かならず幸せになれるいきもの

おしゃべりによる出現する未来から学ぶ

「よくなりたい子」と「声の大きさ」

目が痒すぎる!「ハピペン」です!目を気にしすぎて、その仕草を子どもに真似される始末。電車の乗り換えの人たちがたくさん横を通るだけで目が痒いよー。

 

その真似をする子。今年一番近くにいる子。いつも教師に非難されている子。

声が大きいのが課題だったのだけれど、今日「声の大きさ表」をシンプルなものに変えた。

 

「5段階」から「3段階」

「かたつむり→ねずみ→ねこ→いぬ→らいおん」という謎の指標から「1→2→3」の数字表記に変えた。

私自身がらそうなのだけれど、動物の声の大きさ表では楽しくなりすぎて混乱する。大きさとかよりも、思うままに想像した声を表現したくなる。

動物の声の大きさ表を声の大きさだけに一般化するには、困難だと思う。面白いのはこれを全校で使っていて、全教師の「かたつむりの声観」や「ねこの声観」が一致しているのかどうかだ。

あの先生はこれで「いぬ」だったけど「らいおん」だって言われた、みたいなことが起こるんじゃないだろうか。

そしたら「いいじゃん3段階で」って思う。

 

ちょっと話が変わるが、その子は、特性を否定されて追い詰められたとき混乱する。

問答無用の叱責。お前の行動は明らかにおかしいという指摘。あなたはなってないという前提の指導。

これらは、すべて、人格の否定だと思える。

どうしてかと言えば、配慮や支援さえあればできるからだ。

現にその子は「new声の大きさ表」を見て声の使い分けが出来た。出来る能力があったが、指導法(声の大きさの示し方)が悪かっただけとしか言いようがない。朝の会でも発表してもらって高学年からも「上手!」と丸を貰えた。

その子に「よくなろうとする気持ち」があって、それを潰しているのは大人だろうと思う。「よくなりたくない子はいない」し、「よくなりたい子」に方法を提供しないでやっつけても仕方ない。

できることをできない状況にしてしまっているのは、その子ではないのだ。一般的な環境で正しい振る舞いを発揮できないから叱責されるとしたら、それはただの差別じゃないかって思う。

もちろん注意はいる。ただ、分かるようにやれって思う。「できてなさ」を知らしめても何にも理解さしられていないからできないままなのだ。その責任はどこにあるか。

正しく示せばやれる。そのポイントを見抜けるかどうか。

許される真っ当な理由は、周りの子にずるいと思われていじめに発展しないために見せしめにこちらも辛いけれど仕方なく叱っているという理由くらいだ。

ただ、そんなくどい理由で自分のしたい注意をするんだったら、いいから、黙っててほしい。

よくある光景なのだけど、給食で食べたいものだけを増やして食べたくないものを残す。その子は「それはお行儀が悪いから次からあなたは給食を増やしてはいけません!」ときつく言われていた。その子はなんらかの感覚刺激がある。歯磨きも好きじゃない。給食はいつも一品しか食べない。

そういう子に対して、好きなものを増やすことをお行儀がとか言ってんのは、一理はあるけれど、そういう考えもあることを説明するくらいが妥当で、結局捨てられていく給食を好きなものだけでも食べられて楽しめるならそれでいいんじゃないかなって。

「してはいけません!(キリッ)」てのには、その子のためではなく、その子を嫌な気持ちにさせたいだけなんじゃないか、って悪意を感じた。(これだと私の見方が偏ってるだけって言われそうだけども。)

教師が、その子が出来る手立てを思いつかないストレスをその子にぶつけては、その子の問題行動はよりドツボにハマる。その自爆のエネルギーが全部子どもの否定にいくんだからすごい。ちゃんと"させる"ことでは、子どもは育たないだろう、って考え。

振り返って気持ち良さを尋ねているならちょっと別だけどね。

 

「否定のない教育」でもなく「誉めちぎる教育」でもなく

ある交流級のクラスの子の名前を全員覚えた「ハピペン」です!

