かならず幸せになれるいきもの

おしゃべりによる出現する未来から学ぶ

つながりを煽られる子どもたち ネット依存といじめ問題を考える#4

2017.6.18(加筆修正しました)

第4章 常時接続を超えて

inclusive.hatenablog.jp

 つづきです。なんとか、やーーっと終わらせましたが……多いです。要約というより、自分が見返したいメモです。かつ、自分の知っていることを思いつく限り入れました。ただ、大事な考えだらけと思います。あっちこっちいくのが難点ですが……。

最後の章は、
第1章「ネットとリアルのメビウス化の翳り」
第2章「コミュニケーション力の価値化による『つながりの格差化』」
第3章「承認願望の背景」
に挙げられた現実(日常で友だちが占めるものが多い状態)と大人はどう向き合っていくかが書かれています。

「肥大する承認願望」

承認願望のスパイラル

今の若者は「承認がほしい」ため手近で承認を手に入れるが「浅い承認」しか手に入らず渇望し続けるという矛盾を抱えている。
「承認がほしい」→だから「察する・譲る」→そのため「深入りしない人間関係」→そうした「深くない人間関係からの承認は浅くなる」→よって「承認欲求が満たされない」のスパイラルループ。
その中で「己の本質は己の中にある」という風潮も働いて、自分が心地よいコミュニティを求める閉塞化、排除的な人間関係も起こる。

価値観が多様化しても承認願望が衝突を避ける

「価値観の多様化」は、「自由な人間関係」につながると考えられる。しかし、価値観が増えることによって、衝突や軋轢や争いが増えていない。実際は、対立を避け、衝突を避けるようになった。
対立を避けることができるのは、「キャラ化」によって、お互いの内面に深入りしなくなったため。
背後には承認願望(外れたくない、受け入れられたい、「イイネ!」されたい)があるため、傷つかない立ち回り方になる。

「承認願望」の事柄は親にも当てはまる

この人間関係の構図は親子関係にも当てはまる。互いに相手を傷つけないようにふるまう。親も一人前の親、有能な親として承認されたい。我が子からもそう思われたい。現代では大人も40歳そこそこでは、自分の立場を安定させるのは難しい。親も人生の羅針盤を見つけにくい。(やっぱり大人のメンタル面が重要なわけだ。)

教師にも当てはまる

教師も同じ人間関係の構図に入り込んでいる。生徒との関係をフラットにして、指導責任を低減させたいという願望が感じられる。威厳のある大人であれば何かあったときに責任もすべて負うことになる。それは非常に重荷だと考えている。(そういうわけではないけれど、責任を回す感じはあるかもしれない。その子のために動いていることが99.9%だと思うけど。)

「イツメンという世間」

健全な本来的な人間関係とは

対等な他者の承認では安定感がなく充足しない。それは、表面的な関係のため。反対に内面を理解しあった尊敬できる相手からの承認であったなら充足の度合いは変わる。
そうした相手には常時接続もいらないのかもしれない。本音を知り合っていれば、摩擦があっても乗り越えられるし、摩擦から関係を省みてさらに関係を深める契機になりうる。
"自立的な個人が相互に信頼して尊敬しあえる関係を築き、そこで互いに承認を与え合うことができれば、きっと自己肯定感も揺るぎないものになるに違いない。"
表面的な深入りしないイツメンの人間関係は、大人の感覚でいえば世間に近いものといえる。

カリスマ待望論の危険性

尊敬できる相手からの承認によって、承認欲求を充足できるとよい。しかし、だからといって、圧倒的な他者を求めて一方的に依存できる相手を探すのは危険。それは、カリスマ待望論といわれ、エーリッヒフロムによれば「自由からの逃走」と言われる。

中高生にあるリソースと問題点

〈リソース〉
・人間関係を拡大したい気持ち。
・価値観の似通った人との関係の保持も強い。
〈問題点〉
・不協和な点も含めて全人格的に付き合うのではなく、場面ごとに都合のよい相手だけを選んで付き合いたい、それが叶わない人間とは最初から付き合いたくない。
・調査で「親友と真剣にはなしができる。仲直りできる」「自分の弱みをさらけだせる」「意見が合わなかったら話し合える」が減少。

子どもたちは友だちを増やしている

理由は「多くの承認を得るため」「少しでも安定した承認を得るため」。
背景には、得られる承認を確実なものにしておきたいという理由がある。
友だちを増やすのは、友だちの量が人間としての価値につながるからだけではなく、相手を切り替えるため。その都度演じたい自分に合った人間関係の最適化を目指して切り替えるとしたら、友だちの母集団は当然多く必要。

イツメンについて

イツメンは一人で浮かないための保障である。
こちらが付き合う相手を選べるということは、相手が自分を選ばないかもしれないというリスクがある。休み時間に一人でいるのは嫌だから、セーフティネットをつくっている。よって「『イツメン=心を許せる仲』というわけではない」。

