「すべての存在は自分を否定されないために存在している」
そして、「人びとは否定されないための旅をしている。」
昨日、海で鳥が急降下して魚を取ろうとしても取れない姿を見て、そんなことを思った。
手前には釣りをしている人がいる。
釣りがこの世に存在していても、鳥は、そうやって魚を取ることを選んだ。
鳥は、それが否定されないコミュニティで生きているからだろう。
成り立つから、仲間とそれでまぁよろしくやってるってわけだ。
私は「子どもを否定しない」と学童に貼っていた。
「子ども」という「存在」をという意味が近い。
大人と違って失敗したり、できなかったり、残酷だったりすることを頭ごなしに否定しないってことだ。
「気持ち分かるよ、ただ、本当はどうした方がいいんだろう?」と寄り添って話すことが多かった。
※こっからは「学童の思い出話」
4月に2つだけ確認した約束がある。
一つは、ここは「"みんな"の学童」ということ。
「"みんな"の学童」=「ともだち」と「大人」と「自分」の学童。
もう一つは、「自分の命は自分で守る」ここに預けられていて、君たちが絶対に果たさなきゃいけないことは、生きて帰ることだ、と言った。
安全のために預けられているのだから、絶対に死んではいけない。
だから、命にかかわるときは、私は怒る可能性があると言った。
ただ、刑務所にはしたくないので、あとは自由です、と。
だから、よく考えて行動してね。まぁ、みんなが心地よければ、放課後なんだからなんでもありだ!ってイメージを伝えました。
そんなんだから、全員が対等ですごく盛り上がれた。
子どもも大人も対等なことは全然困らなかった。
それは、二つの大きなルールがあったからこそだと思う。
思い返せば、私の手法は「コーチング」に近かったのだと思う。
「問い」によって子どもを動すことが多かった。
「本当にそれでいいのか?」とよく問うた。
「大好きだった保育園の先生にも堂々とその行動について説明できるか?」、「〇〇家はそういう価値観なのか、そう行動してお父さんとお母さんも喜ぶのか?」と言ったときも思い出した。
そして、「好き勝手」「自分勝手」「わがまま」をしたくなったときは、全員に問うようにしていた。
全員の許可が下りれば、それは当然ありなことになる。
決まっているおやつの時間を今日はどうしても長くドッジボールをやりたいから、先におやつにして後でゆっくり遊ぼうとか。
反対にドッジボールをやりたくないから、今日は休みにして自由にしようとか、よく話し合っていた。
そして、彼らが生活していく中で分かっていったことは、「明日がある」ってことだ。
だから、やたらにケンカしなかったように思う。
「今」に生きていないのだ。それは少し子どもらしくないような気もしたけれど「明日を信じて」生きられる彼らの姿が私は愛しかった。
すべてが提案で「やってみる」となれば「やる」。
帰りの会では、一人で日記を書く時間があったし、毎月目標を挙げてみんなで成長しようとしていた。
私は、最後の一年間、一切「命令語」を使わないで過ごした。
「子どもを否定」しない子育ては可能だと思う。
広く言うと「子どもの命」を否定しないために「行為を否定」して注意するときもあったと思う。また「心」を守るためにその行為を強く問うたこともあると思う。そして「未来の可能性」を否定しないために無理のある説得をしたときもあるかもしれない。
けれど、子どもたちは、すべて「なぜそれをやるか」分かって取り組んでくれていたと思う。
「やらせない」から「存在を否定」せずに済む。
「いけないこと」はなくて、ほとんどが「お願い」だった。
「否定しない子育て」は、おそらく可能でそうすれば子どもは「好き勝手ぐんぐん伸びる」。しかし、それでは困るので「大きなルール」「枠」を用意して、同意を得たうえで過ごすことが大切だろう。
その「枠」は、彼らが納得する「優しさに拠ればいい」のだと思う。
子どもは、地球でみんなで生きたくて生まれたのだから、と思う。
それを否定するから、わけわかんなくなるのではないか、と。