今日あたりから、ふと今の学校を楽しめそうな自分に気づいた。ホントちょっとしたことなのだけれど、昨日くらいから話しかけてもらえることが増えたと感じる。ちょっと根暗でキモイけど「あっ、話かけてもらえた」って感じる。

今日もそうだった。実際は、私云々ではなく、周りもつかの間のゆとりができて、私を含む他者に目が向くようになっただけってのもあるだろう。

その一因に、子どもの名前を覚え始めたっていうのがあると思う。先生の楽しさってのは、子どもがいなかったら皆無なわけで、その学校の子どもを知っていれば知っているほど、職場は楽しいってわけだ。そうすると、やっぱり楽しいんだよ、学校ってのはさ。

 

っていうところで、一つ記事の紹介。

私は、「自尊感情」や「自己肯定感」というキーワードについて考えるのが好きです。これらを、どうやって育むのか。私は何度か「否定しない」ってことを言っていますが、こちらでは「〇める」ことが良い、と紹介されています。 

h-navi.jp

 その通りだなあ、と思いました。

学童のときに大切にしていたのが、「信じる、誉める、認める、仕掛ける」ということでした。

そのうちの「認める」。私はこれを大切にしているのだな、と改めて気づかされました。

 

私が子どもによく使うフレーズに「まあそういう日もある」「そりゃ大変だったねぇ」「いろんな日があっていい」「気持ちは分かるよ」と使っています。

(私は、物語シリーズの、忍野メメが「元気いいねえ、なんかいいことでもあったの?」ってイメージで使っているつもり。)

よく大人がしてしまうのはこれらの言葉の後に、「でも……」と言って違う解釈を付け足ることがあると思うのですが、私はそれをしません。受け取って終わり。

言い返さない」ってことが「認める」ための鍵かもしれません。

 

「認める」ってのは、目の前にある現象や人間、出来事、時間軸を、「あり」って思えることだと思います。

失敗も、間違いも、辛さも、悲しみも、全部「あり」にすることで、自分がありのままでいることを受け入れられて、少し強くなれるのではないでしょうか。

 

今日、ビーチボールが頭の後ろに当たって、「痛ーい」と泣いた女の子がいた。私は、「んなわけあるか」って思った。百歩譲って、不意に対する感覚が過敏だとして本当に痛いと感じてたとしても、事が事だ。

私は笑いながら「まあそういう日もある」と言った。「本当に辛ければ休むがいい」とも。

そうして、今を「あり」にできたとき、踏み出せる一歩もあると思う。「大丈夫?辛かったね。苦しかったね。無理しないで。」なんてことも言えるかもしれない。でも、そしたら「なんで私ってこんな最悪で不幸なんだろう」って思えるのではないだろうか。だったら「そういう日もある」で「そういう日もあっていいんだ」って知った方がいい。

 

世の中の大人の価値観が「ノーミス」「完璧主義」に拠っているところがあると思うんだ。いいよ、失敗して。いいよ、間違って。いいよ、そのまんまの今で。苦しければ苦しめばいいし、楽しければ楽しめばいいだけなんだから。

苦しいのは嫌なことであっても、悪いことじゃないってこと。

そして、私は全員の人生を「あり」にしたいんだ。

「刺激」によって活動できないのは誰のせいか

今日も晴れてよかった「ハピペン」です。外遊びをしなくて、とお悩みの保護者の方もいるが……今のところ遊べてる毎日!!

 「感覚の違い」によってスムーズに活動できないのは、誰のせいだろうか?

「子どものせい」だろうか?

いや、それはないはず。「教師のせい」。

ただ、それも言い過ぎで、別に誰のせいでもなくて「でも、みんなで活動するにはどうする?」って問いがあればいいだけなように思う。

 

支援したのにできないと「ちゃんとやりなさい」が出てきてしまう教師もいるだろう。

「いや、ワン支援で当てられたら苦労しないわ!」って話だ。

 

そんな中、もはや、私には、発達障害の子にどうやって関わるかが染みついている可能性がある。(大胆に言ってしまおう!)

どうするとストレスなく指示が入るか。よくある文言を私バージョンにするとどんな風にするといいか、が分かっているのだと感じる。

 

その子どもへの入力が違っていれば「子どもの行動は変わる」。至極当然のことである。

それで、実際良い姿が見られるのだから。

 

まず、大切なのは注意しないことだと思う。(もちろんいくらでも例外はある。危険なときなど。)

幼保って素晴らしくて、子どもたちは大概存分に注意されまくってここまで来ている。

だから気づかせるだけでよい。一般的には注意でも指導は入る。しかし、そう簡単に行かない子がいる。そういう子には注意より選ばせる。そして、出来た時に喜んで強化した方が良い。

 

