かならず幸せになれるいきもの

おしゃべりによる出現する未来から学ぶ

「個性」を煽られる子どもたち―親密圏の変容を考える―#1

子どもたちは「個性的」でなきゃいけないってこと?

 

そんな疑問が沸く本のタイトル。

「個性」を煽られる子どもたち―親密圏の変容を考える (岩波ブックレット)

 

 2004年の本ですが、現代の子どもたちがかかえている、複雑そうに見える人間関係の仕組みのようなものが、一つの芯で書かれています。

 

「個性を煽られる」→「キャラ化する」→「つながりを煽られる」を読むことで、今の子どもたちにとって、今後の社会生活に必要で、かつ、人とかかわるための本当に必要な振る舞いや力はどのようなものなのかの視点を得られそうです。

 

「個性を煽られる」この一冊だけでも濃くて、大切なキーワード、根底となる考え、目から鱗の視点満載です。

(全4回に分けて書いていきます。見出しは、本の目次を使用しています)

【私の思っていた問題意識3つ】

私は、

1.今時の高学年を見ていて「本当の自分を出せないルール」(何か雰囲気のようなもの)に支配されていると感じました。

2.その集団の中にいて自分の立ち位置(要はキャラのようなもの)が決まると、自分はそういう人間なんだと自分で位置づける。その位置からは逃れられないものだと思い込んで、一生の間社会の中でもそうだと思い込んでしまう。

3.その集団で市民権が得られるように振る舞うことに呑まれる。

1.「親密圏の重さ、公共圏の軽さ—子どもの事件から見えるもの—」

1.親密圏における過剰な配慮から

ここには、

「友だち関係の重さ」

「相手というよりも、関係性そのものを気遣っていること」

「素の自分の表出と装った自分の表現のズレ(親密な関係で自分を装い、公共の場で素の自分を出す)」

といったような視点が書かれています。

 

私の思っていた問題意識の「3.その集団で市民権が得られるように振る舞うことに呑まれる」のイメージに近いと感じました。また、この原因が分かれば1の雰囲気の正体も見えてきそうです。

なぜそうなるのか?次のところに背景が考察されています。

 

2.公共圏における他者の不在から

「おやじ狩り」という行為や少年の犯罪の実態から、「他者の不在」について書かれています。

「私たちは、同じ人間に対して狩りという表現をとることは本来ありえません」P10L9

「彼らの主観的な世界に被害者という他者は存在していません。(中略)被害者への謝罪はまず出てこないといいます」P11L18

学校にも謝れない子がいますよね。この子たちにも他者が存在しないのかもしれません。

 

【私の思っていた問題意識の「なぜ?」に迫る】

少し話が横道に反れますが、私たちは、一体「どこからどこまで」を、「誰から誰まで」を人間だと思っているのでしょうか。

私は、結局「大人達の人権意識が問われているだけ」なのではないかと感じました。

どの子どもにも背景にはモデルや環境となる大人がいます。たとえば、親の人権意識は子に伝染するのではないでしょうか。

大人が、「何を人間としているか」また、「人間はどうあるべきか」この二つに一定の一貫した基準と、安定した視点をもっていないと、言動がブレて子どもは混乱するのです。

しかし、ピュアに人間である、まだ生まれて間もない、社会の中で強制的に生きなければならない子どもたちは、本当は人間はどうすべきか、どうあるべきか一番分かっています。

それなのに、できないことによくない評価を与える大人たちがいます。子どもたちはどこか違和感をもっていても、その大人に与えられる不安や恐怖から、合わせようとするしかありません。けれど、合わせられない子も山ほどいます。そういう子たちが、無意識に反乱をしているのが、教師の言うことを聞かない子どもたちなのだと思います。

 

「謝りなさい」と命令する前に、教師がその子を人間として扱っているかが問われるのです。「それでは将来困ると言って」未来のその子を人質にして脅す前に、人間として寄り添ってあげなければ、その子は人間でいたいと思えないでしょう。

子どもが寄り添ってくれていることを感じ、将来を人質にされずに、「分かるよ」って言ってくれて、「人間って心地よい」って思えれば、自然と「人間とつながりたい→謝りたい→謝る」の流れはできると思います。

 