「人間関係の視野角度」

人間関係に追われる日常

若者たちは、親友がつくれない。イツメンとの人間関係維持の大変さから、親友を見つけるゆとりもない。なぜなら、常時接続を迫られるからだ。
"付き合いがリアルな対面状況だけにかぎられていた時代は、実際に付き合える時間と場所に限界があった"。しかし、ネットで物理的・精神的に逃れられなくなり、関りの負担は無限に。
モバイル機器などは、"使われる環境と使用者の力量によって、その有益性と有害性のバランスは左右される"。若者は機器による人間関係のトラブルの対処能力も未熟。
"そもそも学校という人口の密集した市街地の道路で、モバイル機器という自動車を暴走させているようなもの"、"関係能力が、その機器の性能についていけない状態"がある。

「キャラの機能」

これまでとこれから

『個性を煽られる』では、"当時の子どもたちが、生まれもった素朴な特性をかけがえのない個性と感じ、自分が変化することへの期待感よりも、むしろその恐怖心を深めていると書いた"
『キャラ化する/される』では、"その素朴な個性観は内キャラとしてさらに単純化・平板化され、そのため生活圏の内閉化が進んでいると指摘した"。それから5年たって、"内キャラすらも、外キャラによってほぼ駆逐されつくしてしまったよう"。
今の子どもたちは、"自らの人格イメージを単純化・平板化させた外キャラを演じあうことで、価値観の多様化によって複雑化した人間関係を、しかし破綻させることなく円滑に回していこうと必死になっている"。
時代は「自分探しの時代から、友だち探しの時代へ」。承認を求めて。

「予定調和の落とし穴」

自分以外の自分の視点

承認を優先する関係では、"衝突などを経験して関係を相対化してみる契機がないため、互いの関係を深めていくことが難しい"
"局面ごとに最適な相手を選んで付き合っているかぎり、その局面ごとに設定された特定のキャラと出会うことしかできない"
相手の意外な側面に会えないし、自分の知らない自分にも出会えない。

ジョハリの窓

1.開放の窓:自分も他人も知っている自己→外キャラ
2.秘密の窓:自分は知っているが他人は知らない自己→内キャラ
4.未知の窓:自分も他人も知らない自己→探し中の自己
3・盲点の窓:自分は気づいていないが他人には知られている自己→本当の自分

好きな者同士の落とし穴について

「他者によって自己の欠如を埋めてもらう」という視点が抜け落ちる。
自分の知らない自分に会えず、環境の変化に耐えられない。人間関係は衝突を契機に在り方が見直され、再構築されていく。キャラによる人間関係は、その場では安定していても、長期的にはもろいものとなる。

「匿名化された人間関係」

キャラをピースにたとえて

キャラは、有用なピースである。これは、各自が勝手に決めるものではなくて、関係の中で決まってくるもの。
"しばしば自分の個性の表現のように思われたりもしますが、自分のキャラを勝手に決めることはできない。"
同じ輪郭のピースとは代替が利く。反対にそのピース以外の役割も懸念される。他の人のポジションが危険にさらされる可能性があるため。
安定と同時に、"そこに居るのが他ならぬ自分自身だという確信が揺らぎやすくなる"
昨今の婚活にしても"条件さえ合致するなら、この人の相手は自分でなくてもよかったかもしれない"そういう不安を払拭できない。
キャラになってしまうことで、自分自身の「かけがえなさ」から疎外される。
キャラには、特別性(質としての有用性のようなもの)はあっても、単独性(たとえば、質が悪かったとしてもあなたである必要)はない。"ネットの匿名性は、たしかにキャラ的な人間関係の維持を容易にしますが、他方で代替可能性への不安も増長しやすい"
"キャラには明確な輪郭線が求められます。そうやって曖昧さが排除され、実現される予定調和な世界は、たしかに見通しのよいものかもしれません。しかし、そこではあらかじめ想定された枠組みに収まりきらない多様性が認められない"

【重要】「代替不安からの逃避」

今日のいじめ問題

"今日のいじめ問題も、互いの代替不安から生ずる集団的な自傷行為のようなもの"。それは、被害者も加害者も同様の代替不安を抱えているため。
標的をつくれば居場所が確保され、標的をネタにすることでキャラを演じる舞台ができる。標的への関心は、自分たちの不安を一時的に紛らわすことができる。
また、以前は大人たちを標的にできたが、大人との関係もフラット化しているため、子どもたちの内部に標的を探さざるをえない。