「刺激」について少し語ると、

・どんな「刺激」が好きか

・どんな「刺激」が嫌いか

の見立てが重要である。

 

「刺激」の構造は、たとえば「多少」「強弱」「長短」などがある。

 

SSTをやるにしても、たとえば「色」の刺激について考えることがある。見せる絵はカラーか白黒か。刺激が多いと落ち着かない子には「白黒」がよいと考えられる。特に視覚優位な場合、カラーでは刺激が強くなると考えられる。

 

大きい音で一番「快」の刺激が「怒鳴り声」や「叱責」であることをイメージしてほしい。

大きい声で注意すると笑う子がいたことがある。それに「笑うんじゃありません!」と注意すればさらなるご褒美になる。子どもはどんどんより怒られることを探してしでかすに違いない。

 

「多い刺激は嫌」だが、「強い刺激は好き」ということもある。

今日、算数の答え合わせを聞きながらプリントをやる姿を見る場面があった。いつも1、2分で出来る計算が一向に進まない。

これが発達障害なのだと思う。「ある刺激下では、多くの子が力を発揮できる場でも、発達障害の子は感覚の調整ができず、力を発揮できない」ということだ。

分からない教師は、自分の態度や環境に働きかけず何も変えないまま「早くやりなさい!なんでいつも出来ることができないの?やる気がないの?」とか言いかねない場面だ。

面白いのはいつも後回しにする文章題は先にやったところだ。

恐らく「ある刺激下では使いやすい脳が違う」ということだと思う。

ファスト&スローにあった話が関係すると思う。*1

 

発達障害の子を見る入り口や前提の一つに刺激があると思う。二次障害で心に抱えているものが少なく人を信頼できたり大切にできたりする子であれば、問題はほぼ「刺激」だけである。

要は「適切な支援さえすればよりよい行動を選べる子」ということだ。知的な面はさておき、黄道面については、大きく改善が可能なはずである。(5分後の給食が待たずに自殺しようとした子も今では中学2年生だ。)

 

考え方としては「刺激」を「値」としてみて見るといいと思う。たとえば問題行動があって、その問題行動で得られる「刺激の値」はなんなのか?

ざわつきや注目なら「よい行動をしたときに教師がそれ以上の刺激を与えるだけ」である。

そして「刺激の値」に合わせて指導を重ね、行動を一般化し、習慣化するだけである。

 

恐らくその「どんな刺激を求めているか」の的中率が高くなったということなのだと思う。

子どもが「なぜそれをするのか?」面白いのは「誰かを不幸にしたいから」ではなく「自分が幸せになりたいから」"ある行動"は起こるということである。

そうしたときの注意で、誰かに迷惑がかかっているとか、相手の気持ちを考えなさい、が虚無なことは言うまでもない。

 

あと、「好きな刺激」が「お母さんに褒められること」な子どもは実に指導が入りやすい。

 

保護者の方の力に感謝だと思いながら今日も働いたように思う。

*1:印刷をかすれさせて読みにくくすると、集中して読みスローが働くため誤答が減ったというような話

傘が……ある!!

「リフレクション」ってすげーなって今日この頃な「ハピペン」です。

 

いやー雨のつもりじゃなかったなー今日は。だって、夜中って聞いたんだよ今朝は……。

 

あ、はい、すみません迂闊で……。

 

今日は帰りに傘を借りました。

職員室で言ってみると、校長先生が、さーっと来て置き傘を貸してくれた。

 

って、いやいやいや、良さそうな傘で、壊さないか、失くさないかの方が心配になるよ!!

 

でも、ちょっとだけ嬉しい。

「傘がない」から感じた、「傘がある」ってこと。井上陽水ではない心持ち。

 

物事や出来事は捉えようによって変わる。

一昨日、本をやたらに買いすぎているかもしれない、と「購入履歴の金額を見て凹んだ」。

その日は、何年ぶりかの友だちと食事をしてその時に「自分の幼さによる失敗を話題にされて嫌な気持ちになった」しかも、その日は「終電を逃して14km歩いた」。

次の日の「職場のピクニックで思うように楽しめない」。

 

「ああ、もう、ダメダメだなあ」って思いながら今朝は通勤した。

それでも「リフレクション」をして「リフレーミング」してみる。

「購入金額を見て凹んだ」→「それだけ学ぼうとしてるってことじゃん!」

「自分の幼さによる失敗について話題にされて嫌な気持ちになった」→「それを嫌だって思えるように成長したってことだよ!」

「終電逃して14km歩いた」→「それで始めたこと、それで体験できたことがあるからよし!」

「職場のピクニックで思うように楽しめない」→「次また楽しめたらいいよ!勝手に辛がってるだけ!」

 

そう!そうに違いない!

