のつづきです。
第2章「つながりの格差化」
※〈概観〉を廃止して目次でおおむねの流れを想像してもらうスタイルにしてみました。
【学校の比重の低下と多様化】
昔学校は、経済・健康の課題で行けなかった。
不登校の増加、学校の占める比重の低下。
【なぜ? 学校の比重の低下・多様化してきたか】
理由:生活が多様化してきたため。
〈流れ〉
物質的豊かさ
↓満たされた
内面的豊かさ
↓満たしたい
「生活」は人によって異なっていい。
↓よって
評価が横並びになり、社会などの大きなモノサシの価値が相対的に下がったため。
【なぜ? 若い人は経済より人付き合いが大事か】
2000年代の人間関係の不安の急増からも分かるように、多様化により自由な価値観を求めたにもかかわらず、どうして自らを拘束して縛るような「つながり依存」になっていくのか。
理由1:産業の変化
第3次産業が増え、良い品・質よりも顧客のニーズ重視。相手重視の価値観になっていった。
理由2:経済状況の変化
・パイが拡大している中の自由→不確実性を可能性と捉えやすい。
・パイがしぼみつつある中では→現状を死守、リスクや新しい関係をもとうと思えない、目先の確実性を大切にする。
以上により"自分のポジションを守るために必死になる"ためだと考えられる。
こうした流れは、「今ある不安の内容」に対する「合理的な適応の結果」に過ぎない。その時代の若者が悪いというわけではない。
【調整力としてのコミュニケーション能力の価値】
価値観が多様化した世界では、「価値判断の中身(理由や経験や根拠)に立ち入るのは難しい」ため、相互に異なった価値観を調整しあうために高いコミュニケーション能力が必要になる。
コミュニケーションを通じた説得力の強さに応じて評価が行われる。
コミュニケーション能力は、貨幣の役割といえる。貨幣が物と交換できるように、コミュニケーション能力があればどんな他者と関係を結べるため。
しかし、そこには一つの錯覚があることも忘れてはならない。
"コミュニケーションとは、常に他者との関係の総体"である。相手との関係による産物であり、個人の努力でどうにかなるものではなく、偶然の出会いによって大きく左右されるものだと考えられます。
現代の社会では、自由によって自分のことを自分で決められるように見えて、コミュニケーション能力という「相手次第の外部に規定される能力」によって、自分自身の評価が縛られていると考えられる。
結局、社会で適っている能力に自身の評価が揺らいでしまうということになる。
【学校における実態など】
「コミュ障」という言葉からも、自由だから自分で生きていけるのではなく、障害という言葉を用いて「個人の努力ではどうにかなるものではない」という認識がされていると考えられる。
調査から、親が子どもに対して「人間関係から外れるな」という願いを託していることが見て取れる。これは利他的に生きろというわけはないところに注目しなければならない。
調査から、「いい友だちがいると幸せになれる」と感じている子どもが多い結果が出ている。また、仲間はずれにされないために話を合わせる小中高生は増えており、その中でも小さくなるほど傾向が高い。
学級内にリーダーとなる子がいない、ともよく言われます。
リーダーシップは、保護者も求めていない。それは、良くも悪くも目立つことは非常にリスキーだと捉えられているためだ、と考えられます。
不登校の数は打ち止めになっている。一人で生きるのが不安なため不登校にもなれない。また、人間関係の過酷さが重すぎて教室に行けないという子もいる。
ただし、学校的な価値観は相対化されているが、学校の人間関係の比重は低下していない。
そのため、教室以外にも居場所がある子の方が、学校へは行きやすいと考えられる。それだけで学校での人間関係の重さが相対的に減じられるため。
【人間関係観の変遷】
友人の数にコミュニケーション能力のあるなしによる格差が生まれてきている。
その数によって人間の価値が測られるかのような感覚が広がっていく。実際、調査で友人の数が多いほど自己肯定感が高いという結果が出ている。
これらから、やはりコミュニケーション能力が人間の価値を決めるかのような錯覚が起こりやすくなってしまう。
1960年代は、一人になれないことが悩みだった。制度による濃密な人間関係を嫌悪していた。