友だち関係の歪みについて

友だちは必須アイテムだが、"安定した共通の関心事を持ち続けるのは至難の業"
"その過酷な環境を生き抜くために、潜在的には代替不安を抱えつつも、なんとか周囲から浮かないように必死の努力を払っている"。これが、イツメンの関係。
予定調和を保とうとしているのに、"意図せずともその秩序を乱しかねない振るまいをしてしまった子どもが中間内に現れると、途端に容赦ない攻撃が彼にしかけられることになる。"
特に、予期せぬ行動で処理しきれないことが問題となる。もし、そういうキャラってコミュニティが享受できていたら「あり」ってことになる。

友だち観から来る弊害

自分たちは悪くないという感覚からくる差別がある。そうした「悪意なき差別」は、当事者に自覚がなく、質が悪い。
背景に貧困もある。人間関係があるのは、金持ちが多いのかもしれない。
代替不安を取り除くためには、とりあえず何かに盛り上がっている状態を作り出すのが最適。だからこそ、いじめの口実はいくらでもねつ造される。
さらに、その中で逸脱した行動をとってはならないと身構えている。

大人がつくる「いじめ」の舞台

「いじめ→道徳教育→協調性の指導」などとやると、いじめの口実が増える。「アイツはいじめられても仕方ない。だって協調性がないのだから」となる。
"けっして周囲から突出してはならず、協調しあいながら摩擦を避け、仲良し関係を営みつづけなければならない。そういった過剰な同調圧力こそ、今日のいじめの根底に潜んでいるもの"
(内藤先生の本には、〈中間集団全体主義〉という言葉が示されていた。)

いじめの構造―なぜ人が怪物になるのか (講談社現代新書)

いじめの構造―なぜ人が怪物になるのか (講談社現代新書)

 

 いじめについて指導している際に「そんなこと、やってられねぇよ」という子どもに大人はどんな態度をとるか。
"最近は、子どもたちも敏感に空気を読みあっていますから、おそらくそんな態度をとる生徒はいないでしょう。大人側も、いまや子どもとの関係がフラット化していますから、仮に目にしても強力な指導を加えることは稀でしょう。そんな犯行を示すだけの元気のある子どもが見当たらなくなったことが、またそんな子どもと面と向き合うだけの余裕ある大人も見当たらなくなったことが、じつは今日のいじめの蔓延とその陰湿化を招いている面もあるのですが。"
そういうはみ出そうとする子どもが現れたとき、そこに批判的な感情を抱き、排除の視線を向けてしまう大人もいるはず。
河合隼雄さんは、"私たちは教育を行なうとき、知的なレベルでは「個の倫理」に訴えようとしますが、実践レベルでは「場の倫理」を優先させてしまいがちなのです。いうまでもなく、このような二重規範こそ、今日のいじめを背後で支えているものです。そのことを自覚しておくべきなのは、教師や親だけではありません。日本人みんながそう自覚すべきです。"

「つながりの質的転換へ」

自尊感情の低下

若者の自尊感情の低下。自分のかけがえなさの感覚が奪われた。代替不能な自分がここに紛れもなく存在している。そういった存在論的な安定感の揺らぎは、彼らの自己肯定感を根底から傷つけざるをえない。

スマホの使用時間と自己肯定感

スマホの使用時間の短い人は「自分には良いところがある」「自分を信頼している子ども」が多い。
"モバイル機器の機能制限も、じつは対症療法にすぎないことが分かります。ネット依存の本質的な問題は、むしろ日常の人間関係の築かれ方にこそある。"

身近な関係の中でできること

"関係を外部に開いていくことだけが能ではない。身近な人間との関係のなかにも、多様性の種は数多く隠されている"。
電子機器に頼らず、表面的なキャラにもとらわれず、深く付き合っていけば、そのことにも気付けるはず。
そうやって真の多様性へと開かれた関係のなかでは、つながり依存から生じている今日のいじめも減っていくに違いない。

そのために必要なことは?

"昨今の子どもたちが置かれている状況を眺めてみると、周囲から見つめられる側へ一方的に押し込められすぎていることに気づきます。"
"子どもたちは、つねに自分が承認される側へと埋没させられてしまっています。そのため、自分が周りから求められ、必要とされる経験をなかなか持ちづらくなっている"

さて、大人たちは明日からどうするか

"では、私たち大人は明日から具体的に何をすればいいのか。"
"親にしかできないこともあるが、親だからできないこともある。親にできるのは、我が子を囲い込まず、信頼できる他人の大人に会わせること。そして自分もよその子にとっての「〈信頼できる大人〉になろうと努めること」ではないか"。
"これは、親だけに向けられた言葉ではないはずです。子どもたちに範を垂れるためにも、まずは私たち大人自身がつながりの質を変え、緩やかに開かれた関係を構築していかなければなりません。"
「君子は和して同せず、小人は同じて和せず」
他者と適度なつながりを保ちつつ、そのなかで同時に多様性を確保していくには、どうしたらよいのか、その観点から考え、対策を練っていくべきものでしょう。

