人は言葉で思考していて、知らない言葉を信じることはできないですよね。
言い換えれば、言葉を知らなければその世界を知らないし、その言葉を知らなければその価値観を知らない可能性があります。
私は、その「不易」を伝える役目を大人が担っている、と考えています。
子どもたちは「イメージ」でこの世界を規定しています。
「たぶん、こういう世界なんだろうな」ってことです。
そのイメージがその子の価値観として、大人に理想を押し付けられて「自分はダメなんだ」と思ったり、周りの友だちが間違うとすぐに笑ったり否定してきたりして「自分はダメなんだ」と思ったりしていると、
「この世界には生きていていい人間と生きていてはいけない人間がいる」という価値観をもつようになると思います。
(正直、この感覚の子どもは少なくないように思います。大人の中でも一時「勝ち組・負け組」という言葉が流行っていたように、二分する価値観で大人も語りすぎたかもしれません。人それぞれか、人それぞれでないか。考えるのをやめてしまったのか、短絡的な、しやすい会話ばかりしすぎているのでしょうか。使い捨てのコミュニケーション。)
「〇〇じゃなきゃだめ」、「〇〇でなければならない」という価値観は、子どもの心を削っていくように感じます。
一時、よく「なぜ人を殺してはいけないのか」、「なぜ自殺しちゃいけないのか」と問われる次期がありました。
ズタボロなのと、大人に明快な答えをもらって安心したいのだと思いました。
※ここからは、思い出話の一幕。
いつものように「なぜ人を殺してはいけないか」「なぜ自殺してはいけないか」問われたのだったと思います。
その日、私は「どの人間にも価値があるから」とか言ったように思います。
「"どの人間も生きていていい"からだよ」とも言ったと思います。
「そうそう、この前映画で見て素敵な言葉だな、と思ったんだけど、『鈴木先生』って映画で"お前も世界を変える一人のはずだ"って言ってたよ。」と言いました。
一人の子どもが「先生は世界変えてると思うよ。」
「いやいやオレはいいから。でも、君ら分かってると思うけど、少なくとも君らは"どの人間も生きていていい"って感じられる人間になってきているはず。どんなやつでも"みんな"がいることが楽しいって。この先もオレはそういう子を増やしたいし、バンバン送り出していくから、安心して中学行って高校だか大学だか分からないけど行って、社会に出ていってくれていいよ、そういう人間増えると思って楽しみに生きたらいいよ。」と言いました。
すると別の子が「ほんとに?!ねぇ、先生えらくなって、もうそれみんなに言って!」と言ってきました。
「えらいからそれ言うとどうなるってのがあるのか分からないけど、なるべく多くの人に伝えていくね。」と言いました。
※終わり
私は、結局、彼らがほしいのは「生きていていいよ」ってことだけなんだよな、と思いました。本当は生きるのに許可なんていらねーはずですが、そう思わされるような、まるで、許可性のような気がする日常が彼らの中にはあるのです。
「どの人間なら生きていていいか」のために能力を身に付けたり、自由を制限したりするのではなく、
「どの人間も生きていていいから」自由に制限があって、能力を身に付けてまた誰かを生かそうとする世界があるだけ、と分かっていたら、少しは違うのではないか、と理屈をこねてしまうのですが。
まあ、人間は怠け者でそうはいかないのでしょうね。
社会で生きる前に人間として死んでしまわないように、人間として生きさせて社会でも活躍できるようにさせたいな、と思う日々。
『鈴木先生』