1980年→伝統的な枠組みに縛られた人間関係をうっとおしいと思う人が多かった。自分一人で過ごすことを楽しいと感じていた。親しい人との交流はもちろんあって、それは自分の延長という捉えだったと考えられる。
2000年以降(現代)は、無縁化が不安の源泉となっていった。誰かとつながっていないと、自分は価値のない人間だと周囲から見られはしないかと他者の視線に怯え、自分でも価値がないのではないかと不安におののいてしまう。
今日は、一人で生きていくことが困難な時代といえる。
【「つながり力」が求められる!】
AKBの指原さんが1位になり、「やっぱり、うまく人とつながれる人!=すごい人!」ということを社会が感じているように見受けられる。
「意識が高い」という揶揄もある。
自分だけが目立ちすぎないように場の空気を的確に読みとり、そこに合わせていける人物こそ魅力的と思われているのです。
↓
このような傾向は、とくに学齢期の子どもたちの世界で際立っているようです。
なぜなら、彼らが生活時間の大半を過ごす学校では、互いに閉鎖的な空間のなかに置かれ、日々の生活で密接に付きあえる相手の範囲も限定されているからです。
そのため、友だちという人的資源をめぐって熾烈な奪い合いが生じ、一般社会よりも人間関係の落差が目立ちやすくなっているのです。
街角の雑踏に一人で立っていても目立ちませんが、休憩時間のクラスに一人でいれば目立たざるをえません。
【現実と学校】
子どもたちの意識のなかでは、刻々と人間関係の自由化が進んでいます。
しかし、学校のクラス制度は旧態依然で、相変わらず人間関係が狭く固定された閉鎖的空間のままです。
この両者の落差こそが、人間関係(があるなし)の物差し化を一般の社会以上に際立たせている結果を招いているのです。
※()は、pengui
子どもたちは、
・自分が友だちは少ないと思われてはならない
・魅力のかけた人間と見られはしないか
と周囲の視線に怯えている
そのため、
イツメン(いつも一緒のメンバー)を防御壁として周囲に張り巡らせる努力を日々ひたすら続けています。
それは、人間関係の維持がきわめて難しい学校という過酷な環境を、なんとか無事に生き抜いていくための知恵と工夫なのです。
〈所感〉
気になったことをいつも通り書いていきます。
(1)自由の濫用に気をつける
生活の多様化により価値観の評価が横並びになる、というところで、やはり「自由」の扱いが気になりました。
(2)「品質」より「相手意識」について
産業の主な形態が、
第1次産業「自然」、
第2次産業「つくる」、から、
第3次産業「対人」にうつっていきました。
少し話がズレてしまうかもしれませんが、上海やドバイの高層ビルのコンクリートの話を思い出しました。
日本のコンクリートは耐震性が高い高強度でした。
しかし、配合や材料調達の大変さがあり採用されなかったそうです。
上海やドバイの高層ビルは、強度では劣るけれど、材料の調達がもっと調達しやすくて、加工のしやすいコンクリートが選ばれたそうです。
この話から、私は品質の追究とともに、やはり「相手のニーズありき」なのだということを思いました。
要は、「相手にとって品質が高いか」なのです。
それぞれの「生活」の価値観の違いと似たものを感じるのです。
"そこ"に合った価値観が求められ、優先順位の中から選択されるということです。
子育ても同じ価値観の基準で語られていると思います。
一応、元記事(すべて閲覧するには登録がいります)
(3)パイが減っているとき、リスクを回避しようとすることについて。
ある関係に依存して自分の不安を緩和しようとする、といった話が書かれていました。
しかし、前回の「キャラ化する/される」では、意識的に異質な他者とのかかわりをしていく大切さが書かれていました。
今の友だちを必死に維持しようとする、というところで、「選択を変えないリスク」という考えが頭をよぎりました。
そこで、「モンティ・ホール問題」が浮かびました。
「モンティ・ホール問題」とは、
選択を変えた方が当たりやすい法則はどうだろうか。
「ブリーフ・セラピー」の原則も当てはめることができそうな気がするのですがどうでしょうか。
・うまくいっていることは、変えずにそのまま続けよ
・一度やってうまくいったのなら、再びそれをせよ
