それでも幸せな人はいるから

特別支援学級の担任をしていて感じたこと。幸せな子ども時代を過ごす子どもが一人でも多く増えるように

エピソード記述「空気になってませんか」

背景

今年度より転籍の女の子。礼儀正しい。教師に認めてもらおうという気が強ように感じる。誰かが注意されると、その後に露骨に正しい振る舞い方をする。

 

エピソード

掃除の時間、頑張っている子をほめていく。その中で「私空気になってませんか」と女の子が言った。

 

省察

「ほめる」と「ほめられる」

その女の子をほめていなかったわけではない。しかし、コミュニケーションは相互作用的なもの。

「ほめられた」と相手が感じていなければ、それは「ほめ」にはならない。

ほめた気にならないで、教師もコミュニケーションに意識を払うことで乗り越えることができるかもしれない。

 

これまではどうだったか

「空気になっている」これは、これまでも言っていた言葉なのだろうか。

言えていたとしたらいいのだが、言えていなかったとしたら、その思いをこれまで飲み込んで生きていたということだ。

それを吐き出せる気兼ねない場であることが嬉しいと同時に、そんな言葉を言わなくても、誰が「いるね!」ってしなくても、自分の存在を自分で保持し肯定できる子に育っていってほしいと考えた。

【まとめ】『リフレクション』「リアリスティックアプローチ」と「ALACTモデル」等ーープロセス・流れ・時系列について(「エピソード記述」「省察的実践」含む)

前提

教育現場・学校では、子どもとかかわりのすべてに「教育的価値」を意図したかかわりという前提がある。

教育現場では「教育的な根拠」と関係なく、無作法に好き勝手に思い込みやオリジナリティのみで子どもと過ごしていればいいわけではない。

この前提としての「教育的価値」っていうのは、いわゆる「ねらい」だと思う。

しかし、教育のほとんどは対人間によって行われ、コミュニケーションを介したものである。しかし、コミュニケーションは、相手によって常に内容が変化する。だから、こちらがどんなに「ねらい」を達成するために状況に応じてコミュニケーションをしたとしても、「ねらい」が達成できるかは全く分からない。

だから、我々が行った「かかわり、コミュニケーション、振る舞い」を「リフレクション(内省ないし省察」することで、より「ねらい」に向かって「行為の枠組みを変える」ことができる可能性がある。そして、リフレクションがそれをもたらす可能性は高い。

短絡的に言ってしまえば、我々が「行為の枠組み」を変えることによって、より「人格の完成、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成」「自己実現と社会参画」「自立と社会参加」に近づけるように、我々の「教育活動(かかわり・コミュニケーション・振る舞い」を変えるってことだ*1

じゃあ、「どうやって何を『リフレクション』すればいいの?」ってのが、今回の【まとめ】。

ALACTモデル

大きな枠組みが「ALACTモデル」で、その項目ごとの具体的な視点や考え方がある。

ALACTモデルは、

  1. 行為
  2. 行為の振り返り
  3. 本質的な諸相への気付き
  4. 行為の選択肢の拡大
  5. 試行

 のステップでリフレクションが行われる。

それぞれのステップを説明していき、順に辿ればリフレクションができるようにしたい。

ステップ1 行為

これは、もうなんていうか、「して」って感じだと思う。

本当はここにおける「観察」と「関与」があるのだと思う。研究であれば、その手練れさは、必要だと思うけれども、日々の実践のリフレクションのためには、とりあえず「して」としか言いようがないと思う。

その後の「振り返り」で、思い出される「場面」における「見たこと・聞いたこと(観察)」と「どうかかわったか、コミュニケーションしたか、振る舞ったか(関与)」を通じた「感じたこと、気づいたこと、思ったこと(省察)」から「分かること(意味・価値)」が重要なのだと思う。

「行為」に関しては、こちらなりの主観から来る「ねらい」をもって「して」というしかないかなあ、と思う。

★「第一の局面」である「行為」では

・何を達成したかったのか?
・特に何に注意したかったのか?
・何を試してみたかったのか?

<引用:http://www.nakahara-lab.net/2011/10/post_1802.html

が含まれていると考えられます。

※「行為」への支援

「行為」をよりよいものにする支援として「有益な経験を見い出す支援」が考えられます。
<参考:http://files.eric.ed.gov/fulltext/ED266102.pdf P8>

 

ステップ2 行為の振り返り

次に「行為」の振り返りを行います。

「行為」の「受容、共感、具体化」のための「8つの質問+1」が示されています。

8つの質問

      

 自分軸 

 相手軸  

Doing 

 自分は何をしていたのか? 

 相手は何をしていたのか? 

Thinking

 自分は何を考えていたのか? 

 相手は何を考えていたのか? 

Feeling

 自分はどんな感情をもっていたのか? 

 相手はどんな感情をもっていたのか? 

Wanting

 自分は何をしたいのか? 

 相手は何をしたいのか? 

