高熱の「ハピペン」です。あーあ、これ絶対来年度へのストレスだわ……人はストレスがかかると免疫が落ちる。環境の変化に弱いってのは、きつい弱点だなあ……。

 

X年、「不登校」、「虐待」、「いじめ」の対応が重なって大変だった。
そのうち、「不登校の記録」を一つ書いておこう思う。
(内容は事実と多少変えているところがあります。)

 

ミッション1:「修学旅行」に向けて

その子は、5年の途中から不登校になった。最初は、何かしら理由のある休みだったが、途中からは、理由なく休むようになった。

 

6年になって、家庭訪問をはじめた。(すぐに家庭訪問をしていないのは学校への拒否感が強く、保護者と相談しながら妥当ではないと判断したため。)

基本は月2回程度。

はじめは、やはり会ってくれなかった。

しかし次第に窓越しなどで会えることがあった。ゲームの話題などを話す。

一先ずは「修学旅行」の話をすることを目指すラポール形成。

一度だけ今年度の教室の風景などを写真で見せたが、やはり拒否感が強かった。

それからは、信頼関係が出来るまで(向こうが安全と安心を感じられるまで)、向こうから出ない限り、「学校にかかわるワード」は一切出さないことを徹底した。

 

そして、1か月半ほど経って、修学旅行の話をするも、本児の意向で行くには至らなかった。実際は「卒業式」を視野に入れていることもあって、ここではあまり無理はさせなかった。主な交渉はご家庭に委ねていた。

お土産はすごく喜んでいたそう。

 

ミッション2:「卒業写真」に向けて

「修学旅行」が終わって、交渉しなければならないことがないため、より気兼ねなく会うことができたように思う。

次のゴールは「卒業式」になるが、それまでにすべきことはいくつかある。

大きいのは「写真撮影」「卒業文集」など。

流れとしては、「写真撮影」で一度学校に来ることを目指し、そこから卒業への意識を感じさせ、卒業のに向けた頑張りを賞賛しつつ、文集などを提案してみる。

しかし、相変わらず「学校に関するワード」は出さないようにした。

どこかのサイトで家庭訪問にお土産は有効というのを見てから、お土産を意識するようになった。これは良かった。最初はちょっとしたものを渡して終わりだったが、食べ物をもっていくことで玄関先まで出てくれた。

そのときに、次に来た時に一緒に遊ぶ交渉をし、OKをもらえた。そこから、カードゲームなどをする関係に移っていく。

これが、9月から11月くらいまで続く、1年ってあっという間で、実際に会った回数だと20回あるかないかぐらいだ。

一緒に遊ぶことは楽しかったようで、その子の心に良い影響があった様子。

「写真」は誰にも会わない工夫をして、絶対安心の状況を説明してOKをもらった。

交渉で気を付けたこと

姿勢

気を付けたのは「本当にどっちを選んでもいいよ」という姿勢。大人たちの中には「本当は来てほしい」という思いがあるけれど、それは一切思わないようにする*1。その話をするときだけは、むしろ「来なくていいよ」ぐらいの姿勢で子どもに寄り添うイメージを持って話す。

タイミングを見て来るメリットをきちんと伝えることもする。
「思い出にはなるかな」とか「成長のチャンスって言えばチャンス」「挑戦したいなっていうのが少しでもあればやるのはめちゃくちゃいいことだと思うよ」みたいなことは言ったかもしれない。

俗にいう「登校刺激」、特に「直接的な登校刺激」「来させようとするような登校刺激」になり得る言葉かけは控える意識をしていた。

伝え方

誰が言うかもかなり重要だった。

  • トーン
  • 一文の文字数
  • それを話題にする時間
  • 質問の回数(質問は相手への負荷が強い)
  • 同じ話題を二人以上で交渉しない(特に重要)