・うまくいっていないのであれば、なんでもいいから違うことをせよ
といった感じに。
(4)コミュニケーション能力において説得の強さが評価されるということ
今後コンピテンシーベースでエビデンスや「根拠」が大切になることと、「つながり依存」は関係があるのだな、と感じました。
「多様化」いろいろな価値観があるからこそ
↓
「コミュニケーション能力」
↓
説得力が必要になる事態。
(つながりを感じられない人、つながりに不安感がある人は、自尊感情が下がる)
↓
「エビデンスの必要性」
という流れがあったのですね。
これから説得力が強いと言われ、クライエントなどに求められる根拠には、3種類あると思っていて
・専門性があってスピード感がある
・スピード感がなくても長期的に生き残ってきた理論を使える(歴史の網目をかいくぐってきたよいもの)
・"その人"というブランド(これはキャラに近い価値観とも思います)
この3つのどれが求められると思っています。
その場にある慣習や、思いや発想・考え方のうち、以上の3つのどれかに触れていることが、相手の安心につながり、プロとして仕事を継続できるのだと思います。
こちらの話もとても参考になりました。
(5)コミュニケーション能力への示唆
本書で「コミュニケーション能力」について見ている中で、コミュニケーション能力は「伝え合う表現力」だけではないことがよくわかりました。
文科の定義などもありますが、「コミュニケーション能力」を「関係力」と言い直して考えてみました。
〈二つの関係力〉
①関係をもちたい相手と見なされる力。
一つは、関係をもちたい相手と見なされる力です。
(関係をもちたいと思われる構造はどこからくるのか?分かりやすいシンボルであることが重要なのかもしれない。シンボルがある、何者であるかがはっきりしているってことだろうか、と。)
②汎用的な表現力
もう一つは、より多くの他者とつながれる、汎用的な表現力(言語、態度、表情など)があることかな、と思いました。
(これが"コミュニケ―ションの力がある"ってことだろうか?)
思ったのは「人間関係の格差」は、人間関係があるか(量)が問われているけれど、コミュニケーション能力と見た場合、「人間関係を持ち寄る能力」があるかが問われるのかな、と考えました。
(6)「個性」へのアンチテーゼ?
「つながり依存」や「コミュニケーション能力」を求める動きは、「個性」へのアンチテーゼとは言えないだろうか、と考えました。
「つながり依存」を「つながり困窮」「つながり探し」なんていう風に捉えると、「個性じゃダメだってわかってきたのかな」と考えることもできると思いました。同質な他者だけを求めていてもいけないわけですが、「内閉的個性志向」からは脱そうという考えがあり、一歩踏み出したのかな、と思ったのです。
要は、「今、然るべきコミュニティへ」という感じに探索がはじまったのかな、と。
ただ、同時に「人間関係の自由化」があり、「内閉的個性志向」の範囲が「同質の他者」に拡張されるだけの話かもしれません。
あと、人間関係の自由化は、どの部分が自由化したのだろうと考えました。
一つ浮かんだのは、「範囲拡大の自由化」です。
距離や年齢などの範囲がネットの登場により各段に自由化しましたよね。
しかし、「維持の不自由化」「形成の不自由化」は強まったのではないか、と感じました。
「友だちを選べる時代になった」という不思議な気持ちがしますが、範囲の違いはあれど、これまでと感覚に大きな違いはないのだろうな、とも思いました。
(7)目立つ人のいじめリスクについて
学校におけるリスク、以前の記事で書いた「装えない人」は、必然的に目立ってしまい、標的にされやすいということになるなあ、と思いました。
それでも、自分とも外のコミュニティとも付き合っていかなければならない現実があります。大人たちにも、その間でファシリテーターとまでは行かなくても、今の子どもに相応しい価値観をもって応対する必要があります。
インクルーシブに対応するには、「承認されたさ」が蔓延している価値観は危険ですが、越えていかなければなりません。
大阪の大空小学校の「みんなの学校」の実践は一つの示唆をくれるのではないか、と考えています。今度映画を見に行ってきます。
(8)子どもたちへの支援として、人間関係構築のための支援技術が求められる?