<参考:http://www.nakahara-lab.net/blog/2014/11/post_2296.html> 

これを基に「行為」に含まれていた「内実のようなもの」*2を引き出します。

この8つの質問の中で、特に「感情」のズレや不一致が、意図的な思考の揺さぶりにつながり重要だそうです。

そして、この日常の中に様々な行為がある中で、そのときに振り返る「行為」というのは、いくつもある事象の中の「ある行為」に特定されていると思います。その「行為」が何か「琴線」に触れているからその「行為」が想起された可能性があります。
(他に、たくさん行為を書き出して選び抜く方法もあります。)

「エピソード記述」的には、「ある行為」を選んだということは、そこに「感動や違和感、自分の心が揺さぶられた」という可能性が高いです。

そして、「ある行為」が浮かんで、選べるということは、そこにもう「メタ」な省察があると考えられます。「行為」を選んでから「省察」するのではなく、それが心のどこかで「省察」していてその価値に気づいているから「行為」を取り上げることができるということです。

+1

その「行為」の映像が読み手に伝わるような「背景」があることで、深い省察につながります。これは「エピソード記述」でも何度も言われていいます。

Context 

背景・状況・前後関係

それはどんな文脈で起こったのか、これからどんな文脈につながっていくのか。 

 <参考:社会科教育カリキュラム・デザインの理論と方法: コルトハーヘンのALACTと8+1の窓

ただの情景描写をする必要はないのですが、客観的な事実と場所とどんな風に感じる雰囲気なのか、などを背景に盛り込めるとよいです。

 

そして、「その行為を選んだのはどうしてだろう?」と探っていくのが次の「3.本質的諸相への気づき」のステップです。

★「第二の局面」である「行為の振り返り」では

・具体的な出来事はどういうものだったのでしょうか?
・何がしたかったのか?
・何を思ったのか?
・どう感じたのか?
・生徒達は何をしたくて、何をしていて、何を思い、何を感じていたのだと思いますか?

<引用:http://www.nakahara-lab.net/2011/10/post_1802.html

が含まれていると考えられます。これに関しては、すでに上で紹介したものと同じですね。

※「行為の振り返り」への支援

「行為の振り返り」をよりよいものにするためには「受容、共感、誠実、具体性」などの支援が良いと言われています。
<参考:http://files.eric.ed.gov/fulltext/ED266102.pdf P8>

ステップ3 本質的な諸相への気づき

ステップ3が一番肝で重要!

その「行為」に何が含まれているかを解剖していくようなイメージ。掘れば堀っただけ、見つけ出せるものがある。そして、その掘るための道具が「己の人間性」ってところが非常に面白い。

単に加齢とともに経験が豊かになればエピソードやメタ観察が書けるようになるというほど単純ではありません。(中略)若い人でも、人と丁寧に付き合う構えをもち、相手を主体として尊重しつつ、しかし自分も一人の主体であるということを相手に伝えていくようにしている人は、おそらくさまざまな人と関わる中で、いろいろな気づきを得、それを「豊かな背景」に溜め込んでいけるでしょう。(中略)そして、そのような人がエピソードを描けば、やはりなるほどと人に思わせるものが描けるのです。

エピソード記述入門―実践と質的研究のために P201)

「エピソード記述」においては、立場が定まっていないとエピソードが描けないと書かれていました。ただし、その立場が自分で認識できていないだけで、振り返りたい「行為」を浮かべることができるように、すでにその芽は己の中にあると言えます。

その立場や価値観にどうすれば気づけるのかが非常に大切です。その価値観が「コア・クオリティ*3」と言わているものだと考えられます。

そのサポートツールを「コルトハーヘン」さんは、ちゃーんと用意しています。

それが「玉ねぎモデル」です。

玉ねぎモデル

f:id:penguin-kn:20170409175000p:plain

<参考:http://www.ritsumei.ac.jp/kyoshoku/kankobutu/kiyou/202araki.pdf

上手くこの項目たちを行き来して、埋めていくことができたら、コア・クオリティに近づける可能性がある。

  • 環境:私は何に遭遇しているのか
  • 行為:私は何をしているのか
  • 能力:私にできることは何か
  • 信念:私は何を信じているのか
  • アイデンティティ:私は何者か
  • ミッション:私を駆り立てるもの
  • コア・クオリティ:核となる質(価値観)

ちなみに、「核となる善さ」にまで届いている「リフレクション」を「コア・リフレクション」というらしい。「コア・クオリティ」は「ポジティブ」なものが望ましいと「コルトハーヘン」さんは言っているとここに<http://www.nakahara-lab.net/blog/2014/11/post_2296.html>書かれていました。

「本質的な諸相への気づき」は「コア・リフレクション」であると良いということです。

 

一方で、「不一致」をもとに「価値観」に気づく道もあるようです。

  1. 「考えていること」と「感じていること」のギャップ
  2. 「自己イメージ」と「他者から見た自身のイメージ」とのギャップ
  3. 「自分として生きる中で体験して知っている自己」と「他者に表現して伝わる自己」とのギャップ
  4. 「していると言っていること」と「実際にしていること」とのギャップ
  5. 「今の自分」と「なりたい自分」とのギャップ
  6. 「言葉にしていること」と「言葉にしない行動」とのギャップ