私は、こうした視点は、通常級でも支援級でも変わらない視点だろうと感じ、意識しています。支援の子たちは、特性があって情報の入る入り口が違うので、その入り口に合わせて「人間の楽しさ、心地よさ、温かさ」みたいな物を伝えると、やっぱりちゃんと伝わって、謝れるようにもなります。

「社会で通用しないよ!」などと言って叱っている場合ではないのです。

(純粋に型として教える時期も必要なことは重々承知しています。「相手を悲しませたら、ごめんと言う」です。基本的には、幼保の時期に会得していることも少なくないと思いますが。小学校では、その根拠となる心を伝えたいですね。「心の伴わない指導をしない」ことです。)

 

と、だいぶ話が反れました。

そして、話のポイントは、

・親密圏での子どもの振る舞いが「素の自分の表出」から「装った自分の表現」になっていること。

・公共圏での子どもの振る舞いが「装った自分の表現」から「素の自分の表出」になっていること。

です。

 

ここで、私は違和感をもちました。

公共圏で「素の自分を表出」しているなら、社会には、純粋な気持ちの子どもが溢れて素敵なんじゃない?ってところです。

でも、なんとなくですが、そんな雰囲気って別に感じないですよね。

著者も、公共においては、他者を人間として見ていない、無関心だと書いています。

 

当然なのですが、「素の自分」にも「装った自分」にも、プラスとマイナスの「質(値)」がありますね。

 

私なりにまとめると、

・親密圏においては、「本来の自分とは違った他者を行動規範とした装った自分(無意識の可能性もある)」で振る舞い、公共圏においては「親密圏の関係に自分を奪われた抜け殻で無意識に無関心に陥ってしまった素の自分」で振る舞っている、ということだと考えました。

ここに、他者以外に「もう一人不在の人物」が浮かび上がってきます。

うまく表現できないのですが、

 f:id:penguin-kn:20160320085531j:image

 こんな感じです。

私は、図の装った自分と素の自分との間に「本来の自己」の不在を思いました。

これでは、「自分の本体」がいないのです。

果たして、自己が不在している人間に他者は認識できるのでしょうか。

そうなると、少し、私たちがしなければならないことが見えて来るような気がします。

(型ではなく、人間を教えるということ)

 

次の「キャラ化する」で少し分かりますが、「自己不在の子ども」は自分を肯定するために立ち位置、役割を見出し「自分とはこういうもの」と決めにかかります。

その役が健康的な役であれば、なんとか生き残れますが、その役が不健康なもので合った場合、自分では人間としてどこか違和感があるけれどその役をやるしかない様子な自分に耐えきれず、絶望の道を歩んで行きます。

私の思っていた問題意識の2とつながるところです。

 

ここまでを簡単に説明すると、自己不在に陥り、公共圏では他者に無関心になるほど人間らしさを失ってしまう理由は「親密圏の荒れ」だと考えられます。

親密圏は、本来、安全で安心な場である必要があると思います。しかし、親密圏を主流と捉え、そこでいかに注目や支持を得られるかが人生になると、その環境は油断の許されない隙を見せられない常に緊張感のある場になってしまいます。

「親密圏人生の中心→そこで意識が疲弊してしまう→公共なんてどうでもいい」ってことです。

間違いをすぐに大声で指摘するクラスは、「親密圏が荒れているクラス」だと考えられます。そして、いくら行為を注意したところで、それは直らないと思います。

行為を変えるには、ある意味では隔離するしかありません。けれど、学校はそんなことはできませんから、変えるとしたら心を変えるしかないのです。

それをしてしまう、脳の動き、動機などを変える他ないでしょう。こうした心に近い部分を変えられない原因は何でしょうか?その一つに環境の一つである大人も振る舞いがあると思います。

【私の思っていた問題意識の「解決」へ迫る】

さて、なぜ「親密圏は荒れてしまうのか」もとい「大人の何が親密圏を荒らすのか」

その背景には「多様化による見通せない社会に対する不安」があると考えられます。人の数だけ価値観がある時代で、私たちは一つの在り方を選ばなければなりません。私たちには、たとえば、常に9999万9999人の考え方を選択しなかったという葛藤があります。

多様になる理由は、文明が発達し、幸せの価値が多様になり、個の幸せと社会で生き残るための生き方が保障されるスタンダードな方法がないからです。いわば、人生が賭けみたいになってしまうところがあります。(日本は他国と比べて、セカンドチャンスがない国とも言われています)

 

