その凹凸に、環境を与えることさえできれば、子どもは育つ。
その環境をかぎ分ける嗅覚、環境を手に入れに行く力が遺伝だとしよう。
しかし、その力は人それぞれである。
どの子も育てようとした場合、環境を与えることが大切だとして、その環境は誰が与えるのか。
環境を手に入れる力がないことを問題としたら、それは自己責任論に行きつく。
けれど、環境のせいにすれば、大人や社会の責任になる。
教育機関では「大人が環境を与えられるか」の方が当然に考えなければならないこと。
この感覚は、将棋の必勝法と同じで、その必勝法とは「その手に合わせた最善の手を打つこと」しかないのだけれど、子どものもつ凹凸に合わせるとは、そんなイメージ。
網羅的な環境(全体指導)は、網羅的な環境になってしまうのだと思う。
そして、ピンポイントを意識して一人ひとり全員を拾うのは不可能に近い。
目指すのは素敵だけど、やっぱり全員を同じように拾うのは難しいと思う。
環境を受け取る受け皿が違うからだ。
ただ「子どもは育てたように育つ」という外側の影響次第だということを持っておくと、その子を責めない否定しない指導ができるように思う。
厳しい言葉かけをされて、環境の受け皿が良ければ、次の世代に通用しなかったとき方法を変えるだろう。優しい言葉かけを試し、自分もこうされたかったなと後世を慈しむ。
しかし、厳しい言葉かけをされて、環境の受け皿が合わなければ、次の世代に通用しなかったときにも方法は変えない。厳しいことばを浴びせ続け、エスカレートしてしまいにはたたくかもしれない。
その子が育ち、その子がその先も生きやすくなり、その先の子にも良い影響を与えられるような環境を提供できたらいいなと考える。
単純に「子どもは育てたように育つ」ってだけのロジック。
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