<参考:未来を創るリフレクションの力 F・コルトハーヘン氏のリフレクション学スペシャルワークショップに参加して - Learning journey - ラーニングジャーニー | MIKA KUMAHIRA

「大文字のTheory」と「小文字のtheory」

「3.本質的な諸相の気づき」の中で、「大文字のTheory(学術的知識)」と「小文字のtheory(実践知)」の結びつきを見つけることもより深い省察には必要になってきます。

「エピソード記述」で言及されていることに気をつけて、理論と実践を結び付けていきます。客観と主観のバランスを取るイメージです。主観的な省察なのだが、客観的な理論も踏まえているような。

「主体としての実践知」と「客体としての学術的知識」の結合部を探っていく。

(ちょっとこれは、はっきりとは分からないのだけれど「人間科学の相対主義」と「自然科学の客観主義」を合わせて「構造構成主義」へ向かう感じだろうか。)

 

自分の行っていることが、学術的知識では何に何処に値するのか。これを考えられることで、エピソードに軸や土台ができ、意味や価値が増すと考えられる。

その「意味」や「価値」の再現性を探ることが、「リフレクション」の役割の一つである。

 

そして、このステップを基に、リフレクションをする前には掘り出されていなかった「意味」や「価値」に気づけたなら、それを手掛かりに「4.行為の選択肢の拡大」へと進む。

★「第三の局面」である「本質的諸相への気づき」では

・第二局面で答えたそれぞれの答えの相互関係性はどうですか?
・学校・文脈が全体としてそれにどのような影響を与えていますか?
・あなたにとって、それはそういう意味を持ちますか?
・問題は何でしょうか?
・ポジティブな発見はありますか?

<引用:http://www.nakahara-lab.net/2011/10/post_1802.html

「ポジティブな発見」が大切なキーワードになると思います。

※「本質的な諸相への気づき」への支援

「本質的な諸相への気づき」を促すための支援として「受容、共感、誠実、具体性、対立の概括、『今、ここ』の利用、物事を明確にする支援」などがあります。
<参考:http://files.eric.ed.gov/fulltext/ED266102.pdf P8>

 

ステップ4 行為の選択肢の拡大

ここの手法はいろいろ考えられると思う。

誰かと「リフレクション」をシェアしたり、図解して分析したり、ただひたすらに考えたり。

一応の概要として以下を紹介しておく。

  1. 学習者(リフレクションしている人)を巻き込む
  2. 学習者が選択肢を形づくる
  3. 選択肢を十分に具体的なものにする
  4. 能力や勇気などの観点からみて、選択肢は、十分にリアリスティック(現実に適合している)か
  5. 行為が何につながるのかを吟味する
  6. 別の場所にも適用できるように、一般化する
  7. 学習者が複数の選択肢の中から選択する

<引用:未来を創るリフレクションの力 F・コルトハーヘン氏のリフレクション学スペシャルワークショップに参加して - Learning journey - ラーニングジャーニー | MIKA KUMAHIRA

 以上をどのようにやるかは、この先考えていきたいことの一つ。

(そもそも、まだまだ「エピソード記述」書いていないのだから……。)

★「第四の局面」である「行為の選択肢の拡大」では

・別の選択肢としてどのようなものが考えられますか?
・それぞれの選択肢の利点と欠点は?
・次回はどのようにしようと決心しましたか?

<引用:http://www.nakahara-lab.net/2011/10/post_1802.html

※「行為の選択肢の拡大」への支援

「行為の選択肢の拡大」を促すための支援として「これまでのスキルの全て+解決策を発見、選択する支援」などがあります。
<参考:http://files.eric.ed.gov/fulltext/ED266102.pdf P8>

ステップ5 試行

ここは、ステップ1「行為」と同義になります。

これまでのステップ1~ステップ4を踏まえて、次なる「行為」へ向かうということです。

※「試行」への支援

「試行」を促すための支援として「学習プロセスを継続する支援」などがあります。
<参考:http://files.eric.ed.gov/fulltext/ED266102.pdf P8>

 

+αのリフレクション

さらに一歩進んだ省察についても書かれていた「メタ省察」という枠組みに入るそう。

「メタ」とは「高次」という意味があるため、「省察」のさらに「高次」なものいうこと。要は、「リフレクション」に対する「リフレクション」ということだ。

・私は何を学びたかったのか?
・私はそのことをどのようにして学ぼうとしたのか?
・私はどのような学びの瞬間に気づいたのか?
・その瞬間、どのように学んだのか?
・何が学びを手助けしてくれて、何が学びの邪魔をしたのか?
・わたしの学び方にはどのような問題点や長所があるのか?
・私の学び方以外の方法として、どのようなものがありうるか?
省察を終えたいま、これから先に直面するであろう学びの
・時期を乗り越えていくための方法として、どのようなものが思いつくのか?