これらの視点から「親密圏を荒らす大人」は3パターンに分かれていると思いました。

(1)悪いところを見つけては注意する自分のそのときそのときの感覚で厳しくする大人。

(2)自分の時代感覚、経験則で正しいと思うものを伝え続ける大人。

(3)一人ひとりの感性に任せて特に指導もせず働きかけもしない大人。

です。

 

挙げてみて思ったことは、大人も自己を見つめ直さなければならないということです。

まず、自分に不安があれば、不安だということを認識し向き合わなければなりません。

その心の作用から、私たちはいつでも万全の振る舞いはできないという前提を知らなければなりません。

こうした社会情勢で、社会で生き残る正解を見つけることは簡単ではありませんね。

(国の機関もたくさんの有識者を集めて、毎日のように会議を開き、どうすれば国民が生き残れるのか考え話し合っています。それでも、なかなか届かない現状があるほど、社会は複雑化しているのです。)

 

そうしたときの一つの兆しになる視点に、一つ、「人権感覚」があります。

社会のすべては、「命」か「お金」かで動いています。

それ以外が行動の動機になることはないといっても過言ではないでしょう。

「人権感覚」の視点とは、その中で「命」を優先する態度(視点)です。

この視点だけは、どの時代にも不易で覆せない視点です。「その子、その人、その目の前にある命」を生かすために今必要なことは何か。

それが「名前を読んだときに正しく返事をしないこと」や「手をきれいに挙げていないこと」を厳しく批判することなのか、大人は自身に問う必要があるのです。

 

それでも、必要があるとしたなら「あなたの命をこういう考えで守りたいから注意している」とキチンと伝えなければなりません。

少し手が掛かると思うかもしれませんが、豊かに会話のある家庭ならば平気なのかもしれませんが、今の子は会話の経験も多くはないと考えられます。

相手がどうしてそういうことを言うのか、どういう気持ちなのか、相手の意図を読めないし、暗黙の了解が分からないのです。

多様化しているからなおのこと意図の説明は必要です。なんのためのどんな価値観から来る指導だから分からないからです。

 

では、反対にどのような大人であれば、「親密圏」を荒れさせることがないでしょうか。

私は、

「自分と自分以外の世界」

「自立と社会参画」

自己実現と社会生活」

「命とお金」

などこの2つの視点の「間を見出して自分をつくりあげていける(幸福を追求していける)子ども」を育てることが大切だと考えています。

どのような大人なら「親密圏」を荒れさせないかを、一言であらわすと、「『人間であるその子自身の素質や能力を生かしつつ』、『命を長らえることができるように社会で活躍できる力をつけよう』という見通しをもっている大人」です。

 

しかし、自己実現と社会参画に必要な力を見出すことは、当然に簡単なことではありません。社会を捉えて見越すには、どうすればよいのでしょうか。果たして、何があれば社会で生きられるのか。

私たちは、社会を見越すのにどれくらいの期間を要するでしょうか。というよりも、時間さえあれば、いつか社会に一つの答えを見出せるのでしょうか。答えは「見出せない」ですよね。

 

やはり、社会生活にただ一つの正解なんていうのはないのでしょう。

すると、話は「人それぞれという方向に行きがち」です。

しかし、それも違うのです。

人類全体を包括するようなある一定の答えはあるはずです。

少し抽象度は高くなるでしょうが、誰もが「ある基準」をもつことで、誰もが生きられる視点はあると思うのです。

 

一つ忘れてはならないのは、私たちの判断材料としては「今、目の前にいる子どもたちが正解」なのでしょう。

その子に合わせて、教えていく。

私たちが「見据えた社会を『知らせていく』、そうして『選ばせていく』、それも『合意を形成しながら』」です。

 

大人が不安を解消するには、それを伝えることです。それは、社会というのは不安でいつ何が起こるか分からなくて、疲れて、忙しくて辛いってことではありません。

「君たちにこういう力をつけて、こういうときに乗り越えられるようにしたい。安心して過ごしてほしい、幸せになってほしい」といった希望を伝えるのです。

今必要なことは、大人の目に映るよくないと思ったり感じたりする「子どもの環境や型や振る舞いを変えさせること」ではありません。やっぱり、教えるってことが大切なわけです。選ばせることは、自立にもつながる大事な視点です。

 

