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『つながりを煽られる子どもたち』ネット依存といじめ問題を考える#1

2018.5.6 Re:write

つながりを煽られるこどもたち ネット依存といじめ問題を考える

つながりを煽られる子どもたち――ネット依存といじめ問題を考える (岩波ブックレット)

つながりを煽られる子どもたち――ネット依存といじめ問題を考える (岩波ブックレット)

 

「土井隆義さんを読む」第3弾です。

 

第1弾「個性を煽られる」

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第2弾「キャラ化する/される」

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2014年の本なので、最近といえば最近ですね。

 

本書の裏表紙には、こんなことが書かれています。

LINE疲れ、快楽でなく不安からのスマホ依存、友だち関係を維持するためのいじめ(中略)

子どもたちが「つながり過剰症候群」に陥る社会背景と心理メカニズムとは?(中略)

承認願望の肥大化と、それはどう関わっているのか?
また、その隘路からの出口はどこにあるのか?

まさに、こちらに書かれていることを理解したいです。そのために読んでいきます。

①「つながり過剰症候群」に陥る「社会背景」と「心理メカニズム」について
②「つながり過剰症候群」と「承認願望の自己肥大化」との関係について
③その出口はどこにあるのか?

 

第1章 メビウスの輪のかげり

このメビウス。つまり、表裏一体の関係は何を指しているのでしょうか。

 

それは、ズバリ「人間関係におけるリアルとネットの境目がなくなっている」ということでした。 

 

第1章に書かれていること

つながり依存と常時接続が起こっている。

なぜかというと、多様化する価値観により人間関係の自由化が起こっている。

しかし、人間関係の自由化は、関係の二面性を引き起こす(みんなといるときは安心できる反面、一人でいるときの孤立感は強まる。「反応がない=自分に魅力がない」と感じる)。

関係の不安定さから、人間関係への不安が強まる。

その不安は「人間関係以外の選択肢が疎外された人間関係」が巻き起こる。

本来であれば、コミュニケーションは手段であり、情報伝達等を目的とするはずだが、コミュニケーションそれ自体が目的となり、"つながっていること"の確認が、人間関係の価値になっていく。

リアルでの関わりよりも、常に関わり合えるネットにコミュニケーションの場が移行していく。ネット内での同調できるコンテンツの探索を行って新たな友人関係を築いたり、リアルの友人ともネットでコミュニケーションを取るようになる。

閉鎖的な人間関係が出来上がっていく。

その背景となる動機には、「つながり格差」を恐れているという心理がある。

 

以上が「第1章」のおおまかな概要です。

以下にそれぞれ細かく書いています。

つながり過剰症候群

「つながり依存」からくる諸問題を「つながり過剰症候群」という。

大きくわけて問題は二つあり、

  1. 「つながり依存」からくる「人間関係の常時接続化」と「ネット依存、睡眠時間の問題」
  2. 「つながり依存」からくる「いじめ問題」

である。

 

これらについて考えるためのポイントとなる文を挙げておく。

いじめとはつながりを断ち切ってしまう行為だと一般にはみなされている(中略)今日のいじめは、人間関係を破壊するものではなく、むしろそれを維持する手段となっている。

多様化する価値観

学校が楽しいと答える中高生が増えている。一番の理由に、友だちと話したり一緒に何かしたりすること、と答えている。

1970年代、友人や仲間といる充実感は、半数程度だった。
1990年代後半からはずっと70%台を保っている。

日本社会が成熟期を迎えるとともに、私たちは旧来の制度や規範へのこだわりを弱め、それらに縛られない自由で多様な価値観を持つようになる。

昨今の背景に、伝統志向から伝統離脱へのシフトが見られる。AKBのセンターが投票で決まるように、若者たちの価値観は多様化している。

今日では多様な評価基準がいずれも等価に併存するようになっています。いまや専門家の判断ですら、その並列化した選択肢の一つにすぎず、素人の判断より優位性を保っているとは感じられなくなっている。

人間関係の自由化

価値観の多様化は、人間関係の築かれ方にも影響を与える。
ネットによって、趣味趣向に応じて、グループで人間関係をつくれるようになった。

人間関係の自由化とネット環境の発達が相まって、既存の制度や組織に縛られない人間関係づくりが広がってきた。
不本意な相手との関係へ無理矢理縛られることが減ったのですから、人間関係への満足度が上昇してくるのも当然の結果といえる。

