かならず幸せになれるいきもの

おしゃべりによる出現する未来から学ぶ

『キャラ化する/される子どもたち』―排除型社会における新たな人間像―#番外編(完)

一応#5のつづきですが、自分の考えを書くだけなので「番外編」ってことで。

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自尊感情を上げるには?#4

「キャラ化する/される」の中で

「承認欲求」に応じて人間関係が展開されているということが書かれている


そこで気をつけたいと思ったのが

「眼前の承認欲求」を満たすことと「自尊感情」を高めることの差異です

「眼前の承認欲求」は瞬間的なもので

消えてしまうものでしょう

似たような表現が本書の中でもあったように思います


対して「持続的な自己肯定感」を培う大切さも書かれていたと思います

そして、その「自尊感情」を高める視点こそ

「異質を認めること」と関連します

 


「デニス・ローレンス」によれば

「自尊感情」とは「自己像」と「理想の自己」とのギャップを

大きいと感じるか小さいと感じるかの感情なのです

「眼前の承認欲求」における

「自己像」は「良いリアクション」が得られないかもしれない「外キャラ」です

「理想自己」は「良いリアクション」を得られる「外キャラ」ってことです


しかし、その評価者は常に他者であり「自分の中に持続的な肯定感」を抱くことができません

 

「自尊感情」における

「自己像」は「自分の思う自己」なのですが

この「自己」がどんなフィルターを通って導き出されたものであるかが重要です

「一般的な社会のモノサシ」や「出会って来た他者」

「これまでの経験」といったフィルターをくぐっているか

 

そして、「他者との比較によるリアリティのある自分の現在地」をイメージできている「自己像」なのかが問われます

 

「理想自己」は、「自分が属したいというコミュニティのフィルターに適うための自己」になります

自分が「自己像」を見つめ

「理想自己」をイメージする際に「異質な他者」と比較したり

「一般的な社会のものさし」のフィルターを通っていることで

「自己」に「客観性」が増します

 

すると、その「自己」は、「その場しのぎの自己」ではなく

「他者」「外界」「経験」などによって「規定され」

「揺らぎにくい自己」になると考えることができます

結局、自己はアップデートできるものか

ソリッドなものかという自己の捉え方次第なのかもしれません

 

また、その場しのぎでない自己は

「アイデンティティ型」の「自己像」といえそうです


閉塞的なコミュニティによって生き辛さを感じたとき

それは当然といえます(自己不在に陥るため)

そうしたとき、やはり自分の外側「異質な他者との共生」に目を向けることで

生きやすさにつながるのだと考えられます

 

誰かを否定することは、自分の中でいらない存在がいるというスタートを始めてしまうのです

そのスタートを切ると、いつ自分が否定されるかという不安が気になるようになってしまうのです

 

(今後、「違いを良い」と思えるにはどうすればいいか、という視点で方法を見つめて直してみようと思います)

「新自由主義」と「自己責任論」の功罪#4

(これが、たぶんめちゃ長い)

 

本書を読んでいて思うのは、

「自由の範囲の不明瞭さ」です。

その結果起こるのが「自分を規定できない」という事態です

 

なぜ規定できないかというと

  1. 「身近な他者」を規準として「承認」を交わし合っても
    それは「合わせている自分」であって本来の自分と違うといった
    「脆さ」をもつこと
  2. かといって「自分の内面」から「自分を規定」しようとすると
    それは「承認が得られない無限の不安」につながってしまうということ
  3. そうして、正解を「外側」に求めようとしても
    「多様化」によって「外側」にある「規準が不明」なこと

によるものです


では、どうやって「自分を規定」し「自分を立て直していくこと」が

「自分を生きられる術」になるのでしょうか

私は「曖昧な折り合い」が大切なのだと思っています

「規定するか」「規定しないか」ではなく

「規定する部分もあれば、規定しない部分も併せ持つ」ことが

「自分」なのだと考えます

コミュニケーションが相手との関係次第というように

「自分」という存在も流動的で一つに規定できるものではないのです

そんな「自分」を構成する視点を得るために

上に書いた3つのルールを「曖昧な折り合い」のつくものに変えてしまえばいいと思いました

  1. 「身近な他者だけ」を規準としないで
    「承認」を交わし合っても
    合わせないときも持ち合わせ
    本来の自分も表出するといった
    「脆さ」をカバーすること
  2. かといって「自分の内面だけ」から
    「自分を規定」しようとすると
    それは「承認が得られない無限の不安」につながってしまうため
    適度に他者と比較したり、自分と違う考えなどに触れたりして
    自分を再構築していく
    ということ
  3. そうして、正解を「外側」に求めようとしても
    「多様化」によって「外側」にある「規準が不明」なため
    絶対的な正解を見つけるのではなく
    話し合いなどによって、主観と客観を踏まえて
    「納得解」に着地してくこと

