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おしゃべりによる出現する未来から学ぶ

集団づくりに必要な視点(信頼関係を構築するロジック)「認めるための視点」#2

前回は、

○集団づくりに必要なことは、信頼と安心。

○信頼と安心には、認めること、受け入れること、愛情などが関係している。

集団づくりに必要な場や環境、信頼関係と安心について書きました。

 

今回は、

「認めるための視点で大切なこと」について書きます。

 

子どもを認めるための視点で大切なことについて、今回は「個性、主体性、性善説、自発性」について書きます。

1.「個性」

集団における子どもたち一人ひとりはそれぞれに違っていいですよね。

その前提があるから集団である必要があるのです。同じ人間は一人としていないから、私たちは協力して生きていく必要があるのです。

(人は、親友は2、3人までしかつくれないと言いますが、本当は全人類親友になれた一番楽しいのかもしれないわけです。きっとなんでも解決できます。)

個性

一般的に、個性とは「その行動や考え方に、人と違った独特なものがある」ということを意味している。これは、生まれながらにしてもっているというより、生まれた後のさまざまな周囲とのかかわりの経験を通して獲得されるものと考えられる。

 人は、生得的な傾向を周囲がどう受け止めて、かかわるかによって、その発達がおおよそ方向づけられる。その発達の方向は、大きく、人との関係の中で生きていくための共同性の獲得と、ほかから区別される、その人自身としてのまとまりを獲得する個別性の二方向がある。

一人ひとりがそれぞれ行動や考え方に独特なものがあるという前提は、一人ひとりの子どもを認めやすくなると思います。どんな子どもも違っていていいのです。

また、かかわる周囲の人々によって、共同性の獲得と個別性の獲得がなされていきます。私たちが子ども一人ひとりにどんなかかわりをしてどんな影響を与えるのか重要な役割をになっていることが分かります。

その中で私たちは、共同性を獲得させつつ、個別性を大切にすることも伝えたいわけです。誰かの役に立つ視点を抱きつつ、主体的に自分を生かす視点をもって生を謳歌してほしいからです。集団の中で一人ひとりの個性が生きている状態が、集団づくりの完成だと思います。

※集団のビジョンも重要。共同して、個別性が生きても、社会にとって悪いことしていたらいやです。

もう少し個性について

個性

 人に向かって開かれる共同性と、人と区別され閉じていく個別性は、別々にではなく日常のかかわりを通して同時に獲得され、分かちがたく結びついているが、概して、個性は個別性の延長にある。つまり、ほかから区別される枠組みを獲得し、そしてその区別された中身(行動や考え方)が、ある程度落ち着いて「その人らしさ」がかもしだされるようになった時、個性的と呼ばれる。

ここで周囲の大人が見落としてはいけないなと思うのは、個性は個別性の延長にあるというところです。大人は子どもの個別性を生かせるように共同性に導く役目を担っているように思います。

だから、ほめて育てるということが大切なのでしょう。なぜなら、人は誰も持っている個別性を否定することはできないからです。ときには、集団にふさわしくない個性を感じることもあると思いますが、それもその子の個性なのです。ですから否定するのではなく、そこもその子の個性として認めつつ、良い個性も称賛するわけです。そうしてそもそももっている「集団でも生かせる個性」を大きくしていくことで、偏った個別性の中で生きていくのではなく、共同性にも目覚めて集団の中でも生きやすくなるのだと思います。

※子どもには、必ず良い個性があります。性善説を前提として見つめる眼差しが必要です。

※共同性にも目覚める。個別性の中だけで自己を感じるのではなく、共同性の中でも同じように自己の存在感を感じらるようになるということ。

2.「主体性」

「これが自分だ」と個性を選んで、活動を選べることを主体性と言います。
わけもわからず、自分を発揮するのではなく、自分というものの主導権を自分が握ることを主体性の獲得と言います。
集団の中でその集団に属する全員が心地よく過ごすには、主体性によってよりよい自分を選べることが求められます。
特にポイントとして、実際にその集団にとって善い自分を選べる個別性がどの人間の中にも本来的にあると私は思っています。