となると、大人はその伝えたり教えたりしたい「社会観」をもっているかというのが問題になります。

たとえば、四季報を読んでいるかとかそういうレベルで、現代に照らしてというものでもいいかもしれません。もしくは、人間性や道徳性を教え、社会で人を傷つけないようにするというのも大切でしょう。

日本の「おもてなし」が世界で関心されたのは、まだギリギリ記憶に新しいですよね。

そう考えると、日本人は、そもそも、他者意識が不得意な民族でもないのです。

これは、強みにできるのではないでしょうか。

 

私はこんな風に思いました。「親密な関係の荒れ」は、

・子どもに接している大人(モデル)たちが、他者意識を怠っただけなのではないか。

・「命」より「お金」を優先してしまっただけなのではないか。

それは、たとえるなら、お腹がいっぱいなのにもったいないからと無理してお皿をあけようとする感覚に似ています。お腹がいっぱいなのは嬉しいことですが、別に胃袋を満杯にする必要は本当はないのです。その自己満足の幸せを追求してたくさん頼んで自爆している状態が現代なのではないでしょうか。(ちょっとたとえが飛躍していますかね。)もしくは、要は、自己保身に走った……。

 

また、大人がどこを親密圏として、どこを公共圏だと境界を示すことも大切だと思います。

それが、今でいう「規範意識」をもたせるっていう言葉になっているのだと思います。しかし、その規範意識の型を伝えたところで、簡単には子どもたちに入らないと思います。

公と私の違い、公の私物化について大人が教える必要があります。

たとえば「『みんなの時間』と『自分の時間』を意識させる」ことです。そのために、今はどっちの時間だと教え伝えることが最初に必要になります。

他にも伝えたい表現があります。それは「スイッチを持つこと」です。意識を切り替えるトリガーになるような合図を決めてもよいでしょう。

私は、たとえば授業のはじめの挨拶はすればいいのではなく、そこに「授業の時間に切り替えようって心がなければしなくていい」と言っています。

「めりはり、けじめ、スイッチング」が大切だよと、ことあるごとに言っています。

「ナイススイッチーング!」などと褒めています。

3.「つながり」に強迫された日常から

まず、「親密圏に気を遣い過ぎて、公共圏には気を回す余裕がない」ということが書かれています。

親密圏の人間関係の維持運営だけで完全に疲弊して、その外部にいる人間に対しては、もはや気を回すだけの余裕がないのです。

P15L14

また、「装った自分」の所属するグループの関係性を保とうとすることの辛さについてが書かれています。「質」のない短絡的な「ゲーム・動画・SNSなど」の時間の消費で、間に合わせの心地よさを感じているのだけれど、それは、本当の意味で親密な関係ではないので、いざとなったときに結果的に苦しいものになります。

こうした「短絡的なつながり」が流行るのは、生身の人と向き合わずに済む、かつ、孤独の自分と向き合わなくて済む無意識の時間の生産の手助けをするからでしょう。なんとなくつながっているムードという付加価値があって、これらが流行る時代というわけです。

 

そして、「優しい関係」についても書かれています。

対立点を顕在化させないような「優しい関係」のテクニックが、きわめて洗練された形で広がって行くことになります。

P17L11

若者のあいだでは、お互いの対立点や相違点に眼をこらして解決をめざすというよりも、対立そのものをなかったことにしてしまう「優しい技法」がいろいろと編み出されています。

P17L13

断定を避ける「ぼかし表現」や絵文字の駆使などがそのテクニックだそうです。

ただその配慮は、友だちを思って行われるものではなく、どちらかというと自分のための配慮であり、関係性を保つための配慮にすぎないそうです。

例として「友だちには優しいのに、それ以外の人には優しくない」という子どもが出てきます。

優しい行動がどの相手にもされるものではなく、一貫しないのは、自分の意識からではなく、その優しさが「関係性を保つための優しさ」だからなのです。

 

私たち大人は、それに気づかせなければいけません。そして、友だちへの優しさを感じたときに、それが思いやりで発揮されていない可能性があるということを私たちは知っている必要があります。

 

