「しつける側の『しつけ方』としつけられる側の『個性』に齟齬」があると「しつけは意味を為さない」ということが言いたい。言いたくてたまらない。
まったく時代錯誤な人がいる。
「価値観の多様化の問題点」に気づくのが遅れると、時代に取り残された方法で子どもをしつけようとして、「社会の多様化の波に乗れずにさらわれて沈んでいく子ども」ができあがる。
残っている可能性として「時代錯誤の方法」によって「不易」が伝わり、「社会生活を送る力につながるかもしれない」というところが残っているが、なぜ子育てでわざわざ賭け事をする必要があるのか問いたい。問いたくてたまらない。
今どき、「橋の下に捨てに行く」、「サーカスに売りに出すよ」、「物置きに閉じ込める」を有効と捉えている大人は少ないでしょう。
現代の子どもや、そもそもの目的に沿わない「子育て語」「子育て行為」は一定量存在するのだと思います。
私は「勉強は自分のため」「社会に出て困る」「人それぞれと言って考えるのをやめること」なども「いらない子育て語」として消えていくと思う。
まぁ、百歩譲って、好き勝手やっていいよ、好き勝手育てていいよ、そうして好き勝手やっていったとして、それで子どもが少しでも良い方へ変わったのか問いたい。
さらに、それでも、子どもが変わらなかったとして、こっちはいくらでも待つこころの準備もある、それこそ価値観の多様化だと言って寛容にもなろう。
それで、じゃあ、いつまで?何のために?どれだけ待てばいい?予測でいいから見通しを示して共有してほしい。
目的は「"ある方法"によって、"ある子ども"を育てること」ではないはず。
目的は「子どもをよりよい方に成長させること」のはずである。
大人の承認欲求だか知らないけど、自分のやり方を正しいとして押し続ける意味がまったく分からない。分からなくてたまらない。
子どもが「痛い」と言う。大人が「オレだって痛い」だから分かれって言う。
だったら「大人が痛くない方法を取れば?」って思う。
「自身の中にあった一般的な子育てではなく、時代に合った子育てを。」
そして、またズレを生まないために考えなければならないのは、重要なのは「しつけ方」ではなく、実際それで「良い変容が見えるか」である。
「育て方」ではなく、それで「育つのか」を精査しなければならない。