 

こんな感じ「曖昧で折り合い」をつけようとする「自己規定」の仕方も一つの在り方としてもつといいのだと思います

 

ここからは(ここからもかな)、

そうした「異質な他者」としての自分の考えを垂れ流していこうと思います

 

【その1】自由について「再規定」

上に書いたように、「自由が不明慮」だから
「自分の行動をどのように選んだらいいのか」が見出しにくいと思うのです

この混乱が起こるのは「多様化」ということで
「自由」についての捉え方(価値観)が一人ひとり違うためでしょう

「多様化」しているにもかかわらず、「自由」については統一されていたら
その「自由さ」が感じられないですもんね


また、家庭や学校で「自由」という言葉をどう意識しているかで、子どもが選べる未来は変わってくるかもしれません(これが格差につながっている可能性もあります、自由格差、価値観格差)。

 

たとえば、自由についての案として

①「どこまでも自由」だからこそ「すべて自己責任」なのか。

②「ある程度自由」だから「ある程度自己責任」なのか。

といった考えが浮かびます。

「人生が自由だから自己責任だ」と捉えていれば、保守的な人生もしくは捨て身の賭けのような人生になりうるかもしれませんし、

「人生がある程度の自由の中のある程度の自己責任だ」と捉えていたら、自分の力ではどうにもならないことがあること、他人と力を合わせて生きていく人生があることを想像できるのではないでしょうか。

(おっ、「違いにイイネ」につながる!?) 

 

そして、私たちは「極限的な自由」を求めていないことに気づかなければなりません。
自由だからといって、誰も彼もが自由に過ごせるというわけではなく、最低限の支えや枠はほしいわけですよね(私はこれを新自由主義と捉えていますが、あっていますでしょうか)。

そう考えると、子どもの「自由でいたい」という気持ちは、ある程度邪魔されたくない、嫌な気持ちになることをやらせないでほしい程度のものであることが分かります。

また「自由でいたい」という考えに縛られてしまっていて、それはちっとも「自由」な状態ではないわけです。

広い意味では、私たちに自由はないわけです。
たとえば、「世界中のどこに行ってもいい」という選択肢はありますが、実際に「世界中のどこにも行ける」というわけではないということです。

そうして、やはり、問題は「自分の規定の仕方」になってくるのだと思います。


自分は
(1)「何を選択したいのか」
そして
(2)「何を選択できるのか」

(1)は、いつでもありますが、(2)はいつでもありません。

日本で住んでいたら、義務や責任があります。

だとすると、一般的に私たちが指している「自由」は「日本では生きていたい」程度の自由ということです。

しかし、そこに「矛盾」があるのだと思います。
「日本では生きていたい」けど「日本で手に入らないようなもの」がほしいと言っているということです。

それは、もうほしいのは「自由」ではなくて、「何をしても否定されない状態」がほしいだけです。


子どもたちにこの「何をしても否定されない状態」という意味で「自由」を求めているとしたら、正さなければならないというのは想像しやすいかと思います。

「心」が育てばこれは改善されるでしょうか。
正解は分かりませんが、「何をしても否定されない状態」がほしいほど「生き辛さを感じている」というところにコミットしなければならないと感じます。

実際には「自由」を大きな枠で制限されたところで(日本で生きるといったレベルで)、実際の不自由さは思ったより感じないわけです。

自由を「誰にも縛られたくない」と捉えると

そもそも誰も縛っていないという状況があると思います

それは縛られたくないってことに縛られてしまっていることになる
 
そして「誰にも縛られたくない」という暴走は環境が悪かっただけで、本当は否定されたくないだけなのかもしれない。

「自由」について話したり、注意したりしているときに、どんな文脈が潜んでいるか、大人は少しでも意識できるといいと思っています。

そして、そもそも人は「そこまで極限的な自由」を好きではないと思います。
これは、やっぱり実際は、「自分とは他者の規定を含む」からだと考えられます。

人は誰かと生きたい生き物です。
内面だけに自己を探るのは無茶な話なのです。

 