<引用:http://www.nakahara-lab.net/2011/10/post_1802.html

「リフレクション」を行う際に気をつけるべきこと

「リフレクション」は、あくまで「今後に生かす」ために行われるものだと考えられます。振り返りの重さから、自分のダメさなどに目が行ってしまって、身動きできなくなることも考えられます。

しかし、それは、あくまで「省察」によって自己を深めたからこそ見えてきたものです。

リフレクションしていく中で、「自分はなんでこんな自己中心的なのだ」と落ち込んでしまう人がいる。しかし、それはリフレクションの目指すところではない。
大切なのは、ある規範意識に照らしあわせた時に”醜い”思考や感情、欲求を持っていたとしても、最終的に自身が行動を選択できるという信念を持ち、行動の選択肢を増やしていくことである。その意味で、リフレクションには敢然性への契機が含まれているなあなんて思ったりもするのだが、その話はまたさておき、いたずらに自身を追い詰めることがリフレクションではないということも忘れないようにしたい。

<引用:あるがままの記録: コルトハーヘンの「9つの質問」と陥りがちなリフレクションの罠

それこそ、その見えた「意味」や「価値」を基に、改善していけばいいのです。

 

以上で、今のところの「リフレクション」の【まとめ】を終わります。

 

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*1:エピソード記述の意義の一つのように「出来事のあるがままに近づく」という哲学的な意味ももちろんあるとして……。

*2:「内実=本当のところ」なので、「内実のようなもの=そのときに本当のところだと思ったもの」

*3:「クオリティ=質」

「省察的実践」(リフレクションと関連して)

エピソード記述に慣れたい!「ハピペン」です!

 

なぜリフレクション(「内省」ないし「省察」)が必要なのか

社会の変化が激しくかつ速度も増している。中でも日本はフロントランナーで、先行き不透明中で、これまでに出くわしたことのない問題を解決していく力が求められるからである。

発端となる理論は「シングルループ学習・ダブルループ学習」と思う。

シングルループ学習・ダブルループ学習

シングルループ学習とは、すでに備えている考え方や行動の枠組みにしたがって問題解決を図っていくこと。ダブルループ学習とは、既存の枠組みを捨てて新しい考え方や行動の枠組みを取り込むことである。 1978年、アメリカの組織心理学者クリス・アージリスとドナルド・ショーンが『組織学習』において提唱した概念。 組織は、シングルループ学習だけでは環境に適応しながら生き残っていくことは難しい。過去の成功体験における固定観念を自らアンラーニングし、外部から新しい知識や枠組みをダブルループ学習し、それをまたシングルループ学習によって反復・強化していく。このサイクルを繰り返し継続できる組織だけが競争優位を保ち続けることができると言われている。

シングルループ学習・ダブルループ学習(しんぐるるーぷがくしゅう・だぶるるーぷがくしゅう)とは - コトバンク

 ダブルループ学習によって、新しい考え方や行動の枠組みを取り込む

その具体が、リアリスティックアプローチ。その中に、「エピソード記述」的なリフレクション、「省察的実践」的なリフレクションがあると考えた。

ドナルド・A・ショーンの本に「省察的実践とは何か―プロフェッショナルの行為と思考」がある。

「リフレクション」と「リアリスティックアプローチ・省察的実践・エピソード記述」の関係

リフレクションという言葉自体は「内省」や「省察」以上の意味をもたない。「内省」や「省察」などの「行為の意味」や「行為の価値」を示したのが「エピソード記述」や「省察的実践」の概念なのだと思う。

そして、「エピソード記述」や「省察的実践」の具体的な方法論を示してくれているのが「リアリスティックアプローチ」だと捉えた。

 

省察的実践」について

省察的実践」に触れておく。

ショーンは「専門家」による「技術的合理性」によって、個としてのクライアントが犠牲になっている可能性について考えた。大局的なデータベースで、目の前のクライアントに起こっていることを分類してしまうことによる、見落としがあるのではないか、と言った感じだろうか。

ショーンは、技術的合理性モデルを理念型として掲げる専門家が、自分のもつ枠組みに厳密に従う実践を志向するあまり、クライアントの独自性を犠牲にしてしまうことがあると指摘していた(Schön 1983: 44)。技術的合理性モデルは、専門家自身の満足に寄与しても、クライアントの満足に寄与しない場合があるのである。
技術的合理性モデルは、ショーンの見出した専門職実践に対する先の問題「自らの枠組みに依拠しながらも、いかにして各事例の独自性に応じた問題解決を見出していくか」に答えられない。というよりは、その問題に出会わない。したがって答える必要がない。それに対し、この問題に直面するショーンの省察的実践論は、どうその問いへと答えようとするのか。

その問題に対するショーンの答えは省察的実践である。それは、問題状況に働きかけながら、その状況の独自性に応じて自ら依拠する枠組みを変容するプロセスを含んでいる。枠組みによって設定されていた問題は、その枠組みの変容に伴って設定し直される。