そして、帰り際に「傘がない」と思っていたのに「傘がある」って事実を感じた。

 

やっぱり、見えてないだけで、その物事や出来事に「傘はある」ってことだ。それは、「傘を見出すかどうか」「見出そうとするかどうか」なんだと思う。

「傘がない」と思って臆するのではなくて、「傘がない」からこそ、「傘がある」可能性を見つめればいいだけなんだ。

 

「忘れ物」と「記憶」について

ブックオフで本を漁る「ハピペン」です。このブックオフへ行く途中に、「忘れ物の指導と将来の忘れっぽさは相関があるか?」という話になった。

 

将来のために、「精神論で!」忘れ物はなくさせた方がいいのか?

 

うーん?どうだろう?

その精神というところの脳の発達が将来の忘れ物に影響するのだろうか……。

 

忘れ物の指導は「なんのために」行われるのだろうか?

履修すべき授業が受けられないためっていうのは大きな理由だと思う。けれど、「忘れ物をしない力」を付ける、としたら、それって存在するのだろうか?

 

たとえば小学校であれば「中学では誰も助けてくれないんだぞ!」って言葉が放たれることもある。

 

誰も助けてくれないから、忘れ物は「しちゃいけない」のだろうか。

私は「そう思っててもしちゃうから忘れ物なんじゃないか?」と思う。

(それこそ、私が、その「忘れ物しない筋」みたいのを学童期に鍛えられない存在だったからそう思うのだろうか。私はどうしても「つい」忘れる。)

 

ただ、人間いつでも忘れ物をするわけではない。偶然か、何かの因果か、忘れ物をしないときもある。

そして、そういう日があるからこそ「精神論」にもっていかれるのだが……。

 

前に「荷物を揃える時間が関係する」と聞いたことがある。忘れ物をする人は、「朝揃えることが多い」らしい。

そうなると、精神論で、「するな!」ってよりは「前日に揃えて!」って指導言の方がマシなわけだ。

 

そして、本題。

ブックオフで、記憶について書かれている本を見た。

それには、記憶するには

「繰り返す」

「印象に残す」

「関連付ける」

が大切だと書かれていた。

 

「精神論」の「するな!」的な怒りは、「印象に残す」を使った指導なのだろう、と思う。

人間にはポジティブよりは、ネガティブな記憶は残りやすいとよく言われる。だから、「忘れ物をすること」と「怒られる」を組み合わせて、忘れ物を防ごうというわけだ。

 

ただ、怒られ体験と忘れ物をしないようにする意識が結びついているかを、冷静に分析する必要はあるだろう。

「怒られた印象は残るが忘れ物はする」という現象が起こっていることも少なくないだろう。

この指導法でいくなら「忘れ物をしてしまった印象」を「怒られた印象」が越えるような怒り方はしてはいけないということだ。

 

また怒ってくれる相手がいなくなったら、たちまち忘れ物をしてしまうのではないか、という懸念もある。

 

実は、忘れ物を防ぐには、その子に合った「仕組みづくり」の方が重要なのではないか、と考えている。

 

発達に凹凸があるかの中には、漢字を「ある大きさより大きく書くと覚えられる子がいる」と聞いたことがある。

小さいと覚えられないが大きいと覚えられるのだ。

人は大きい文字だと印象に残る。ただ、それだけの話だ。

ならば、忘れ物をしやすい子への「仕組み」の一つに、「もちものを大きく書け」というのがエントリーする。

そんな風に、「繰り返し」「印象に残す」「関連付ける」を組み合わせて忘れ物をなくしていき、自分に合った「忘れ物をしにくくなる方法」を見つけてあげた方が、将来の役に立つのになあ、と思った。

 

この辺りが「周囲の人は、まるでそうとは思えないようなこと」を「ある教師が支配する学級にとっては真っ当なこと」にできてしまうという教師個人の主観や価値観による教育システムの怖いところだ。