などに注意が必要だった。
私の見立てでは、高い声はダメ、一文をなるべく短くして20文字前後で句読点を入れる(3つまで)、学校の話は10分以上は強いストレスになる、質問は3回まで、一人が交渉に当たるというのが彼が心地よく反応できる条件だった。

結果「卒業写真」の撮影には来られた。
何日ぶりかの学校。やっぱり、どの子も学校にいるのが普通で「いるべきだ」と強く思う。様々な理由があって、いない選択ももちろんあっていいと思う。だけれども、学校側は、いられる環境を追究し続ける姿勢が必要だと思う。(あくまでも「いられる環境」であって、「いさせようとする努力」ではない。)

「卒業写真」に関しては、本児も「よっしゃー」などと達成感を感じていた様子だった。本児の見通しの中であれば、安心して過ごせる。それにせっかくだからとプラスして、他の先生に挨拶しようなど、大人が予定を変えようとすると憤慨激高する。

そう、ついそうしてしまう大人が周囲にいるという背景がこの子にはある。

別にそれについて良いとか悪いとかではなくて、そうしたくなる気持ちも十分わかる。だから、そこにある環境を資源としてできることをするしかないのだ、と思う。

「なんだよ、もっと介入しねーのかよ!」と文句を言いたくなる方もいるかもしれないが。

なぜ「登校刺激」を控えめにしたか

それは、こちらだけで勝手に判断したわけではない。当然、各関係者で相談しながら決めた方針である。

ご家庭のゴールイメージが「卒業式」というのもあった。もしご家庭のイメージするゴールが「学校へ行かせる」だったら、少しは対応が変わったかもしれないが、それは子どもを傷つけるリスクがあっただろうと思う。

もし、それをせがまれたら私たちは躊躇したことだろう。

もし原因が学校にあると判明していれば、それを取り除くように配慮する。しかし、今回のケースは、原因は不明だった。ただ、なんとなく同級生や学校への拒否感はあった。

大きな改善をするとすれば、ご家庭への介入が不可欠だということが見えていた。

しかし、今はもう金八先生の時代ではないのだ、と私はいつも思っていた。一人の教師に依存してそのとき良い姿を少しでも表出することができても、それが持続できなれけば、また自信を失うこともある。ご家庭が力を付けるたに介入することは、理論的にはあり得ると思う。しかし、一つの家庭の改善に力を注ぐと、こちらも崩れ落ちる可能性がある。

ノウハウはある様子。やるなら、それだと思った。しかし、チームで相談した結果、そこには行きつかなかった。また、地域で大きく介入している人もいた。それでも、ご家庭がパターンから抜け出せない現状がある。ならば、本児を育てるしかないのだが、簡単なことではない。多方面で見守って、本児の心が育つことにも期待しながら、一部の大人が気づくのを少しずつカウンセリングをしながら待つしかない。

 

ノウハウってのは、前に紹介したことがあったやつです。

inclusive.hatenablog.jp

 

ミッション3:卒業式に向けて

「卒業文集」は、冬休みを通して3度ほど添削を行って完成させた。ここはご家庭の力が大きかった。

そして、3学期、いよいよ「卒業式」をどうするか、という話になる。

方針は、不登校新聞の記事を基に考えた。

不登校80人の卒業式に関する感想。

出席して良かった:36%

欠席して良かった:80%

【公開】不登校80人、卒業式に一番多い感想は? / 不登校新聞

 もし、彼が「欠席」を希望したときに、残りの2割に賭けて押すかどうかをチームで話し合った。結果は、彼の意見を尊重しよう、となった。

つまり、作戦としては様々な手を尽くして彼の動機を高めることしかなくなった。

「卒業式」の意味や価値、いかに出るべきか、強烈な交渉、普通はそうだから、などではなく、彼が出たいと思える手立てを出来るかどうかが、勝負になる。

学校側

学校側は、確実に他の保護者も児童もいない環境で好きな食べ物を食べる会を実施し、学校に来させた。

あとは、

・フット・イン・ザ・ドア

「今日楽しい?」「おいしかった?」などで、Yesを取っておく。
そして「ちょっとだけ卒業式の話してもいい?」と聞く。

・選択話法

「卒業式、『体育館でみんなと一緒に』と『別の部屋で今日みたいなメンバーで』だったらどっちがいい?」と聞いてみる。
おそらく迷って答えられないということもあると思う。