(P36)

http://ir.nul.nagoya-u.ac.jp/jspui/bitstream/2237/21830/3/三品陽平 博士論文.pdf

この「省察的実践」の考えが、「リアリスティックアプローチ」「エピソード記述」に含まれていると考えた。(どっちがどっちを含んでいるかの時系列は確認していませんが……。)

 

省察的実践」の一連の流れ

webで見つけたものを紹介するだけなのだけれども。

(6)省察的実践の一連の流れをまとめると次のようになるだろう。
・ふだん通りの実践をする。
・予期せぬ状況からの応答を受け取る(驚く)。
・問題状況を観察する(予想と現実のずれを捉える)。
・自分の記憶と経験のレパートリーや理論などと問題状況を結びつける(みなし)。
・状況変容に向けた行為を思いつく(望ましい状況に向けた行為の考案)。
・想像上で新たな行為を試してみる(想像上のリハーサル)。
・新たな行為を試みる(リハーサルにもとづき自らを問題状況に投射)。
・試みに対する状況からの応答を受け取る(状況からの語り返しの受容)。
・問題状況を観察する(予想と現実のずれを捉える)。
・試みの評価(試みの成否について検討)。
・新たな行為の考案(試みをさらに工夫して洗練)
ただし、すべての省察的実践がこのような手順を含んでいるわけではない。

(P41)

http://ir.nul.nagoya-u.ac.jp/jspui/bitstream/2237/21830/3/三品陽平 博士論文.pdf

ARACTモデルの抽象度が挙がったバージョンという感じがする。

 

これらを踏まえて、次の記事で「リフレクション」について、一旦、最終的な【まとめ】をしようと思う。

エピソード記述「ありがとうって言える子」

背景

新学期、2週目。本格的に学校生活がはじまり、給食もスタートした。今年度も支援級の子を見ている。二年生の男の子。とにかく、思ったことを大きい声で口にしてしまう。刺激がないと黙っていられない。いかなる場面でも声の大きさから失礼な雰囲気になってしまうことが少なくない。たった3日で私の印象はそういう思いになっていた。

 

エピソード

今日、彼は給食当番だった。周りの流れに乗ってやり遂げる。仕事が終わると席に座っていた。私は給食当番がどのタイミングで自分の給食を取りに行くのか分からなかったためなんとなく見ていたら、クラスの子が彼に給食を運んできた。私は「ありがとう」と小さい声で言った。すると、彼も大きい声で「ありがとー!!」と言った。そして、もう一度後ろを振り返って持ってきてくれた子に「ありがとー!!」と興奮した様子で言った。私はこの子は「ありがとう」が言える子なんだな、と思った。

 

省察

私が心の何処かにもっていたもの

今回私が「ありがとう」と言ったのは、自然な癖のようなものだと思うのだけれど、何処かで彼は「ありがとうを言わないかもしれない」という子どもを疑う姿勢があったのではないか、と思った。

 

私がもつ価値観

昨年まで、本当に人間関係が苦しい子をもった、その子が生きていくために「感謝と謝罪だけはできる子にしよう」と思った。今回であった子が「ありがとう」を言えるのは、とても嬉しいこと。

 

大きい声への評価

彼は意図をもって他害をする感じではない。ただ、刺激を求めてちょっかいや大声を出すようにみえる。その子の大声を私は学校生活という枠組みで何処かに疎んじていたわけだけれど、大きい声で「ありがとう」を言えることは、価値の低くないことだと思う。そうやって学校的にNGな「大きい声」の良さも見ないことにしないで、彼を見つめていけるといいよな、と思った。

 

以上。

 

 

 

よいしょっと「エピソード記述」について

「もうちょっと」から「よいしょっと」じゃ前後関係感じなくない?と思っている「ハピペン」です。でも、字数の韻が良かったから採用。

inclusive.hatenablog.jp 

inclusive.hatenablog.jp

inclusive.hatenablog.jp

 

引き続き「エピソード記述」について。こちらの本から『エピソード記述入門―実践と質的研究のために』書いていく。

取り上げたいエピソードの抽出

第3章の第2節では、実際の鯨岡先生のゼミの人のエピソード記述の具体を例に、エピソード記述の構成について踏み込んでいっています。

「図」にしたい部分がどこなのか(中略)一つのエピソードとして長すぎる感じが否めません。

(P179)

やっぱり、物事を伝えたいときに、「長すぎ」はダメなんですねー。ダメなんですね……。ダメなんです。「うん。私はダメな子……。」

 

 

 

気を取り直す、オレ!!

