かならず幸せになれるいきもの

おしゃべりによる出現する未来から学ぶ

AIとの戦い

AIにバスを運転する仕事を奪われたら、運転手は何をするのだろう。

そんなことを考えた日曜日。

 

この記事を読むと、AIの話がよく分かることと思います。

blog.btrax.com

 

AIによって「仕事」や「生活」が補完されたら、人間に残るものはなんだろうか。

 

老舗のお寿司屋とチェーンの回転寿司が共存するように。

 

AIの仕事と人間がする仕事。

AIがする生活と人間がする生活は、共存していくのだろうか。

 

2045年までになくなるであろう仕事の予測リストがある。

 

本当になくなるだろうか。

 

人の役割が変わった分、人間のもつ特徴で価値が上がるものはあるだろうか。

 

たとえば、人はなんのために人と交流するのか。

そこの変数がクリアになるかもしれない。

 

(1)問題解決のためのコミュニケーションは、AIにお任せ。

ときに、人間に相談したい人もいるかもしれないが、解決率はAIの方が断然高い。かつ安価である、としたら、人は人に相談するだろうか。

そこに、老舗とチェーンの差ぐらいはあるのだろうか。

 

(2)コミュニケーション自体が目的、コミュニケーションならAIにお任せ。
けれど、中には、〇〇さんとのコミュニケーションが楽しいとして、人間の醍醐味を見出せるかもしれない。

ただ、そのタイプや癖もインストールできるとしたら。

会いたいときに会いたい時間だけほしいやりとりがAIでできたら、私たちはわざわざ人に会うだろうか。

 

こんな風に、私たちは「なぜ人とかかわるのか」が問われてくるのである。

 

これは、ちょうど、架空世界で自分の存在を規定している状態に似ていると思う。

 

たとえば、ゲームを一人でやっているときに自分は存在していると感じられるか、ということだと思う。

 

ネットをつなげて誰かとプレイしているのではなく、一人でゲームをプレイしていても、自分は楽しく存在できていると感じられるかどうか。

 

もし、感じられるとしたら、AIに囲まれて、実際の対人コミュニケーションに近いことが可能になったら、本当に人は人に会おうとしなくなるように思う。

 

そこにある楽しさっていうのは、「ドーパミン」が出ることだけかもしれない。

 

しかし、AIが溢れる中で、自分の存在が揺らぐ人もいると思う。

 

やっぱりデータにしか反応が得られない日常が不安になるということだ。

 

すると、人びとは、自分から生まれてくるオリジナリティ、表現活動こそ、人間らしさという流れが出てくるように思う。

 

この先は、ごちゃごちゃになりそうでなんとも言えないのだけれど、その表現はAIを駆使した似たり寄ったりのものか、

AIからどんどん外れるような表現を選ぶようにすることで、とんでもない方向へ行くかのどちらかなように思う。

 

そうした、自己表現によって人の注目や実際に人を集めることができるかどうかが人間としての評価対象や価値となり、集員力(人を集める力)格差のようなものが生まれるように思う。

 

その背景には、AIを使えるかどうかの格差もある。

 

その人に相応しいAIを紹介するAIと人をつなぐサービスを行う人もいるだろう。

 

反対にAI疲れがあって、のんびり過ごしたい人たちのための施設もできる。

「100%人間がサービスします!」みたいな売り文句ができる。

 

人間がもつ何を交流させられていれば、社会に参加できていると言えるのか。

 

「勤労・納税」に向けて、必要な教育を考えるとしたら、AIの登場によって、今からじゃイメージできないような訳の分からない価値観の中で仕事に就いて稼げる人間を育てなければならない。

 

30年後にも使える力を少しでも付けてあげられているのだろうか。