あるとき目覚めたら、そこがどこだかも分からない大きなサバンナで、同じ言葉を話せる人と二人きりだったら、その人に声をかけるのではないでしょうか。

あなたは、もうそこで何をしようが自由なのに!
「だって、スマホがないよ!」という子がいるかもしれませんね。
ですから、そうした場合、「スマホがある」っていう自由を求めているわけですよね。
つまりは、「自由」は「いつも条件付きで与えられるものだ」ということになると思います。

簡単に言えば、その条件は、そこにいる「環境(法や慣習や道徳)」と「他者の自由の権利」の折り合いによって見出されるものです。

自由は権利であって、自由を得たいときには、そこに客体も存在して、その折り合いで自由が定まってくるところがあるということです(人権とも絡む)。

 

そして、イメージしてほしいのですが、
「教室である問題を提示されて、自由に行動してよいという条件で解決しなければならない」とき。
近くにいる友だちに話すという選択があると思います。「どうする?」と。

言いすぎれば、自由とは不安なものです(アノミー的自殺という考えもありますし)。

 指示待ちがよくないということがよく言われていましたが、「何をしてもいい」と言われると、「何をしたらいいか分からない人」は少なくないのではないでしょうか。

選択肢が多いほど人は幸せか、というと、少ない方が幸福感が高いというのも「選択の科学」で言われていることです。

「自由の範囲」が見えたあとに考えなければならないことは、その「自由の中」で「何を選択」するか、です。

 

【その2】選択について再規定

どの選択肢を選ぶかの「自由度」は日本は高いと思います。
それを阻む存在も多くいますが、選ぶことを「自由」として認めています。

では「どんな基準で判断するか」、これは同時に「自分の規定の仕方」とかかわってきますが、「自由から選択する判断基準をもっていない」ことは一つ問題として挙げられるかもしれません。


「社会の価値観が多元化」したからこそ「選択基準」の難しさがあるように思います。

「自由だからなんでも選べる」その結果未来では「選べないことが増える」可能性があります。
その実例についてが「不明瞭」なのです。

「目先の自由」に心を奪われて「先にある人生に目がいかない」としたら、想像力も問題に挙がってくるのかもしれません。
けれど、大人でも読めない現代社会の流れを子どもにイメージさせて選択させるのは無茶な話かもしれません。

ですから、それこそ現代の私たちを含め子どもも、「直観」といった「判断の規準」による「内面の自己を拠り所」として頼るしかないのは当然なように思います。

そんな中、少しでも、外界が選択の基準に影響を及ぼしていることで、選択の判断が洗練される可能性はあります。

「過去の体験」であったり、「出会いの質」であったり、「外」に明瞭な選択基準になる正解と思えるものが見出せるかもしれないのです。
やはり、ここでも、他者を介するという「曖昧な折り合い」が登場します(そして、またここにも経験格差・体験格差のようなものが見え隠れします)。
 

こう考えると「自分だけの自分だけに自分だけのための選択」はこの世には存在しないのかもしれません。

やっぱり、自分は「個人」と「社会」の両方から規定されている存在なのだ、と私は感じます。

 
しかし、バシッとそれをぶった切る言葉も存在します。

「自己責任論」です。


人は、楽な方、負担のない方、大変じゃない方へ向かおうとすると思います。
無限の選択肢から自分を選ぶことは、膨大なストレスのはずです。

その大変さを苦痛だと感じることが自然な流れとしてあります。

短絡的なメディアが流行るのは、その反映だと考えられます。
ドーパミン楽に出る行為をつい選択しがちなのです。

また、選択している中で、「生きるのが大変そう」と思われるのが嫌なのです。

「自分は大変じゃない側」に行って、大変そうな他者に「自己責任だから」という言葉をばらまきたいのです。

そして「選択ミス」をしたくないという気持ちは、閉塞的なコミュニティを生むし、指示を待って責任から逃れようとする状況も生むでしょう。
内輪で処理しきれる範囲でしか行動を起こさないということです。
内輪にないことを起こして、批判されることを逃れようとするわけです。まして、自分を拠り所にして選択したことを否定されては、たまりませんから。