〈背景〉の部分も、診察室を克明に描写する必要があるわけではなく、あるとすれば、「雑然さを少し残したこの狭い空間がなぜかほっとするような場でもある」というところが浮き立つように描けば、細部は省略してもよいはずです。

(P179)

なるほど。「主観が大事!」って思いました。 

事象に密着したメタ観察にはなりきれていませんでした。

(P179) 

「〇〇は良い」といった主張をするためにエピソードを刈り取るのではなく、「事象が内包する意味は何か」を見ようとすることが大切ってことです。

 

「実況中継」 の感じが残っています。自分がどこにもっとも感じ入ったのか、どこを取り上げたいのかがまだ全体の中から浮き立ってきません。

(P182)

 やっぱり「主観」が大切。それも「自分が」という生半可じゃない強い「自覚」が必要になる。なぜ、そこが浮かんで「図」となって、思い出されるのか、考えたくなるのか、その「意味」をピュアに問う必要がある。

 

また、「何が正しいか」の証明のための記述というよりは、自分を通した「真の事実」を見取るような印象を受けます。

「主観」を取っ払ったものは、現象としては事実なのだけれども、現象だけの事実は存在しなくて、そこには「自分が100%関与している」わけです。

現象としての事実ではなく「私が感じるあるがままの事実」という客観性が「エピソード記述」の醍醐味なのだと思います。

 

取り上げたエピソードをどう見るか

ここでは、エピソードが浮かび上がった後、それをどう見つめるかを一つ考えてみます。

従来の研究との接続はもちろん大事な研究の作業なのですが、その枠組みに引きずられると、事象の意味が一面的にしか見えなくなります。(中略)それ以外に他の見方はないのかと問い続けること、これがエピソード記述の方法論にとって大事な視点である(後略)

(P201)

 小文字のtheoryから大文字のTheoryに接続することについて書かれていると思いました。しかし、それに引きずられて、自分がそのエピソードに注目しようとした価値や動機のような「主体」がなくなってしまっては、本末転倒ということでしょう。

そうしたエラーやつまずきをなくすための方法論に「リアリスティックアプローチ」があるのだと思います。

 

「自分の立ち位置」が定まらないとエピソードが書けない?

第3章の第5節も面白いです。『自分の立ち位置が定まらないからエピソードが書けない』ということについて、書かれています。

これは、「ハピペン」が一番気になっているところです。自分の価値観や自分が何者であろうとしているかが(随時更新されるものだとして、その基準となるような価値観が)見えきっていないために、戸惑い迷い頭の中がこんがらがるのだろう、と*1

 

ここの『教師を貫く様々な価値観』の項が秀逸。

(前略)相手を主体として受け止めながら共にそこにいる、共にその場を生きるという面と、それだけでなく、その日の生活の流れや課題をこなしていく上で「させる」「求める」という構えをもってしまう面との二面が常にあって、しかもこの二面が「あちらを立てればこちらが立たず」の関係にある(後略) 。

(P202)

 その通りだと思います。ちなみに「ハピペン」はどちらかというと、前者寄り。

「共にそこにいる、共にその場を生きる」こういうの好きです。だから、本居宣長の教育観や性善説に「いいね!」って思いがある。

「その時代その子どもに必要なことは、その時代を生きる子どもたちが一番よく分かっている」という考えで答えに近づくことも少なくない。「分からなかったら子どもに聞く」ってやつで。まあその話は置いておいて……。

 

少し長い引用になりますが

 中でも教育の仕事は、目標を立て、その目標の実現に向かって努力する(教師が努力する、子どもに努力させる)という大きな枠組みがあり、一人の教師はこの枠組みからはずれることはまずできません。他方で教師は、「子どものありのままを受け止め」、子どもと共にそこにある(being with)ことを求められます。

しかも、その大きな教育の枠組みの内部には、やり方に関してあれこれの立場があります。また、後者の「共にそこにある」ことに関しても、どのように「共にそこにある」のかに関してあれこれの立場があります

その複雑な渦の中に巻き込まれ、その中で自分なりの動きをしたくてもできない面と、それでも自分が一個の主体として働きたい部分とがあって、それも自分の内部でせめぎあいます

 おそらく、そのような実践環境があるからこそ、多くの教師はマニュアルを求め、自分のすべきことを外側から決めてもらうことを求める動きを強めているのでしょう(たとえ自分の主体性を半ば犠牲にしても)。

ですから、善意の教師であっても、一つの職場の中ですっきりした気持ちで日々の教育実践に携わることができる人は、ほとんどいないといってもよい残念な状況にあるのだと思います。

(P202~203) 

 ここに書かれている内容は、まさしく自分のことを言われていると思いました。私は新卒で学校現場に入ったわけではないので、外部からの人間として少しでも早く学校の風潮に慣れたいという思いを強く持って学校で過ごしました。

しかし、学校現場へ入ろうと思った理由の中には「何かがなってないから子どもたちは不幸にになっている」という動機もありました。

私は、学校を尊重しつつ、自分の考えを殺しきることもしたくないという、まさに「内部のせめぎあい」がありました。

そして、立場が決まらず、実践を重ね子どもの姿を明確に伝えようとしても、自分の言葉と借り物の言葉が入り混じって、複雑な表現*2になってしまっていたのだろうな、と考えました。