所感

(所感:1)多様化の中の自分に自信をもてない 多様化を認める

根本的には「多様化の中の自分に自信をもてない」ということに尽きる。誰もが承認されたくて、他者に異を唱えるのが難しい。自分を出せないため自分への承認も得られない。与えられた承認は本質的な内的な自分ではなく、あくまで外キャラの自分が受け取ってしまう。
このもつれを解消するためには「大人が多様化を認める」ことが必要なのだと思う。

どうしてかというと「表出→受容」の姿勢が社会に充満して入れば、子どもたちの人間関係のスタイルも大人をモデルとして変化していくと考えるからだ。
しかし、まだまだ私たちは多様化を認められていない。「学校はまだ《主流がある》と思って子どもを育てている」*1(人を裁くスタイルが一般的で、「あなたは、社会的にダメだ!」というかかわり方)。システム的にそうせざるを得ないのだけれど、そのシステムの中で、どうすれば子どもが安心できるような多様化を認めた状態になるのかが分からない(合理的配慮の考え方は、ヒントになりそう)。
そして、そもそも、どんな状態が多様化が認められた状態なのか分からない、という問題もあるだろう(日本もフロントランナーの一つ)。

(所感:2)それでもやって来る「思春期の子ども」と「大人」のズレ 不易 摩擦を乗り越える力

大人が「多様化を認めよう」という姿勢で子どもを承認しようとしても、思春期に突入すれば、子どもの側から「本当の私(内キャラの私)を知りもしないくせに、承認されてたまるか」という反発が起こる。
思春期への突入が、社会的な風潮(承認欲求が満たされない不安、外キャラで人間関係の摩擦を避けること)と「それは自分か?」というアイデンティティの拡散に拍車をかける。
そうなると、指導は簡単ではなくなってくる。その子どもがそもそも見せてくれない「内キャラ」を見抜いて「『この人は分かってくれる!』と思える大人」。もしくは「何か能力や経歴があって『すごい!』と思える大人」の言うことだけが入るようになる。これでは、テクニックと勘でしか指導できない。こういったところから「カリスマ待望論」が出る。
そしたら、コールドリーディング*2を駆使しして言い寄るしかなくなってくるかもしれない。もうそれじゃ周囲の大人は占い師か!?っていう(悪い意味ではない)……。
もしくは、抵抗の少ない昔からある偉人の知恵を伝えるっていうのは、受け入れられるかもしれない。いかにそれらしい嫌味のない普遍的な処世術のような真理を伝えられるかが鍵だ。「一億総孔子状態」みたいな。どこにでも当てはまるような、その子を生きやすくする知恵の流布することが、子どもたちがこの先人間関係で苦しまないための指導になり得る。
学校教育で出来ることとしては、子どもたちに「表面的な関係を越えて関係を構築する力」「表面の摩擦を乗り越えられる力」*3を付けていく必要があるのだと思う。

(所感:3)大人は、信念をもつこと 不易 哲学 人間性 価値観

占い師として教育を担っていくわけには行かないので、私たちは、教育に真実味を持たせるために、エビデンスを必要としていくようになる。
また、エビデンスだけでなく、なぜそういう自分として生きているのかといった、〈信念〉や〈哲学〉のような、その人の基盤となる〈人間性〉や〈価値観〉をもち、それを共有できることが必要になると思います。理由は、多様化している中での自分の立ち位置を客観的に示すことで、不安感を減らしてその人と関われるようになるからです。
自分を深めていくために、大人は、特に教師は「自分を今後の世界に適う人間へと日々高めていく必要がある(そりゃそーでしょ)」。
窮屈な感じもしますけど、でも、これほど知ることが尽きない世界って本当は充実していて楽しいというか、恵まれているという感覚もあります。
(昨日帰って来て玄関を開けたとき「疲れるけど、あー楽しい」って思ったのです。)
先にも言いましたが、そうして主観を手に入れたら、それを前面に押し出すわけではなくて、「過去の〈主流〉、現代や未来の〈多様化〉の両方に適う〈不易〉を後世につないでいく」という視点も大事だと思います。

(所感:4)他者からの信頼をどう得るか

この先、大人はどうすれば信用を得られるのか。上の方で、占いするしかないとか言っていますが、やはり、結局は、その人の「人間性」によると考える。
そうであれば、「人間性の構造」が何なのか少しでも分かって、自分をアップデートしていくことが大切になる。(人間性については21世紀の学力を参考にしたい)
よいアップデートのためには、他者が必要になる。閉塞的個性志向によって、個人内で試行錯誤し、アップデートしていった場合、人間関係がないことによる歪みが生れると考えられる。一人よがりな良さを基盤とした人間性に向かってしまうからだ。
信頼関係のためには、よりよい人間性のある、大人が「もっている情報」や「アドバイスの汎用性」が必要だろうと考えた。
これは私の個人的な感覚ですが、親の言うことを聞きたくなくなった気持ちの一つに「自分にあてはまらない」とか「効果を感じられない」というのがありました。
そうならないためには、社会についてアンテナを張っていて、実際に生活の中で生かせる力を伝達できる大人でいる必要があります。よって、学び続ける大人として人間性を磨き続けることが重要だろうと考えます。