自由な関係の二面性

「いつでもどこでもつながれる」ということは、「つながれていないとき」が際立つ。「いつでもどこでもつながれる」システムがありながら、誰ともつながれない自分は、真に孤独だという孤立感が強まる。

それは、自分に人間的な魅力がないからかもしれないという不安につながる。

この発想は、子どもに「つながり依存」してしまう背景としてとても納得できるものだな、と思いました。たとえば、地域での保護者同士のつながりは、子どもとの関係以外の他所での「承認」を得たり、自己存在を認めてもらえたりすることにつながり、子どもとの同化・依存を防いでくれると考えられます。 

 

ただし、常時接続は、常時接続を求めたから出てきたものだといえます。

なぜ、過度なつながり依存を示すようになっているのか。

調査から、サラリーマンより、女子高生の方が「ストレスや疲労」を感じていることが分かりました。その理由は「同級生との人間関係」だったそうです。

さらに、友人や仲間との関係についての「充実感・悩みや心配があるか」の調査では、ある時期までは、充実感が増え、悩みや心配は減っているものの、2000年代から悩みや心配が再び増え始めていることがわかりました。

制度的な枠組みが人間関係を保証してくれる基盤ではなくなり、それだけ関係が不安定になってきたことを意味します。
既存の制度や組織に縛られることなく、付きあう相手を勝手に選べる自由は、自分だけでなく相手も持っています。
だから、その自由度の高まりは、自分が相手から選んでもらえないかもしれないリスクの高まりとセットなのです。

こうした関係の中にある、互いが仲良しである根拠は、その場の感情の共有でしかなく、常に確認し続けなければ関係を維持することが難しくなる。

だから、満足感が上昇しながらも、また同時に不安感も募っていくのです。関係を保証してくれる安定した基盤がないので、互いに不安のスパイラルへと陥っていきやすいのです。

これからを生きる子どもたちには、
きちんと自己を表明したり、自己開示できることで、
相手にも自分を伝えることができ、
自分もあるべき自分のコミュニティに辿り着いて安心できるような力を身に着ける必要があると感じました。
なぜかというと、「自分」というものを表明せず、感じたままの不安から他人の言動によって自分を偽ったり、選ばれたいと思う自分を演じてしまうことで、自分ではない自分になっていき、生きたくない自分を気付かないうちに強制的に生かされてしまい、辛い思いをするのではないか、と考えたからです。

 

特にネットの関係は、文字情報にかぎられるため、本当はどう思っているのだろう?と不安が募りやすくなる。
気持ちを文字に託すため、言葉遣いが過激になってしまいがちになるところもある。 

 

ちなみに、親子関係ではどうかも書かれています。

価値観の多様化と、世代間の意識ギャップも縮小している(時代の変化を大きく感じないため)。「友だち親子」という言葉も出てきた。

親子がタテからヨコの関係になっていくことは、風通しもよく居心地もよさそうに感じる。実際、調査における居間にいる時間、家族といるとホッとすると答えた子どもも増えている。

しかし、親子がフラットな関係になるということは、子ども側からしてみれば、親に一方的に身を任せられず、すべてを頼り切ることができないことを意味します。
友だちとの関係がそうであるように、相手の期待に沿い、気に入られるような人間でなければ、自分を愛してもらえないのではないか。そういった不安も募っていきやすくなるのです。

反対に、親が親になれず「子どもは愛されるには条件が必要」と捉えている場合、注意が必要です。
親だから無償に愛するのではなく、価値観によって愛されるかが決まってしまう、実際は無償の愛を注いでいたとしても養育態度から、親の価値観によって愛されるかが決まってしまっているように感じてしまう家庭も存在することでしょう。 

疎外された人間関係

昨今のネットを介したコミュニケーションは、情報伝達ではなく、コミュニケーションそれ自体が目的化しているところがある。

本来、ネットとは、多種多様な人びとが、時間と空間の制約を超えて、互いにつながることを容易にした開放的なシステムなはずです。しかし近年は、身近な仲間どうしが、時間と空間の制約を超えて、互いにつながりつづけることを容易にする閉鎖的なシステムとして使われる機会も増えています。

友だちとの内輪の関係の維持に必死で、外部の人間にまで気を回せない。

または、日常の人間関係の不全完から、極端に外部の人間に人間関係を広げようとする(出会い系やSNS)動きもある。

 ネットにおける人間関係のバーチャルな相手を大切にするのは、リアルな関係から疎外されている欠落感の埋め合わせてとして機能している場合もある。

生活を充実させるための手段を人間関係以外に持ちえず、そのプレッシャーから自由になりえていないという点では、人間関係以外の選択肢の可能性から疎外されているともいえます。


