読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

それでも幸せな人はいるから

特別支援学級の担任をしていて感じたこと。幸せな子ども時代を過ごす子どもが一人でも多く増えるように

通常級における支援級理解について

インクルーシブ教育 特別支援教育の視点 自分なりの視点

通常級における支援級理解のことでお悩みの方は、多くいるのではないでしょうか。

 

この先「インクルーシブ教育」が進むうえでこの問題は頻出するのではないかと考えています。

 

前提として教師の立ち位置が重要です。個人的には特に通常級の担任の先生が重要です。

 

この先生が、「インクルーシブ教育」をどう捉えているかが、支援級理解を可能にするかのほとんどを占めます。

 

どんな前提が必要かといえば、

・「インクルーシブ教育」は、どの子どもにとっても学びやすい環境を構築しようとすることだということ。(特別支援学級の子のためだけに何かをするということではなくて、全体の子どもの居心地をあげるために工夫するわけです。)

特別支援学級の子への理解がないのは、特別支援学級の子に対しての理解がないのではなく、学級や自分自身の過ごし心地に対して不満があるから。(当然、特別支援学級の子が頑張っていないから、能力が乏しいからなどではない。また、障害ということが明らかにされていないからでもありません)。

 

端的にまとめると

 

〈教師の視点〉

・教師が全体の居心地のために支援教育の視点を取り入れる

〈子どもの視点〉

・自分の環境に不満がある

 

ってことです。

 

支援級理解となると、障害理解が浮かぶかと思うのですが、 支援級理解の難しいところは、障害理解と似て非なるものなところです。

 

私は「支援級理解」と「障害理解」にある大きな差異を痛感しています。

 

「障害理解」は、「総合」でも扱われるように、障害についての理解なのです。

発達段階に合わせて「障害者の権利に関する条約」「障害者基本法」「障害者差別解消法」をふまえて説明することも可能なのです。

 

しかし「支援級理解」の場合、「障害」という言葉を使ってそこに在籍している子について理解を得るというわけではありません。

 

どのように説明するかというと、「誰にも得意と苦手がある」「特に○○さんは大きい音とか、たくさん人がいるところとか苦手なことがある」「一人ひとりに合った場で力をつけるために支援級で学習する時間がある」と言った言葉で説明します。

 

しかし、学年が高くなると、 

「オレらは自分でやってるのに、なんで○○はサポートがあるの、差別じゃんとか」

「じゃあずっと行っていればいいじゃん」

「なんで、アイツはできなくていいの?ずるくない?」

などが出てきます。

 

「障害」についての法律を示せたら少しは違うのか?などと考えてしまうこともあったのですが、ここで必要になる視点は、障害や支援級を「どう理解してもらうか」を練ることではないようです。

そもそも「障害」という言葉を出そうが出すまいが「支援級の子を理解することは可能」なのです。

 

言い換えれば「障害理解」や「支援級理解」は「違いを認める」ということを求めるだけです。

それをダメと言うのは「説明が巧みでないから」か「法律が出せないから」かではないでしょう。


そこで、必要になる視点は、ズバリ「通常級の子」の「心を育む」ということなのです。
「心が豊か」であれば、日常に不満がなければ「違いにイイネ」ができるはずです。

「自身も否定される」など、不満があるから、やっぱり自分が差別の対象だと思う価値を差別するのでしょう。

 

「心を育てる」という視点を逃さないために、以下の言葉を大切にできるといいかもしれません。

 

・「支援がいらない子はいない」

・「誰にでも支援は必要」

・「みんな助けてもらいたい」

 

これらの言葉を踏まえたうえで、悲しい言葉を言う子どもたちを「支える仕組みや視点」を持ち、学級や家庭などの環境に対して抱いている不満を取り除いてくことが大切です。

その先で、その子たちも心が満たされて、心が育ち、「自分とは違う」と感じる子を認めることができるようになるかもしれないのです。

 

やはり、「障害のある子」のための「インクルーシブ教育」ではなく、「どの子も大切にする」という視点をもとにした「インクルーシブ教育」が重要なのです。

ユネスコのインクルーシブ教育の解釈は、「どの子」もという解釈だそうです。)

 

 

そして、同時に大人がもてるといいな、と思う視点として
「大人が差別の基準をもたない」というのがあると考えました。


どういうことかといえば(これが難しいのですが)、
「大人ができないことを悪いこと」と示せば、子どもにもその価値観は移りやすくなると思うのです。

 

「ある状態」が「ダメ」となった瞬間、その状態がその環境において「ダメ」なものとして「差別の対象」が生まれるわけです。(社会的な差別観念のような、薄毛はよくないという風潮の感覚に近いものです。)

 

このように考えたとき、学校のメインである「勉強はできないければならないもの・やらなければならないもの」といった価値観が崩壊すると思います。


すると、教師は指導に困るわけです。

 

学校が勉強を教える根拠をどうもつかが、一人ひとりに問われてくるといった「面倒な状態」も起こりえるわけです。

 

少し勉強に対する価値観について書いてみたいのですが、

「勉強に対する価値観について」は、次回につづくとします。

広告を非表示にする