主体性

 主体性は「主体としての、みずからの活動の認識と意味付け、そして活動のコントロール」の問題として扱われてきた。これを、自我の発達と並行して考えると、第一次反抗期といわれる3歳前後が、行為しているのは自分という意味において「主体性の獲得」と考えられ、第二反抗期といわれる青年期を経て、場面や時間をこえて、自己の欲求をコントロールする方向などがほぼ一定になった時に、「主体性が確立」されたということになる。

そこにいるあなたの生を存在を完全肯定されなければ、そこに自分を自分として見出して、集団に参加なんてできるわけがないのです。子どもは優しいから、無理して演じてやってくれますが、本来であれば心地よいはずの集団参加をありのままの彼らの姿でさせてあげたいと思うのです。

人は受身で生まれてくる。人は自分の「生」を選ぶことができずに、ほかから与えられるものである。この与えられた「生」を、自分のものにしていくためには、出生後の周囲とのやりとりの中で、全面的に受け入れられる(生まれてきたことを肯定される)経験が重要である。発達の時々のたとえば、わけもわからずおとなの手を払いのけるなども含めて受け入れられ、それを前提としたやりとりを通して、子どもは自己を獲得し、その自身のありようを肯定していく。
このような経験を重ねて、人との間で「この行為の、この感情の、この考えの主人公は私である」という実感をもち、この私に責任をもてるようになることを、主体性の獲得ということができる。

 

そうして、人とのつながりという、人間の生の醍醐味を感じてほしいのです。
ここで一つ注意として言っておきたいのは、正しい参加の仕方があるのではなく、その子一人ひとりに合った、参加があるということです。そして、それは、一度決定したら覆らないものではなく、日々更新可能なものなのです。誘えばいいし、誘われればいいです。断ればいいし、断られればいいです。でも、そこにある集団の楽しさという真実は伝えたいです。
 

3.「性善説」と「自発性」

何度か、子どもは本来善い方を選べるみたいなことを言っています。私は性善説と自発性の項にある言葉からそう確信しました。

 性善説

 孟子が、孔子の説く仁(人間愛)と礼(社会規範)のうち、仁の部分を強く継承した。その結果生まれたのが「性善説」だ。
人間には生まれながらの四つのよい心(=四端の心)がある。
・人の不幸を見過ごせない惻隠の心
・悪を憎む羞悪の心
・他者に譲る辞譲の心
・善悪判断できる是非の心 
これらをうまく育成すれば、
仁(同情心)
義(正義感)
礼(社会的節度)
智(道徳的分別)

 の「四徳」になる。

 私は、人間が、「自分と誰か」のために善を選べると考えいます。
その「自分と誰か」のバランスが崩れているとき、行動や人間関係に不均衡が起こると思っています。
それは、ちょうど個性の共同性と個別性のバランスの偏りに似たものを感じます。
本当は、バランス感覚の良い個性を選ぶことで気持ちよく過ごせるのに、上手く育まれずに、共同性ばかり強まった個性や、個別性が強い個性を主体として選んでしまい、結果生きづらい状況が起こるということです。
 
そして、私は、人間は、性善説で生を受け、悪を経て、また「善に成っていく」と考えています。
マリタンという人の「人間に成る」という考えがあります。人間は生まれたときから人間として在るのではなく、教育によって人間に成っていくという考えです。この「成る」は将棋の「成り」に近いものです。「成る」ためには、成るために別のものでなければ、成ることができません。「善→悪→主体性のある善」に成っていくのだと捉えています。
 
ならば、性悪説でもいいのではないかと思うかもしれませんが、自発性について見てみてください。

自発性 

人は、生まれながらにして育とうとする力(向かう力)をもっている。自発性の根源をここにみる。乳児(自身の内とか外を意識していない)の外に向かう力を媒介して、おとなはやりとりを開始する。無方向に外へ向かう力は、周囲とのやりとりを通して、周囲の期待することへ方向づけられ、乳児は、おおよそ周囲の期待する方向へ世界を広げていくことになる 。

 実際に子どもを見ていても、「成長のない人間はいないし、発達のない人間もいない」と感じる。生まれながらにもつ育とうとする力を信じて働きかけることで、個性を獲得していき、人は主体性を確立し、集団に参加する楽しさを知っていくのだと思います。
 
今回は、「認めるための視点で大切なこと」でした。
 
次回は、集団づくりのための個への「働きかけ」についてです。