 

どう改善するかですが、「読み手を意識してエピソードを描こうと努める」という項目があります。

ほとんど独白に近い、自分の実践日記のような書き方になっていて、読み手に読んでもらうという姿勢がうかがわれないことに気づきます。エピソード記述としては、そこが一番問題だというべきかもしれません。

つまり、これだけは伝えたいというものが書き手に煮詰まっていない、こう書けば読み手はどう読むだろうかという読み手の視点がないことが、裏返せば、そこでの自分の立ち位置がはっきりしていないことに通じているのです。

これまでも繰り返し述べてきたように、当日の記録とエピソード記述は違います。

エピソード記述は、読み手に読んでもらおうとして、そのエピソードが生まれた日の記録を描き直すことで出来上がってくるものです。

描き直すには一つの視点が必要です。つまり、自分の実践を評価する視点、自分の関与を吟味する視点です。その視点をもつことが一つの立ち位置をもつことに繋がるといっているのです。

(P207~208) 

 「あ、はーい……。」って感じです。

改めて、反省が浮かびますが、ここに書かれている考えをもとに「リアリスティックアプローチ」を実践していってみようと思っています。

 

そのエピソードを「何につなげるのか?」

「何につなげるのか?」この問いが、エピソードを描く意味だと言えるかもしれません。そのエピソード記述は、ただの思い出日記ではなくて、そこから見えた「考え」を次なる実践に生かすために描かれるものだということです。

そのエピソードを描く意味が明確になっているならば、自然とエピソードは浮かび上がるし、読み手を意識した記述にもなってくるだろうということです。

人の生の断面を描いて、そこで現場の問題を一緒に考えていきましょうというごく素朴な姿勢があれば、そして現場での実践を気持ちよく進めていくことができていれば、エピソードは描けるものなのに、というのが私の率直な感想です。

(P208) 

 単純な言葉になるが、「寄り添って共に生き、その人の人生に参加すること」そこからエピソードは浮かんでくるってことでしょう。「『本気さ』のようなもの」、「その子の人生に責任をもつ意志」、「知らない人生を知るということ」。これらが、「次につながるエピソード」として、「客観的な主観」になり得るということです。

 

最後に

エピソード記述を一言で表すと、

そこで取り上げられる場面は、その人固有の目を通して捉えられたものでありながら、誰にとってもそのように捉えられるものであるかのように提示されている(後略)

(P253) 

主観と客観のバランス」が重要なことを忘れないように。

 

注意点として、

一見したところでは確かに事実の提示であるようにみえるものが、実はその人の一面的な見方にすぎないということは往々にしてあり得ます。(中略)しかも常に「再吟味」の姿勢、つまり「これでよいのか」を問う姿勢をもって臨む(後略)

(P253~254) 

 「エピソード記述に正解や終わりはない」ということを忘れずに。

 

そして、冒頭に書かれていることだが、

「エピソード記述」は「関与」と「観察」である。エピソード記述を通して、「出来事のあるがまま」に迫ること。「関与の質」に迫ることを意識して、実践を省察していく。

 

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*1:それはそれで、いい「葛藤」や「リフレクション」をしているのかもしれないが……。

*2:こんなかっこいい言い方をしなくても、何が言いたいのか分からない文章、ただ文章力がないってだけってのもある

もうちょっと「エピソード記述」

朝は電車で本を読めている「ハピペン」です!これが今回の異動で一番嬉しいことかもしれない。朝の15分程度なのだけれど、確実に本を読み進めることができる!すごいぜ!

 

ってわけで引き続き「エピソード記述」について、こちらの本『エピソード記述入門―実践と質的研究のために』から気になったところを抜粋する。

 

第3章(P167)からは『エピソードが描けないという悩みの出所』についてが書かれいる。

 

ここの章が、「エピソード記述」を行うための「人間性」のような、一歩踏み込んだことが書かれていて、哲学的で私は好き。

前回にも『関与することで精一杯である』という理由などが書かれていると紹介した。

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次に『何が問題なのかが見えない』という理由が書かれている。

何が問題なのかが見えてこない、そのためにエピソードが拾えないというのも、(中略)しばしば抱える悩みの一つです。ほとんどの場合、それは関与観察に臨む人がどういう価値観に立ってその場に臨めばよいかが分からないところから来ているようです。

(P171 下線は「ハピペン」)

その通り!と思いました。要は「どの価値観か」に立てていないから、「関与することで精一杯」で、現象を落ち着いて捉えることができていないってことなのだ、という頭の中でごちゃごちゃとしていたことが、明文化されていると感じました。

 

そしてさらに、

これはもう少し踏み込んでみてみると、単に自分が一つの価値観をもてないというよりも、人と接するときの今の自分の気持ちを下敷きにして、そこでの周囲の人たちの生き様を見て考えるという、ごく当たり前のことを当たり前にすることが分からない。要するに、自分で自分を認めることができない、つまり今の自分に自信がないということに行き着くということのようなのです。