・ドア・イン・ザ・フェイス

「迷うよね。そもそも出ようかなってのもあるもんね。でももし、出るとしたら『体育館』ってどう?」
「いやー無理!」
「じゃあ、今日みたいな感じだったら?」
「ちょっと迷うなー。」
「いやー、考えてくれて、ありがとうね」

(この時点で、卒業式に関する質問は3つしているので、これ以上は詰めない。)

・希少性の原理

なので、最後に動機につながるような、話をして終わる。

「せっかくだからさ“特別に”他の場所での卒業式もOKをもらったからね」「本当にもう6年の最後だからね」「無理はしなくていいと思うけど」「きっと学校でもらって気持ちいいってのもあると思うんだよね」「ちょっとでもできそうだったら頑張るといいな、って感じはする」っていうようなことを言ったと思う。

そして、あとは、ご家庭でもう一度話をしてもらうことにした。

ご家庭側

ご家庭はご家庭で「卒業式」に向けて、どうすれば彼の期待が高まるか、寄り添って考えてくださった様子。

卒業式に着る服をレンタル出来る店の前を買い物のコースでそれとなく通って、着たいかを探ったり、卒業式の後お昼を食べにお祝いする予定を組んでくれたり。

大変なご協力があったと思う。

そして、結果、放課後別室で卒業証書を受け取ることができました。

彼にとってのベストを、本児なりに見出し、辿り着けたことは、本当に偉かったなと思います。彼が自己選択力を身に付けていくことは課題だったので、結末を決められたことは本当によかった、と思いました。

 

最後に

不登校新聞の記事の最後の方にあるのだが、

当事者は複雑な心境を持つこともある。
周囲がすべきは、やはり本人の意思の尊重ではないだろうか
卒業式当日まで本人が出欠を悩んだとしても、結論が何度も変わったとしても、「いま」の意思が周囲から尊重されること
それが本人の納得、ひいてはその後の肯定的な捉え方へとつながっているように思える。

【公開】不登校80人、卒業式に一番多い感想は? / 不登校新聞

(下線は「ハピペン」)

本人の意思の尊重に徹して良かった。

どんな形で卒業式を迎えられるかは、正直どうでもいいのだと思う。

自尊感情って自分の理想に対する自分の評価だし、外側にある行為の形はある種どうでもいいわけだ。

納得して卒業していくことが大事だと思うし、決めたことの良し悪しを卒業式に関しては否定したくないかな、と。誰のせいでもないような部分もあるし……。

自分の自分への評価に納得がいくなら、その決めた参加の仕方がベストだ。

このちょっと自分なりに頑張った感じが、「オレやったよなあ感」につながって、次のステージでも少し背筋を伸ばして過ごせるんじゃないか、って思う。

卒業式は、これまで育ててくれた誰かのためのものって前に、自分のためのものでもある。とにかく、外部にある大人たちの思惑を本児の動機にどう転嫁するかが、かなり重要だなあと思う。これは、どの子の指導にも通ずることだろう。感謝の必要性を脅迫して素晴らしいコールを言わせたってしょうがないわけでね。

そして、やはり、転嫁には関係作りが鍵だ。その関係づくりには、かかわり方のノイズが少なくストレスにならないためのテクニックがいる。

そうして、その子の中に入れてもらう。
そして、子どもってのは、その自分の中に入れた人のために、頑張ろうとか、やってみようとか、喜ばせようとかほんの少し思えるんじゃないだろうか……。

とりあえず、自分なりには、ミッションコンプリートな思い。
以上、報告終わり。

*1:言わないとかではなく、思いすらもしない