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それでも幸せな人はいるから

特別支援学級の担任をしていて感じたこと。幸せな子ども時代を過ごす子どもが一人でも多く増えるように

「みんなの学校」を見た感想(2)

インクルーシブ教育 教師の在り方 特別支援教育の視点

前回

 

inclusive.hatenablog.jp

 のつづき

大阪市立大空小学校の「映画『みんなの学校』を見た感想の話だ。
本も出ている。

 

一昨日から、〈教育観の違い〉について引き続き考えていました。

時間が経って、教育観の違いは「どうやって人間を大切にするかの違い」だと思いました。

これは、大人ごとに
「社会」をどう捉えていて「子どもが社会で生きられるようにどう育てるか」
「人生」をどう捉えていて「子どもが人生を生き抜く力をどう育てるか」
の考え方の違いから出てくるものだと思う。

 

社会や人生という大きなものを、どの人もこぼれないような枠組みで括るのは不可能なことだと思いますが、それでも個々においては、ある枠組みで考え、枠組みを持っているのだと思います。

 

そこの共通項は、不易なもの、普遍的なもの、共通価値のようなものであってほしいと思いました。

 

ところで、前回「お金」か「命」かというざっくりした価値観の枠組みを示しました。

お金を稼ぐことで生き抜くのか、命を大切にすることで生き抜くのか、どちらも大切なことです。

この二つは、切っても切れないものです。

子どもたちの問題に落とすと、「ある程度の学力」と「教室で安全に過ごせること」だと思います。

当たり前のことですが、この二つは両立できるものでしょうし、両立できなくてはならないものです。

 

あの映画を見た誰もが思うのが、大空小学校の学力はどうなのか、ということでしょう。もう一つは、児童の安全の面です。これは、特に支援の必要な子と必要でない子どちらもです(支援が必要のない子はいないという意味ではなくて)。

 

〈学力について〉

数字は示されていないのですが、以下のサイトで学力状況調査の数値が低くないことが示されています。

映画『みんなの学校』の木村校長先生と、”これからの教育”について語り合いました。 | 被災地の放課後学校 コラボ・スクール

では、支援を要する子たちは、必要なスキル(「学力」ないし「力」)を身に付けられているのでしょうか。そこは、映画では見えないところです。

ちょっと話を移して……

〈安全について〉

気になる点、学力ともう一つは、児童の安全についてです。

これは、支援が必要な子もその周りの子も両方ですね。

支援が必要な子は、特別支援学級という自分に合った環境で過ごせる場所が確保されていないので、延々と不安に過ごすのではないか、という懸念が浮かぶのです。

ただ、いろいろ検索すると、大空小の中では教室以外にもスペースがあるみたいで、そこでクールダウンしたり、過ごしたりできるみたいなのです。

教室以外の居場所があるから、不登校を0にできるというのがあるのかもしれません。

そして、あくまで拠点は、教室なのです。

そして、それを可能にする理念というか根拠はどこにあるのかなんとなく見えたのですが、私たちは、つい、たとえば教室で奇声を発する子がいたら、周りの子の学習する権利が気になると思います。

下手すれば〈その子にいないでほしい〉という考えが自然に浮かぶのではないか、ということです。

これは、映画の中で木村校長先生も話していました。

しかし、それに対局して当たり前にあっていい権利が〈僕も(本当は)教室で勉強いたい〉という権利なのです。

〈教室にいないでほしい気持ち〉と〈教室にいたい気持ち〉は多数決をしてしまうとどちらが優位というのがあるように感じるが、どちらも同じ量的な価値があるってことです。この権利はイーブンなのものです。

 

この前提があるだけなので、出ていきたい子は教室から出ていくのだと思います。そういうシーンが何度かあります。
いたくなければいなくてもいい。

でも本当はいたければ、〈誰かが何かが〉変わる必要がある。
いられない理由が〈人〉であってはいけないということだ。
〈人〉、〈環境〉が最大限変わってもいられなかったとき、また考えようっていう姿勢があると思う。

ただ、どの子にも〈教室にいたい〉という気持ちがあるのだと思う。だから、この仕組みは成り立つのではないか、と。
(個人的には、ここが子どもの美しいところで、別にみんなは、みんなと生きたいって気持ちで生まれてるってことだ思います。)