親密圏で装っている子どもたちの一番の動機は「スムーズな人間関係をいかに保ちつづけるか」です。

そのため、関係性のために「いじめをする」ということもあります。たとえば、そのいじめの行為に「差別はよくない」と言ってもダメなわけです。

そうした子に「なんで差別するの!」なんて言うと「この人何言ってんだろう?」とか「そりゃそうだよ」って感じになると思います。

ただ、「そういうのは差別っていうんだよ」と教えてあげると、「マジで?ヤバッ!」ってなることもあると思います。

大切なのは、大人が勝手にそれは差別に決まっていると常識だと思い込んで伝えていることがよくないわけです。

結局「子どもを見ていない」ってのが一番の問題なのかもしれませんね。

 

他に「気まずい人間関係」を嫌うという点も書かれています。

お互いの対立点が顕在化してしまうことは、過剰なほどの配慮によって表面的に馴れ合っているだけの「優しい関係」にとって大きな脅威です。

P21L10

摩擦を表面化させかねない危ういメッセージは、サイレント・コミュニケーションのチャンネルへと追いやられていくのです。

P21L12

サイレント・コミュニケーションについて、当てはまるか分からないのですが、 私が見たことを書きます。

給食の時間に班の子同士が笑顔で会話をしながらごく自然にストローを床に落とすのです。私は、「落ちたよ」と言って気づかないフリをして拾いました。その後ろう下見ていると、また2、3分あとにごく自然な動作でストローを床に落としたのです。「すごく落ちちゃうね」と言って笑顔でまたも拾いました。

子どもは気まずそうな顔をしました。

そのストローを配っていた子が、いじめの対象だったのです。

しかし、示される行為は、誰に気づかれるでもないのに単独で、ストローを床に落とすってことなのです。相手へのダメージが特別あるわけでもありません。

関係への意思表示だと思いました。また、先生助けてという雰囲気から脱したい行動にも見えました。

 他にいじめている子もいじめられている子も「笑う」という話が書かれていました。この子は、

静かなる秩序空間を傷つけまいと懸命にもがいていたのではないでしょうか。P22L11

人間は、慣れたパターンから出ることを嫌います。それは「いじめられている子」にも当てはまるみたいです。

でも、やっぱり、そのそもそものモデルを大人が示さなければならないと思います。慣れから脱してよりよい姿に変わっていく様子を、大人が子どもに示さなければ、子どもに変わることを指導することはできないでしょう。

関係性を優先するのではなく、自分を感じ取り、自分を選んで行く力を付けてあげたいです。

 

しかし、いじめる側もいじめられる側も、その関係から脱することは容易ではありません。

親密圏の引力が強すぎるために、その関係の外部に意味ある他者を見出す余裕がないからです。P22L12

もはや教師すら、子どもたちにとって意味のある他者でないということが書かれています。

意味のある他者とはなんなのかも考えていかなければなりません。

その装った自分たちが集まる親密圏に飽きが来ると、キャラ化とカーストがはじまる。

 

【ここまでのまとめ】

子どもたちの日常世界は、お互いに交通不能に陥っている多数のせまい小宇宙から構成されています。そのため、個々の仲良しグループが抱える問題を学校という公共圏へと開いていくチャンネルを持ちえません。

教師という役割主体媒介とした全体を見通すような視座を持ち合わせていないために、全体の共同性へと統合されないまま、それぞれの小宇宙がお互いに交信不能な状態で併存しているだけなのです。

P22L8

大切にしたい視点は、

・「個々の抱える問題」を→「学校という公共圏へと開く」こと。

・「教師を全体を見通す媒介と見なす」ように振る舞い、指導することです。

これらが、行われていないと、全体の共同性が統合されないまま、それぞれが交信不能な状態で併存しているだけになってしまう。 

一度あるグループに入ると、別のグループに移るのは難しいです。さらに、内部で対立が顕在化してしまうとグループの維持が困難になります。

だから、追い出されて行き場がなくなることを怖れて、「自分を装う」という板挟みの果てしない螺旋が不安の背景となるため、「親密圏の関係は重くなり」また「荒れる」のです。

 

いくつか、いろいろ私見を入れて書いてしまいました。

一番言いたいことは、「大人が子どもをよく見て働きかけよう」ということです。

「子どもたちが『幸せに生きられるように』考え方や振る舞い方などの作法を伝えていける大人になりたい」です。その真実味を手に入れるために、私たちは日々勉強をし続けるのですよね。

 

つづく

「個性」を煽られる子どもたち―親密圏の変容を考える (岩波ブックレット)

「個性」を煽られる子どもたち―親密圏の変容を考える (岩波ブックレット)