「AIとの戦い」から続いて、彼らの未来に必要な力はなんなのだろうか、という問いが浮かぶ。
それと同時に、最近「大人の主観」VS.「子ども目線の客観」が気になる。
「どう育てたいか」
と
「どう育ちたいか」
にズレがあると、子どもは絶望して死にたくなる。
「生きる意味が見つからない」
「どうして生きるのか」
と苦悩している小学生がいる。
「親の理想」と「自分の思う限界」に差があるために。
そうしたときに思うのは、子どもは「せいぜい自分自身を全うしたいだけ」なのではないか、ということだ。
社会で生き抜くためという大義名分を背負わされて、無理矢理強制的に「勉強をしろ」とさせられるのだけれど、特性的にできる部分もあればできない部分もあって、それでも強要が推し進められた結果、死にたくなっている。
本末転倒という感じがする。
子どもとしては、なんとか80年前後、この世で生と楽しみたいというイメージで生きているように思う。
勉強をして、大層な大した人生を歩むために誰もが生きているわけではない。
むしろ、親に依存・投影を過度に受けている子は、いいから静かに暮らしたいという感じだ。
子どもは、自分の人生を静かに楽しく全うに生きる術がほしいだけである。
仕事があって、自分ないし家族を養えるくらいの賃金があって、生活できればいいのだ。
すごいやつになって、誰もが否定しないような素敵と思える存在になる必要はない。
自分のできる範囲で、できることを頑張って、役割を見つけられればいいだけである。
社会進出を人質にとって、子どもの姿を否定する必要ってあまりないのではないか、と思った。
まして価値観は多様化していて、10年単位で見れば仕事の内容は大きく変わる世界で、学校の勉強ができているできていないを評価するせいで、死にたくなってしまっているようでは、この先生きたいと思えないほど心が疲弊してしまう。
その子がどんな力を付けて社会でがんばろうと思えそうか、よく相談する必要がある。
「どう育てたいか」と「どう育ちたいか」をいつだって、相談して寄り添ったり、間を見つけたりする必要がある。
この先は、そういう時代になるのだとも思う。
彼らに付けてあげて、この先も生かせるであろう力は、そういう「折り合いを付ける力」とか「納得解を得る力」とか「妥協点を探す力」なのだと思う。
だとしたら、やっぱりまず大人がいかないと、と思う。