(所感:5)「人間関係のスパイラル」と「解消のポイント」

人間関係に重み・深みをもたせる

「上辺だけの人間関係の軽さ」と「承認欲求がほしくなること」のスパイラルを乗り越えるには、人間関係に重みをもたせるという視点をもちたい。
垂れ流しの人間関係のツイッター・ブログの反応だけでは、埋められない承認願望がある。
刹那的な承認の渇望を満たすというように「動機が軽い」から「承認も軽い」ものになる。
その刹那的な承認のために友だち増やしたい、価値観の似た人だけでいいという視点しかないことが、人間関係の軽さ・浅さにつながる。
人間関係に重み・深みをもたせるにはどうするか
人間関係の重み・深みを「誰かの人生が誰かの人生に作用していると感じられること」と定義する。
それには「他者を尊敬できる」ということが必要で、どの人間にも尊敬できるところを見出せるようになれば、誰しもの大切さを見いだすことができ、誰もの人生が誰かに作用していると感じられるようになるだろう。
だとしたら、次に「人はどうすれば人を尊敬できるか」を問いにしたい。
自分に「価値を与えてくれること?」。その価値とは「自分の人間性を高めてくれること」だろうと考えてみる。そんな相手を求めているのだ。たとえば「人生のステージを上げてくれる(人生をよりよくしてくれる)ような。
でも、そのステージって「幸せの価値観」によって人それぞれに求めるところや行き先、着地点のイメージが違うところがあるだろうから、人生のステージを上げるって価値を提供するのは簡単なことではない。
承認欲求から来るスパイラルに当てはめないで考えると
たとえば、アドラーは承認欲求を否定している。その代わりに、マズロー欲求段階の承認欲求の手前に位置する「所属欲求(社会的欲求)」は認めている。
そこから、彼らが満たしたいのは「所属欲求」なのに「承認欲求」にピントを合わせているという、自分の感覚的なニーズと実際のニーズのズレが、延々と承認欲求が満たされないスパイラルに陥る原因かもしれない。
そうなると、次は「どうすれば、人は所属していると思えるか」が問いになる。
一つ浮かぶ答えは「意見が言える」ってことだ。「クラス会議」という実践は所属感を満たす実践である。その中では全員が意見を言う。この「意見が言える」ってことが所属には大切なのだと思う。
すると、さらに今度は「自己表現力」のの育成の必要性にもつながっていく。
全人格的な信頼感のある人間関係を構築する
しかし、価値基準が多様化しているから、別々で終わる。私たちの人間生活にある「本質」や「軸」が謎で不明瞭ってことだ。だから、不易となる人間とは?の哲学が必要になる。
大人一人ひとりが人間をどう捉えているかの軸を持つこと。これは、何度か 「不易」と言っている部分に近い。
今の日本で暮らしている人たちは「多様化」と「自由化」がごちゃごちゃになっていて、なんでも個人として認められるという錯覚の中にいる部分があると思う。
すると、どの関係の中にもあるはずの「対話をして納得する」ということがないまま平行線の関係が続く。
子どもたちが求めている関係は非現実的である
「不協和はイヤ、協和だけ味わいたい」という承認を確保しつつ摩擦や否定を拒否するような関係は存在しないということだ。
このそもそもの間違いの前提が共有されていないと、教師の多様性を認めようとか、いろいろな人とかかわろうという働きかけは、無意味なものになる。
〈協和だけの人間関係は、そもそもこの世で不可能なもの〉。だからこそ、多様な他者と関わる力を付けようとしていても、子どもたちはそれが無理だということが分かっていないかもしれない。反対に教師に反発して、意固地になってしまう可能性もある。子どもたちが関係を改善することに理解を示せない理由は、この世に無いもの(協和だけの人間関係)を求めることに(無限に終わらない追究に)はまっているからかもしれないのだ。こういう視点からも、人間生活の理(不易・普遍)を教える必要があると考える。多様な人々が生活していて関係しているということなどを。