(P171 下線は「ハピペン」)

(鯨岡さんは、ちょっと語り口が『加藤諦三』さんにも似てるような気がしてきた。それは、置いておいて……。)

グサッ!と来ますね。

瞬間的に浮かぶのは「心そこに在らざれば、見れども見えず、聞けども聞けず」の言葉です。

「そう何もかも、何もかも『私の心がなかった』のがすべての根源。大変申し訳ございません。」って気持ちです。

 

「いや、見ようとしてるし!頑張ってるもん!」って、可愛い顔をして言いたくなるけれど、実際にエピソードが拾えてねーんだったら、そうなんだろうよっ!ってもう一人の自分が可愛い顔した僕を蹴る。

 

「どーも、しやせんしたっ!!きりっ!」ってな感じで、こーんくらいぶち壊れたくなるほど、ダッメージなお言葉でしたっ。(別にそーんなに自信がないって感覚もないんだけどなあ……けど、奥底にそういうのがいるのかもしれないって思ってしまう……。)

 

要は、どこか「他人の顔色」を気にしちゃいないか?って話なんだろうな、って。

そりゃ、空気を読まなきゃ送れない社会生活もあるわけだけど、「いかに子どもを見られるから」って、それって「己の本心で見とんのか!?」って話で、「いやーだって公務員だよ?私情は挟みませんよ、旦那」って言いつつも、「己がない人間が人を育てられんのかい!?」って言われりゃ、「へへーい。そうっす。そうっすよ、おいらもちょうどそう思っていやしたところでやんす」状態。

 

さて、また来た価値観の二分化。うざったいのは、立ち位置を決めると、そうじゃない方の価値観で柔軟に否定してくる1・2・3・4番辺りの人なんじゃないかと思うのだけれど……。

 

ホリエモンも新書『すべての教育は「洗脳」である?21世紀の脱・学校論? (光文社新書)』の「あとがき」で、「やればいい!」って言ってたよ。「こういうのやりたい、どうですか?アドバイスくださいって言ってくる人がたくさんいるけど、僕は『やればいい!』って言っています。でも、やらない。その原因が学校による洗脳。」みたいなニュアンスを書かれていました。

 

そうだよ!上!「やればいい!」だよ。まあ、それで、なんかあってからじゃ遅いってのは分かるから十分な吟味は当然に必要だとしてね。

 

話が跳ぶんだがね。この回は、「エピソード記述」の話ってよりは、「価値観」についての一幕になってしまったよ。暗に古い人々への文句でしかなくてね。

 

なんとなくもうちょっと続く「エピソード記述」について……また、次回。

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重い子・軽い子

1週間終わったー!な「ハピペン」です!

 

ただ疲れすぎてはいない。上手く力も抜きつつ、自然体で出来たってことかもしれない。

 

常勝で上昇です。やってきたことは間違っていなかった!?国・算への支援がどハマりで、落ち着いて学習して子どもたちは、笑顔で帰って行きました。

来週も来たいと思ってくれていると嬉しい……。

 

はい。そんなんで今日思ったのは、学校って不思議だな、と。何に給料が出ているだろうか、ということです。

正直、疲れ具合は、子どもによって、そういう意味では子どもとの相性によって。決してあの子が大変ってことでなく。大変な「クラス」って表現もあるが。だからってその他諸々があったとしても「給料が上がる」わけではない。

人権的観点から、そりゃそうだろうけど。

 

給料は、疲労感やストレスへの対価ではないってことだ!(当たり前だ!)

 

いや、だって、「重い子」「軽い子」って表現の会話って少なくないと思うんだよ。(kgでなくてね。)

 

じゃあ、ところで、私たちの何にお金が払われているのだろう?と。

 

ぶっちゃけは、教育課程を修めていくことへの給与な気がするけども。

予算は、ある「枠」に対する人数で決まってくるよね。

ただ、やっぱり、今年の給料と昨年の給料が同じってのが(ベースアップはあるよ?)不思議でならない。どこに対して「同じ」なのだろう。

 

人数は正直減った。負担感も減った(あくまで感。オレの力量のせいってこと)。

なのに!って思って、「ああ」って気づいた。

 

私たちは「伸びしろ」に対価が支払われているのではないか、と。

あるゴールまで行ったらいくらではなく。

あることをやったらいくらでもなく。

一人ひとりをこれくらい伸ばしたらいくら。

この「これくらい」は誰に対しても共通な物差しにできるかな、と思った。

昨年までのあの子たちも「こーん」だけ伸ばした。

だから、今年の子たちも「こーん」だけ伸ばす。

その内容とか、負担感とかではなく。「こーん」だけ伸びているかが価値だから、給料は変わらない。

 

そうすると、大変さとかは置いといて「目の前の子を伸ばすこと」に価値をもってる自分がいるって思えた。

(もしかすると「こーん」だけ伸ばそうとしたっていう「伸ばそうとした」が限界な価値なのかもしれないけど。)