子どもたちに、SSTして人とのかかわり方を教えることは多いです。
しかし、今は、その人間関係を「はじめるまで」の支援も考えて伝えていかなければならないのだな、と感じました。
(例)
友だちになりたければ、自分から話しかける。
たわいもない話力。
友だちの名前を呼ぶ大切さ。
など
これまでと変わらないのですが、こちら側の意識として「はじめるまで」の視点も大切にしようと思いました。
(9)人間関係=将来への希望?
今の子どもにとって、「人間関係=将来への希望」と感じている側面があるのだ、と感じました。
傾向として、
・一人になる怖さからくる、しがみつき合い。
・新しい関係はなく、既存のイツメンとのフラットな否定のない関係。
そうした子どもたちに「他との関係をもつ行動をするといいことが見える」と感じさせられたらいいな、と思うところです。学校での人間関係だけに固執するとその圧力には絶えにくいですよね。
たとえば、新しい関係を持たせられたとして、その良さはどうやって感じさせるのか、ちょっと今は想像できません。
また、人間関係が自由すぎる点は、ふらふらしてしまって、自分の居場所が規定できず、アノミー的な辛さへつながってしまわないか、と考えました。
自由な人間関係の中で、自身の価値観をもって、承認欲求にふりまわされず、「そこに在りたい」という根拠を持てると生きやすいのかも、と思いました。
(10)子どもたちの守らなければならないハート
本書で挙がっていたものですが、この二つを意識するだけでも、子どもを生かすことができるかもしれません。
・一人だと思いたくない
・自分に魅力があると思いたい
※所詮、両方とも「思い」ってところが肝だと思います。実際的なものというよりも、問題は、認知的なものだという可能性があるということです。
(11)社会と家庭と学校の連携って価値観のこと?
「価値観の多様化」と「相手の中身に立ち入りにくい」といったところを肌で感じます。そのために、エビデンスを大切にして示したとしても、結局価値観が違うと受け入れられないんですよね。
学校が判断する社会的にいいところを評価して保護者の型に伝えても、保護者の方としては魅力のない力でなかった場合、魅力でなくなってしまうわけです。
学校が子どもの良さをどんなに伝えても、家ではその子は「できない子」ということになり、子ども自身としても何をすればいいのか、自分がどうなればいいのか分からなくなってしまい、八方ふさがりの絶望を感じている節があります。
たとえば、「大人は可塑性がない」という名言を先日聞きました。
(「ない」は言い過ぎだけれど、変わろうとしている人は変われるけれど、変わろうとしていない人の可塑性は薄いということだと思います。)
そうした中で、その子どもの周辺にいる大人の価値観の足並みを揃えていくことが、いわゆる連携ってことなのかもしれないと思いました。
価値観が違った場合、どんな実践をしてどんな力を付けようが、それは「なかったこと」になってしまうのです。
「連携する」というとき、その人や場所に潜在している価値観を少しでも引き出す視点をもって仕事をしてみようと思いました。
(12)合理的配慮とインクルーシブ教育の先で
価値観の多様化や自由主義のような流れの中で、誰もが対等になって、合理的配慮の説明に苦慮する現実が想像しにくくないです。
私たちだって生き辛いと、通常級の子たちも声をあげてくることは、考えにくいことではありません。
そうしたときに「私たちこそ生き辛い」という、私たちにも「承認欲求をよこせ」っていう「装えない人たちへの反逆」は起こるかもしれない、と思いました。
「承認欲求」の問題を解決して、あるコミュニティを円滑に安心できる風土にしていくことは、「誰もが生きやすい居場所」になっていくことを忘れたくないです。
「学級」が誰かのためだけのものでないということを、全員が分かったらいいのに、という思いです。
さて、どんな手法が考えられるだろうか、というところで、つづく。
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