(所感:6)学級で見られる子どもたちの不安

イツメンは掛け金がかかる。過剰な配慮や気遣いという交際費(常時接続)を支払う必要がある。
教師が子どもをキャラ化してしまって、いじめの標的をつくってしまう場合もある。モデルとなって、アイツにはああいう対応でよいという姿が再現されてしまう可能性がある。
誰かを標的にしないためには、公平に接する。こんな風にかかわれば仲良くかかわれること伝える。教師も態度で示す。誰でも救うし、誰も置いていかないといった意気込みが必要。
また、できないを悪いことにしない(昨今の流行り)。子どもを陥れない。教室や学校や地域の安全な居場所化が必要。
(これについては、今度、各県の学級の居心地についての総合教育センターの冊子を見ようと思う)
その学校だけで自立した個人同士の人間関係を育てても問題は解決しない。他のコミュニティで承認欲求のスパイラルが起こっていれば、友だちとのかかわりはスパイラルに飲み込まれる。
そうすると学校が子どもたちに託せるのは、不易の自然科学(学力)であり、人格の陶冶よりも学術的知識の教授が重要になるかもしれない。〈勉強をしたい気持ち〉や〈未来を肯定的に捉える力〉と〈勉強をやろうとする力〉を育む視点も優先順位が高くなる。
コミュニケーション能力と貧困についても書かれていた。コミュニケーションする余裕がない家庭の背景もある。
エリートが設計したアーキテクチャーによって〈健康で文化的な生活を保障して(されて)自分だけが甘い蜜を吸う〉のではなく(本当に世の中って平等?というところで)救える誰か。もしくは、誰もが他人に作用しようとしろってことなのかもしれない。
〈健康で文化的な生活〉の〈文化〉の方を(パソコンとかエアコンとかではなく)、〈人と人とのかかわり〉という視点に価値をおくことで、大切なものを見失わないで過ごせるのではないだろうか。
子どもを産んでも自分では育てられない時代(保育園に預けて働かなければならない)で相応しい姿なのか、というのに近い。眼前の問題に対応しているだけで、本当に大切なものを見失ってしまっていないか、というような。
〈他人に作用する時間もつくる〉そこの価値に気づく必要性があるということ。
だとすると「どうすると人は人と認め合うかかわりがしたくなるのか」が問い、物欲より人とのかかわりに時間が配分されてほしいのだ。
そして、そうしたま人とかかわる自己を社会へと還元する気持ち。「社会の役に立ちたいという気持ちはどこから来るのか」も問い。(どうしたって「人間はポリス的動物である」っていうのが理由になるといいけど)
そもそも「誰もが承認される保障がある」と思って生きられたらどうだろうか。
「生まれている時点で、あなたは承認されている」という感覚。
生まれた時点の承認を許していない現状が、承認のスパイラルを呼んでいて、誰かを否定して過ごしている事実に目がいかず、救える人を増やそうと思えば増やせるのに、集団的な何かや誰かのせいで、増やせていないということを起こしていないか。
(結局、大人たちの〈人間観次第〉ということになるけど)
〈承認の感じ方〉のポイントも人それぞれ違いがあるのだろう。
つながりは本来もろいのか。
「つながりを確認しなければならないつながりは、つながりとして成立していない」のではないか。
なぜ支援級はあるか。
現状できつい「暮らし・生活・生き方」の人がいる事実をどうするか。普通(真ん中よりちょっと上)でないことは悪いこと。その価値観が〈生まれている時点での承認〉を許さない事態を起こす。
人間は「健康的で文化的な生きやすい」どこにいても同じ一人の人間として扱われていいはず。
この差別感には、私たちが「どんな国でありたいのか、どんな人間でありたいのか、人間を何ってことにしたいのか」が問われる。
やはり〈歴史性〉で自分や人びとを見られない(自分もまだまだそうだけど)。人を刹那的に見ていて、長い目で見つめられない。自分のコンビニ化・使い捨て化・インスタント化がある。
そして、誰も彼も「“あなた”の人生なんて知らない。自分で精一杯」という構えになる。不安で不安で仕方ない日常。そうなってくると、反対に本当に実際「そんなに社会は先が見えなくて不安なのか」と考えたくなる。その不安は「思い通りの結果にはならないという不安」であって、「本当は生きるか死ぬかほどの不安とは少し違うのに、それじゃ承認されないってことを生きられないってことにして、本当はその子を生かせる方があるにもかかわらず選ばないでいて、生きるか死ぬかのような物々しい雰囲気につなげてしまっているだけ」なのではないだろうか。