自分を一般化するのはいい。だけれども、自分を一般化して子どもを責めるのはやめてほしい。

できないのは、少なくとも「子どもだけのせいではない」っていつも思う。

「大丈夫って思って……」

今日は「休み!」な「ハピペン」です。プライベートでやらなきゃならないことを土日以外でどうやるのかさっぱり分かりません。

引っ越し、諸々のお祝い事、日用品以外の買い物など。アマゾンに住んでたら逆にamazonいらないんだろうな、なんてことを思いついてしまった。

 

今日も、やっぱり「経験」って大事だなって話。

 

子どもたちがイスでノッキングすることがたまにあると思います。これは、頭を打ったら大変だから厳重注意ですよね。

 

それでもする子はする。理由は様々。一番は、その刺激が「快」だからです。*1

 

そして、ある日、「ガタンッ!」となって、頭を打つける子が現れる。

けど、自分で手をつけたから軽くだった。その後も普通に過ごしていた。

そこで出てくるのが「大丈夫だと思ったので……」

 

放課後。偶然の連絡で「家で意識が変で救急搬送されて、今病院なんです」ってことが発覚する。

 

職員室で話しても、「大丈夫だと思って、保健室にも行かせませんでした。」と話している。電話口でも「大丈夫だと思って……本当に申し訳ございません」って言ってる。

 

その後「ひたすら謝ります!」って強く言ってる。

いや、そういう問題じゃないから。

 

想像力の欠除?命の重みが分からない?そういうことなんだろうか?

 

私は前にも「大丈夫だと思って系」のケースを見たことがある。

ブランコから落ちて顔を打った子がいた。同僚が保護者に連絡をし「大丈夫と思う」と話した瞬間、親はキレた。保護者は「看護師」だった。

その後も同僚は、だって 「大丈夫じゃんねぇ?」みたいなことを言ってた。(結局、すぐに病院に連れて行ったけど)

これが起こった要因は、反対に同僚に経験があったからかもしれない。これぐらいなら「大丈夫だ」とこれまでの経験から判断された。しかし、これは素人の推測だからプロの看護師がキレるのはよく分かる。この同僚は具合の悪い子が誰よりも早く分かった。そこだけは本当にすごいと思っていた。子どもを見てはいるし、判断力は実際あった。

 

ただ「大丈夫かどうか」は、決して教師が決めるわけではない。当たり前だが、だったら、保健室はいらない。

 

「ひたすら謝ります!」とその姿勢はいいんだけど、一体何を?と思う。万が一、意識の異常が「下校中に起こったら」ということはイメージしているだろうか。発見されず、帰ってこないという連絡から判明したらどうなるだろうか。

それが起こらない根拠をもって「大丈夫だと思った」のだろうか。追及されたら、想像出来なかったで済ますのだろうか。

恐らく、謝ることが山ほどあって多すぎるんじゃないだろうか。

 

そして、私が一番怖いのは、命の重みすら尺度は「教師の主観」なところだ。この辺りの尺度については、とにかく先輩たちの知恵を借りた方がいい。前任校で強く「その通りだな!」って思ったのが「首以上のことはどんなに小さなことでも管理職に集めて」ということだ。

組織の一人として、重要なことは「思った」で済ませてはいけない。

これは、上や養護教諭との兼ね合いもあるだろうから、どうしろってのは、なんとも言えないが……。

せめて、自分は「首より上は必ず保護者に伝える」ってことを胸に刻み込んだ方がいい。

 

預かるってそういうことだから。若い人は「風邪ぐらい」も思いがちなところがあると思う。自分もそういうところはあった。けれど、保護者の方が自分の子どもについては想像力が豊かである。

具合が悪い子を「やる気がない!」と怒ら出す人もいる始末で、そこだけは、愛情優先で敏感になった方がいい、と話したことがある。

 

ただ、これも「経験」があるから。前の同僚が、「具合の悪い子」を素早く発見することに愛情を感じたこと。その同僚が「大丈夫だと思う」と言って保護者に怒鳴られたこと。

そういう重みと自分の軽率さを「経験」で知っているから慎重になれるところだ。

 

いつかの私たちもたぶん「大丈夫だと思う」と無根拠に言っていると思う。

今の若い人たちも、当然に私たちも、それで実際に「大丈夫だった誰か」によって首の皮をつないでもらって、救われているだけなのである。

 

先輩な人たちは、その外しちゃいけないことを豊富に若手に伝えた方がいい。そして、たぶん私もまだまだ、知らないことがあるんだろうと思う。*2

 

「大丈夫だと思って……」大丈夫だったからって、無改善は許されないし、許さないと心に刻んで。

*1:私もやってたから、私にもその気があるのだなあと思う。ブログ見りゃ一目瞭然だろうけど。

*2:裁判の判例集や、事故報告集なんかを見ると特にそう思う

会わなければ分からないことは「ある」

 昨日は電車を乗り間違えてスカイツリーまで行っちゃった「ハピペン」です。

 

「ふたせん」さんに会えました!