そもそもその前提があるからこそ、人間関係からの疎外が大きな欠落感を喚起してしまうのです。


そう考えるなら、たまたま運よく学校での人間関係に恵まれた子どもたちも、やはり同様に人間関係以外の選択肢から疎外されているといえます。


彼らが、その関係をけっして手放すまいと躍起になり、帰宅後もネットを介して互いにつながりつづけ、つねに相手の動向をうかがわざるをえないのは、生活を充実させるための手段をそれ以外に持ちあわせていないからです。


だから、学校での人間関係から疎外されることを極端に恐れるのです。

動画やゲームのコンテンツにおいても、動画を見ることやゲームをすることが目的なのではなく、新たな出会いを求めて行っているケースがある。

 

土井さんは「異質な者とのかかわりが排除されていること」に言及しようとしているのだと思います。
ここまでに出てきた人間関係には「異質な他者が存在しない」のです。
あるコミュニティを見つけようとする働きかけは、方向性としては間違っていないのだと思います。
しかし、同質な他者である可能性が高い。
また、出会った先の異質な他者と安全な関係が構築できるかも問題です。
そのコミュニティで異質な他者との関係を持ち得るのか。
また、その関係は健全なものかをどのように見極めるのかが重要だと感じました。

 

関係不安からの依存

2013年の調査で

  • ネット以外に自分の居場所がある
  • ネット以外に熱中していることがある
  • 人間関係に恵まれている

と答えた小中高の児童生徒の方が、そうでないと答えた子どもよりもケータイやスマホの使用時間が長かったそうです。

ここから、彼らがネットの世界でつながっている相手は、学校などでリアルな日常を共にしている仲間でもある、ということが分かります。

また、年齢が上がるほど、ケータイとスマホの使用時間は増え、また、13歳と16歳の中学校デビュー、高校デビューにおいては特に増えるそうです。そこには、友だちの獲得競争が起こっていると考えられています。

リアルの世界とネットの世界は、けっして別ものではありません。表裏一体どころか、メビウスの輪のように表裏に境目がなくなっています。
相互に入り混ざり、つながりあっているのです。

はじめにも書いたように「メビウスの輪の翳り」のメビウスは、リアルとネットの境目がなくなっていることを指していました。

 

ちなみに、ネット依存も、ギャンブルなどの快楽依存の視点で考えることがあるそうですが、ネット依存とギャンブル依存は違います。

ギャンブルなどは、快楽依存であり、脳内の快楽ホルモンのドーパミンが分泌されることによる依存だそうです。
しかし、「つながり依存」は、これまでに書いたように、不安に駆られて起こっているものでもあります(快楽と不安が渾然一体)。

不安や緊張が高まったときに脳内で分泌されるのは、ドーパミンではなく、ノルアドレナリンなのだそうです。

 つまり、依存の解決方法も違ったアプローチが必要になるということです。

 

第2章は、

「なぜ2000年代に入ると、人間関係の充実度や満足感よりも、悩みや心配・不安感や不満感が増加したのか」

を見ていきます。

 

第1章を読んで「ハピペン」が考えたこと

(1)承認され続けなければならない、on・offのないストレス

人間関係への強いこだわり(つながり依存)からくる苦しさをどうするか。
そして、その先に、それでもどうしたって社会の価値に合うかといった問題は出てきます。

内輪で承認欲求を満たして、気持ちよく生きていても、それが、社会の求める価値と一致する部分が少なければたちまち、社会で承認を得られず生き辛さに出くわすということです。

価値観の多様化=「自由をどう捉えるか」に近いと私は考えています。
価値観が多様化する中で、"自由を教えられるか"が大人に必要な役割になるように感じました。
つい言ってしまいがちな、"人それぞれ"という価値で熟考せず、問題と向き合わずになんとなくの答えを出して、心に浮かんだ思いを濁してしまうことは「いつか出会う生き辛さへの入り口」に立ったことになるのだろう、と感じました。

 