(所感:7)「客観を言葉化できる関係」

現代は、ネットという無限大の視野がある。もし視界を狭めることができたら、その分だけ人は対象をよりよく見ようとするだろうか。しかし、それ以上に、自分にしか目が向いていないようにも思う。「何のために他者を見るのか」というのが抜けているのかもしれない。合わせるために見るのか、その人を知るために見るのかでも浮かぶ思いは違う。要は、どんな風な視点で人間を見つめて人間関係を紡いでいくかのモデルがない。
たとえば、車の運転では、速度が速いと視野が狭まる。ならば速度も落とさないといけないのかもしれない。では、人間関係における速度とは何か。これもやっぱりシステム1とシステム2によるのかもしれない。それは、感情的か理性的かの差ってことだ。もちろん、どちらも必要だけど、どちらかだけではよくない。そういう観点をもてるとよい。
気を付けなければならないのは、自分の中で他者をもキャラとして表面的に人格をつくってしまうこと。相手の意外な側面を「キャラじゃない」として切り落としてしまってはダメだ。見方を変えて、相手の意外な側面や自分の客観的な見え方も認めることで深まる関係があることを忘れてはいけない。
偏見がバリア(自分を知らないのに、自分を規定されることの嫌悪感。じゃあ聞いたのかよ!という怒りは誰でも感じたことがあるのではないだろうか。)
「お互いの『本当の自分という客観的な見え方を言葉化できる関係』」(なんでも言い合える仲ってやつ)をつくれるとよい。それにはやっぱり信頼関係が必要になる。
だとすると「信頼関係」はどうすれば構築できるか。その先で「今この瞬間。良くない行動をやめて。良い自分になったっていい」ってことを伝えるなど、大人の言葉が入るようになるとよい。どかーんと、客観的な見え方をただ伝えるのではなくて。
花の受粉がミツバチを媒介とするように、自分が生きるには他者が必要である。人は、自然は、自己完結できない存在なのだ。だからこそ自分を知っている必要性がでてくる。「どうすれば、自分は生きやすいのか」。一人で完全体を目指すのではなく、何があれば補完できるかを日々の知っていく必要がある。
この〈自分を知る〉視点は、デニス・ローレンスの「自尊感情」の話とも重なる。
さらに人々の間で「衝突を楽しめるような人間関係忍耐力」が育つと良い。この力は、環境の変化に柔軟に対応する力や新しい自分の発見につながっていく。
どんな人間にも価値があるとして、キャラがかぶってもいいという価値をもてるとよい。誰の在り方も似ているからダメってことはないのだ。
ある子どもは外界を完全にシャットダウンして「目立ちたくない」と言うくせに、そうじロッカーの上に乗ったりして奇行を連発していた。ただ、それは、大人や社会を寄せ付けないために、手の届かないところへ、自分だけの治外法権の場へ行きたかっただけだと思った(学校でやられると問題行動なんだけど)。そして、その根本は、内キャラを危険にさらさないためだと見受けられた。その先で、外キャラに内キャラが侵食されると(外キャラが周囲にとって自分として扱われてしまって、内キャラの本来の自分だと思っている自分が周囲から見てもらえなくなると)、自分が自分でなくなっていきそうになる(いわゆる、キャラ疲れ)。たとえば、「感覚統合のように、自己統合はどうすれば行われていくのか」が問い(過去の自分と現在の自分とのつながりを見いだすといいような気がする)。

(所感:8)特別性と単独性と変数

パズルのピース的な不安の問題。たとえば、パズルのピースのような特別性は「別の箱のピースでもよい」という不安がある。「『そのピース』である必要性がない」。
さらに、ピースの形が同じなら(絵柄が)なんでもよいわけではなくて、そのコミュニティ内(絵柄)の「最善・最良の(その場に相応しい)自分」が求められる。結局、この自分を周りに合わせて調整するような「理性が面倒くさいだけでは?」とも思う。だったら短絡的なキャラで、量産的に生産されたキャラ(絵柄)でいいやとなる可能性もある。これは『ファスト&スロー』を読んで考えたいところ。
その場での特別性という承認に振り回されている子どもたち。ただし、世界規模で見れば「キャラかぶってる」やつはいくらでもいるはずである。
その中でキャラがかぶらないようにするには、もう変人になるしかない。
変人だらけでは、また生き辛い人が出てきそうなので、私たちは、一人ひとりの有用さ、かけがえなさ、唯一無二さといった〈単独性〉を考えられるとよい。
それは、歴史性に近い。たとえ、自分の代替となる人物がいようが「でもそこにいるあなたはあなたしかいない」のだ。猫の手も借りたいときにいる猫は、所詮、猫ではなく、ベストタイミングでいられるナイスな猫ってことだ。
こうした、歴史性・時間性・存在論を現代の人は失っていて、今後それを求めるようになるだろうと思う。
また、そこにいる人同士でしか生み出せないコミュニケーション(相対的なもの)から生まれる「変数」も「単独性」とかかわってとてもかけがえのないものだろうと思う。
その「変数」を生み出せること自体が、それこそ、人間一人ひとりがそこに在る「単独性」なように思う。
単独性の発見のための言葉のアイデアとして「自分を因数分解しよう!」なんてどうだろうか。
他に「どの人も、とある「誰か」にはなれないから、代替可能でもいいんじゃない?」って考えも良いと思う。「Aさんじゃなきゃダメなんです」って世界は、その他大勢を生き辛くする。代替可能じゃなかったとしたら、誰かがいなくなったら、別の誰かがその誰かにならないと救われない人が出てきてしまうってことだ。
大切なあなたがいなくなっても、デスクの上の仕事は誰かが片付ける、といった感じに代替可能ってのは、世界にとって優しい考えだ。「誰か」はどこにでもいられるわけではない。いつも誰かがあるべき場所にいられるってわけではないから。人ってのはいたいからって、そこにいられるわけではないのだ。いつか「誰かはいなくなる」そのとき代わりの誰かがいないことで辛い思いをしている人を救えるってのは、優しい仕組みじゃないだろうか。
「自分の代わりはいる。自分は誰かの代わりになれる」ってことは、二重の保障システムだ。また、能力の代わりであって「その人」の代わりはいないってところもポイントだろうけど。