ブログは「人」が書いている【ハピペンさんと会ってきた】 - 小学校教師ふたせんの朝3時からの共育現場〜育つ育てる育てられる〜

 

激しい情報社会と言われるものの、その激しさは一般ピーポーからは観測不能な頃。*1

情報は無料、体験が有料と言われる時代。やっぱり、「会わなければ分からないことはある」。

そして何よりそれが楽しくて「快」だからたまらない。

今回あえて木曜日にしていただいた。たぶん似たようなことを「ふたせん」さんも思っていたのではないかと思う。

 

平日のアフター5に電車で1Hかけて会ったとしても、「快」があるってことに挑戦したかった。

生の人間ってそれだけ魅力だし、「楽しい」ってことも感じたかった。

結果は、やっぱり挑戦して大正解でした。ほとんど「ふたせん」さんのおかげでしかないのだけれど。

 

会わなければ分からないこと。ってのは、教育活動で言うところの、体験しなければってことに近いと思う。

それをふたせんさんは「背景」と表現されていた。それこそ体験学習の前に子どもに感じ取ってもらわなきゃいけないことだな、と。

 

全然話が跳んじゃうのだけど、4年のゴミ処理について話すとき、自分が一番楽しいのは昔のゴミの集め方を考えさせているときだった。*2

 

ふたせんさんに会って一番感じる魅力は……語ろうと思ったけれど、これを会って楽しんだ方がいいってわけだ。

 

ブログのトップにあるように、大きいというか強くて寛大な「志」のある人と感じた。

安心感のある受け皿。

 

そして、いろいろな人に会っているからこそ、何を質問すれば楽しいかをよく分かっていて、

 

「なぜ学ぶ?」

「どんな実践を?」

素敵な質問だなあ、と思った。

 

あとは、「着実性」を感じた。これは、苦手とされているようなことをおっしゃってたので、そう感じるってことは、学びの成果なのだろうなあ。

 

あとは、とても「潔く」、己のもつ価値観のために「真っ直ぐ」。それが、分かりやすく示されているから安心するのかもしれない。

 

すべて、自分にはないもの。「ふたせん」さんは「人それぞれに良さがあって学ぶうちに隣の芝の青さも薄れる」と言っていた。今後も学ばせていただけたら嬉しいなって思う。

 

最後に、全部置いといてすごいのは、今日って「金曜」がやっぱりそんなには辛くないってことなんだ。朝もスッキリと目が覚めるし(スカイツリーまで行ってしまっても)、今日が楽しみになってる。

 

そういえば、私は、その「人間って楽しい」「生きるって楽しい」って前提を子どもに伝えたいだけだったことも思い返せた。

*1:肉眼で空を見上げても成層圏の境目が見えないように。

*2:でも、歴史は嫌い。本当は覚えるのが嫌いだったんだろうなあ。考えるのは好き。

エピソード記述「空気になってませんか」

背景

今年度より転籍の女の子。礼儀正しい。教師に認めてもらおうという気が強ように感じる。誰かが注意されると、その後に露骨に正しい振る舞い方をする。

 

エピソード

掃除の時間、頑張っている子をほめていく。その中で「私空気になってませんか」と女の子が言った。

 

省察

「ほめる」と「ほめられる」

その女の子をほめていなかったわけではない。しかし、コミュニケーションは相互作用的なもの。

「ほめられた」と相手が感じていなければ、それは「ほめ」にはならない。

ほめた気にならないで、教師もコミュニケーションに意識を払うことで乗り越えることができるかもしれない。

 

これまではどうだったか

「空気になっている」これは、これまでも言っていた言葉なのだろうか。

言えていたとしたらいいのだが、言えていなかったとしたら、その思いをこれまで飲み込んで生きていたということだ。

それを吐き出せる気兼ねない場であることが嬉しいと同時に、そんな言葉を言わなくても、誰が「いるね!」ってしなくても、自分の存在を自分で保持し肯定できる子に育っていってほしいと考えた。