この仕組みのみそは、帰属できるところが一か所しかないところです。他に〈教室〉という居場所があるのではなく、他の居場所は落ち着いていられるところだとしても、臨時の居場所だという意識のまま過ごすわけです。

すると、寂しさのような孤独感のような、帰属したい気持ちは保たれて、考え方は「特別支援学級でどう過ごしていくか」ではなく「みんなのいる学級でどう過ごすか」しか選択しようがないわけですね。

〈「特別支援学級」にいるしかない〉というのと〈「校庭」にいるしかない〉というのだと、うまく説明できないのですが、虫の居所が悪い感じがするのが伝わるでしょうか。

けれど、その度に理由を聞いて解決していく。戻りたくなければ戻らなくてもいいけれど、戻れそうなら戻ることを促す。

恐らく、そこにある哲学は「人がそこに存在できないとしたら100%環境のせいだ」というものでしょう。

そして、当たり前のなのですが「暴力と暴言」については徹底して指導をしています。他人への危害は誰がしようが許さない姿勢の温度が教職員間で一致しているのが良いのだと思います。

全員の人権がちゃんと同等に扱われていることが、安全して過ごせる基になっているのだと思います。

 

〈前提の違い〉
「別のところで学べる」というのと
「みんなと学ぶのが当たり前」という前提の違いが、意識の違いを生んで、考え方の違いを生み、子どもたちを変えていくのだと思います。

特別支援学級」が〈ない〉のだから、どうやったらいられるかを考えるしかないという心理になるってことです。

 

しかし、そうして、6年間過ごした子どもは、中学に行ってもみんなと過ごせるかというと、そういうわけではないようです。

実際、映画の中で中学から養護学校を選択する、と保護者の方が話しているシーンがあります。小学校の6年間、特別支援学級の教室がない学校ですごしたからと言って、中学も通常級で過ごせるわけではないのです。

どうしても、この先、本人が生きていくためには〈本人が進出する社会に合った内容の学び〉と〈人的な配慮〉が必要です。

 

では、小学校の6年間にはどんな意味があるのか。

それは、現段階では「変数」としか言いようがないのですが、私が大空小の子たちに身についた何物にも代え難い力に、
〈支援の必要な子の周りにいた子どもたちは「人との付き合い方」の幅が広がった〉こと、〈支援の必要な子は「集団の中で生きていくことへの不安」が減った〉ことがあると思います。

 

これは、大空小の子たちが就労していくころに、大きなアドバンテージになるんじゃないかと思う。

そもそも、あんなに人を分かり合おうとする力のある人たちなら、どこでだってうまく折り合いをつけ合って、それこそ、〈みんな〉で生きていくだろう。

もし、生きられないとすれば、それだけ社会が表面上の能力主義で、校長先生の言っていた〈目に見えないもの〉を圧殺していくのだろう。

 

そうそう、 「大切なものは、目に見えない」とキツネに教わった星の王子様が殺されてしまったのと同じように。

 

 

一番の害悪は、「ありのまま」を認めるように「みんな違って、みんないい」ってドヤ顔で偉そうに子どもに言っといて「勉強できないことを責める大人」「勉強しないことを〈指導〉じゃなくて〈責める〉ことしかできない大人」なんだろうと思う。

子どもに示している価値観の矛盾。
「やっぱり勉強ができない人でも認めることより、勉強ができない人を悪く言うことの方が正しいんじゃないか。」って思ってる子どもだらけだと思う。
それを、大空小は「全員が今よりも成長しようとしているか」という理念で覆している。大切なのは理念で、それを全員が共有していることだ。1、2、3、4,5年まで、大空小の理念で子どもたちが指導を受けても、最後の6年で勉強のできない子どもを責めて晒しあげて悪いとする学級だったら子どもはそのムードに従うしかないんだから、そういう〈承認欲求〉っていうね。
(ただ、教師の価値が人はみんな対等という観念で落ちてきているならば、〈本当に正しい子ども〉っていうのを育てられるなら、大人や地域は変わるのだと思う。劇中でもそういう話があった。)

 

そう、私たちは、子どもに「何を育てたいのか?」を問いただされているのだと思う。

さて、あなたは、どの価値観でいくの?って。

 

ちなみに、私は「君が隣にいること完全肯定!」

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