(2)日常の人間関係の充実→生身の身近な人間の楽しさ。

日常の人間関係の不安感や不満感が「つながり依存」や「つながりを求めたネットへの進出」につながると書かれていました。

日常の人間関係が充実していることで、子どもたちは生きやすさを感じられるのではないか、と考えました。

"充実"は、もちろん「量」というよりは「質」でしょう。

そして、その「質」がどんなものであればいいかは、「生身の身近な人間の楽しさ」だと感じました。それは、見下したり小馬鹿にしたりする楽しさではなく、目の前の身近な人間一人としての価値、その人そのものの存在と時間や空間を共有する楽しさです。

「本音」をすべてさらけ出せというわけではないですが、「お互いが安心感のある中で自分を表現し合い、相手の存在を感じられる関係」をイメージしました。

それは、同時に「目の前の人間すべてに価値がある」という価値観をもっていなければ起こりにくいものだと考えました。社会が規定した人間の価値、どこかの大人が規定してしまった価値にコミュニティがのまれては、必ず否定される人が出てきます。

人間を正しく楽しむ(人間らしい生き方の)視点をもつということです。それは、その時代・文化・背景に合った知りうる範囲での人権を正しく理解するということです。道徳的な視点からの「人間の崇高さや尊さのようなものを感じさせることができても素敵だと思います。

前提として、一人ひとりの人間的価値は、同等であるという信念や風土・雰囲気などの環境が必要になるかと思います。

 

(3)生活の充実の鍵は「人間関係の充実」以外にもあるはず

 (1)(2)から派生するイメージ。
生活の充実の鍵を「人間関係にしかもてない」ことは不自由で、人間関係以外の選択肢に対して盲目的すぎるだろう、と。

「自由」とは何か「人権」とは何か、の問いから「人間の崇高さや尊さ」が見えてくれば「人間の楽しみ方」が見えてくるように思います。

それが、個人的には「&のある生の謳歌」だと考えていますが、目の前の人間関係は、目の前の人間関係以上でもそれ以下でもありません。

「人間を楽しむ」といったときに、唯一無二の環境に生まれている「自分を楽しむ」視点が他者に翻弄される「生」ということでいいのかは、問わなければならないと感じます。

乱暴に言えば、「自由」と「人権」を知ったうえで、社会で生きられるような「やりたいことやれよ!」っていうのが、テーマかな。

 

(4)コミュニケーション能力は手段であって目的ではない。

「一人になりたくない病」苦しい。これは、誰もがそう。

それが先行して「コミュニケーションを求める病」が起こる。

その背景にあるのは「承認欲求」や「愛着の問題」なように思う。
これは一体そもそもなんのために表れてしまうのか?

この「病」に翻弄されてしまうと、生きる目的が健康なコミュニケーションの獲得になってしまう。

そうすると、健全なコミュニケーションの獲得のための「コミュニケーション能力の獲得」が目的になってしまう。

しかし、私たちが生まれた目的は「コミュニケーション能力の獲得」とは違うのではないだろうか。

要は、赤ちゃんが泣くのは、コミュニケーションがしたいからなのだろうか。
私は、「何か」を要求するためにコミュニケーションをするのだと思っている。
コミュニケーションは目的ではなく、手段のはずである。

「何をしたいから」コミュニケーションをするのか?

「自分を慰めるため」だとして、その慰めた先に何があるから、今はコミュニケーションをしておきたいのか?

その先にイメージがないとしたら、そこには未来も希望も幸福も感じられずに生き辛いに決まっているのではないだろうか。

 

こうした承認欲求や愛着の問題は、話し合いやカウンセリングによって慣習的に対処法が伝えられて対応されることが多いように思う。
それはそれでいいとして、自然科学的に解決することは不可能なのかを気にしておきたい。学校的無難主義(勝手に命名)は嫌だな、と。

 

(5)リアルのネット上への拡張に対して

情報機器やインターネットの使い方を構造的に伝えられるといいのだろうな、と思いました。情報機器の「承認ツール」に翻弄されて、「やりたいこと」や「すべきこと」を見失うなよ、と。

ネットやスマホは「手段」のはずで、「目的化」されるべきではない。

それを触っていることが「目的」ではなく、そこで得られるものを使って何かを為すことが目的のはずである。

もちろん「承認」を得る手段として成り立っているのかもしれないけれど、それだけのための道具ではないということを「構造的」に示すことで、本来の情報機器の用途や価値と、自分自身のすべきことに気づく視点にならないかな、と考えた。

目的なくスマホを意図なくいじる危険性や、間違っても人間関係の承認を満たすためだけのツールではないだろう、ということ。

 

ここまでで3冊目。

積み重なってきたことで、自分の考えが出るようになってきた、と思いました。

 

つづく

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