国立の小学校の授業を参観しました。
一番印象的だったのが、「授業中に児童指導で時間を取られない」というところです。
まあ、多くの人が参観していたというのも、授業で児童指導をする場面が出てこない要因に決まっているのですが……。
これは、支援の必要な子たちにとっても、落ち着いて学べる配慮につながりますよね。
算数の話をしているのに、授業中にボールを蹴りだす子がいれば、その注意を入れる場面が必要になります。
そうすると、授業の内容は、断片的になり自分の現在地が分からなくなってしまう子もいるでしょう。
授業中に児童指導がないことは、ねらいを全うするために重要だと感じました。
意外と学校というのは、慣れてくるとつい悪を取り締まってしまうところがあると思います。
けれど、授業は授業、児童指導は児童指導として捉えられる視点をもたないと、子どもに翻弄されてしまいます。
子どもに「学校の役割」の概要を伝える必要もあると思います。
なぜ「授業を妨害」してはいけないのか。
先生を困らせるために、妨害する子もいます。自分がつまらないから妨害する子もいます。
教師がつまらない授業を改善するのは当たり前として、「今の授業」を「周りの子」が受けて成長する権利があることも忘れてはいけません。
そういう意味では「みんな」で協力してどの子も学びに参加できるようになるといいですよね。
なんでも教師が背負おうとしたときに、クラスはごちゃごちゃになります。
支援級の中でも、たとえば、体育のときに「一番に集合できなかった」とか、ちょっとしたことで、体育館のすみっこに行って拗ねる子がいます。
そうしたとき、先生がずっと声をかけていると、周りの子は置いてきぼりになって、3回くらい名前を呼んだころには、他の子が立ち歩いています。
そこで「みんな」で協力の視点があれば、「せーの」で呼ぶと思いつくことができます。
そのもきは
「せーの、○○さーん!待ってるよー」
「せーの、○○さーん!大好きだよー」
などと呼びました。
結局、「反対に恥ずかしくていけない」と言われましたが、「じゃあやってるからあとで来てね」と言うと、その数秒後には来ました。
ボールを蹴っている子も「みんな」で説得という視点で、その子の気持ちを解決しようと「みんな」で話を聞いたら、何か索が出るかもしれません。
もう何点か、気づいたことを書いておきます。
・授業中のちょっかいなどは、子どもなのであるのですが。「大火事」にならない。
・しつこい「やじ」がない。
・ふいに脈絡のない「悪口」や「暴力」がない。
・授業でやるべきことに応じる。教師の発したことに試みることができるということです。(ここが一番難しいだろうか)
・45分の終盤でも開始5分と同じ集中力で考えることができる。(これも本当にすごいと思いました。考える忍耐力のようなものが強いな、と。)
終盤ほど、まとめであったり、最後に考えてほしい大切な発問があったりすると思います。そのときに、その時間一番の思考力を出すことが出来るのです。
これは、力が身に付くサイクルが生まれるだろうなと感じました。
まとめると、関係のないことをしない(ほどほどにはするところもある)、かつ、力を時間いっぱい発揮できるというところに関心しました。
また、自由をわきまえている様子もありました。
「自分が自分として尊重されるために、相手も尊重する」ということが「理解」できているのです。
なので、誰かが話していることを、「聞いて待つ」ことができるのです。
もちろん、教師の教科の授業力も大切です。
同時に、授業の内容が真っ直ぐ届くための、「授業で児童指導をする状況にならない」ために必要な、「子どもに付けられるといい力」のヒントが得られる時間でした。
また、当然、そうした力が子どもたちの未来にとって「何のために必要なのか」を見据えること。
そして、その力は授業を通して身に付けられるように、授業をデザインすることが大切だな、というところで、了。