また勝ち組・負け組という言葉も流行りましたね。人は誰も負け組になりたくないでしょう。

負け組にならないために、「自由の中で常に選択を迫られている」と考えると、今の生き辛さの状況、ストレスが多いであろう状況があることがよく理解できます。


負け組になったものは「自己責任」ってことで、フィールドから退場させられてしまいます。「異質な他者が助けてあげよう」ということはしないのです。排除型であり、包摂しようとはしないためです。

勝ち組になりたい人たちは、競争率を下げたいので、そうした態度になります。

しかし、そうした人たちは、地球の中でどんな競争が行われているかは特に知りません。自身のコミュニティでの感覚に則ってなんとなくそうしているだけなのです。

【まとめ】「自由」と「選択」と「自己責任」について

現代では「検索」さえうまくいけば、すべての情報を手に入れることができると思います。
たとえば手に入った触れられた情報の中で「何を体験するか」が、一人ひとりに問われるのだと考えます。


やはり、人は外界によって規定されているところが少なくないわけです。
どんな「情報」に出あえるか、は重要なわけです。

 

結局「自由」について気を付けなければならないことは「個人の選択を過信」しないといったところに尽きるかもしれません。

 

選択について気を付けなければならないことは「選択肢を選ぼうとするまでの権利」しかないということです。選ぼうとできるけど、「選べる」という自由はないのです(めっちゃ当たり前ですが)。

相応しい人しかそこにはいけない。
選ぶ権利であって、選べる権利ではないというところに注意がいるように思います。

 

「自己責任論」について気を付けなければならないことは「責任」を問うときに「個人」と「社会」の両面から問う必要があるということです。

私たちは、誰かの不幸を「社会の一員」として止めることができます。
意外と抜け落ちる視点なのですが、「被害者」を生み出さないのと同じレベルで「加害者」を生み出さないということも重要です。

「へぇーそうするんだ、まぁ、自己責任だからね」とか思っている場合ではないのです。それを止めてあげることで救われる人がいるなら止めてあげることも大切な視点です。
もちろん、体験させて失敗から学ばせるという視点もいるかもしれません。

ですから、そこを吟味することが必要なわけで、なんでもかんでも「自己責任」ではないということです。


あとは、大人が「自由」「自己責任」「多様化」というワードを「自分にとって都合のいいように使わないこと」です。

無限の自由な選択肢の中で、外界の規準もなく選択を迫られて、選択をした先は自己責任のみであったら、人は縮こまるしかありません。

最近研修などでよくフレーズに、「分からない」と言った子を誉めるというのがあります。
これは、大事だと思います。失敗を責めるのではなく、失敗に対してどう応じるかを伝える。失敗に対する大人のリアクションが子どもの自尊感情と関係することもデニス・ローレンスは書いています。
(ただ「分からないを誉める」をどや顔で言っている講師はちょっと嫌だけど)


肝を一言でいえば、異質を認める姿勢を大人がもつことですね。
大人たちが、異質をそれは大人どうしでも子どもに対してでも。

その先に、支えられているという実感や、他者と生きていくことの醍醐味、生きることは希望のあることだという喜びを味わわせることができるのだと思います。

また、「知る」ということへの貪欲さも必要かもしれません。  

 

「自由」「多元化」に翻弄されそうになりますが、 
私は、反対にそこ(地球の多様性)に希望を見出すことを提案したいです。

この世界に自分の居場所くらい必ずあるっていうことです。


「知りさえすればそのときの自分に相応しい選択肢に出あうことができる」でしょう。
 
そして、外界のフィルターを通して知ったうえでの「自己の選択」であれば、それは責任のとれるものになる可能性が高いです。

目の前の仕組みに翻弄されずに、自分を生きられる子どもたちを育めたらいいな、と思うところです。 

 

長かったけど「キャラ化する/される」は以上です。

最後に……

 よっぽど分かりやすい、著者へのインタビュー

『キャラ化する/される子どもたち』筆者、筑波大土井先生 - キミのミライ発見

 

 

キャラ化する/される子どもたち―排除型社会における新たな人間像 (岩波ブックレット)

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