(所感:9)教室での話

〈集団的な自傷行為〉は「みんなでみんなを削り合っているような」と書かれていた。どういうことかといえば、誰かを標的にして、「いじり」ないし「いじめ」をすると自分はその標的とは異なった存在でなければならない。これをくり返していけば、どんどんノーミスの自分を演じていかなければならなくなる。標的に対しては、いくらでも理由がねつ造できるので、どんどん自分の首をしめていくことになる。「わーアイツ息してるよー」って「いじったら」次から自分は「息をしてはならない」って制限が増えるってことだ。こういう削り合い。
【教師の役割】望ましい舞台の確保。集団としての一つ感。
古い大人は敵にできる。しかし、それが起こればいじめは起こらない、というわけではない。大人も標的になっているし、誰かしらへのいじめが両立して起こることもある。

(所感:10)真の友だち関係とは……。

異質を認めることが大切。「あいつは違うわ!」「俺は違う……」ではなく、「あいつも違わなくない?」「俺は違わないよ!」って〈共通項〉を見つけられるようにできるといい。
「違うと思っていたお前は俺だったんだ」って気づきが必要(思い込みに気づくこと)。
一言でいえば、当事者性が必要。いつ自分が〈あなた〉のようになってもおかしくない立場にいることを意識すれば、誰もを大切にできるはず。
誰かが悲しんでいるとき〈自分は本当は当事者なのに、当事者じゃないフリをしている〉のかもしれない。
ちょっと話が逸れるかもしれないけど、「どうすれば当事者になれるのか」っていうのは、「どうすれば常連になれるのか」に似ていると勝手にイメージが浮かぶ。要は「〈そこ〉に登場する」ってこととは違うんだろうか。
「〈そこ〉を〈知る〉」というようなことがキーワードなように思う。
物事や状況には、〈すぐに解決できなくてもいいこと〉と〈すぐに解決しなければならないこと〉の二つがあって「どちらも必ず解決できる」。
特にじっくり〈話し合いによって〉解決という視点を伝えていくことが必要。
(まだ本を読んでいないけど)おそらく〈システム1〉の気持ちをすぐに解消しなくても、人は健康に生きられるよってことを伝えないといけない。
「今」でなくても平気なのだよということを。
その感覚を今満たさなければならない理由って何か?
刹那に生きる意味は?
特別支援の大先輩はこの子たちは刹那に生きているといった。
その刹那の連続の先に、必ず良い未来はあるはずなのだけれど、良くない刹那から良い刹那は生まれない。
〈心地良さ(短絡的な快)〉というよりは〈質の良さ(生きている本質の快)〉を問えるようにしたい。
(「その刹那はなんのための刹那か」短絡さ、衝動さ、システム1のセンス。
人生にシステム2があることを知らないと、人生はセンスになってしまって、内閉的個性志向に埋没していく。)
〈予定調和〉が嫌だ、という話。恥ずかしい、どうしよう、など心の戸惑い、ドキドキ、緊張感、焦り、不安、きまずさを処理できず、秩序を乱す行為とみなしてしまう。
そんなに「快」と「楽」と「平常心」だけで生きていたいのか、と。踏み外すことをありにしたらいいじゃないか、と思う。
その子どもをはじき出す仕組みのモデルはどこから入荷するのだろうか。
「あの子は違う」の基盤は誰がつくっているか。
「自分から僕は違う!」を発動しているのだろうか?

(所感:11)「個の倫理」について(キーワード)

「個の倫理」を圧殺しないように、教師は注意しないといけないですね。
〈「公」と「私」〉〈「功利主義」と「一人ひとりの人権」〉のバランスがあるのだと思います。

(所感:12)家庭(プライベート)で認められれない子ども

ありのままの自己は家庭で認められるといいのに、と思うことがある。
外で「ありのままの自分勝手」をやられると、公は崩壊する。そのエネルギーを「公」で押さえるのは難しいし、無理に限りなく近い。
そういう子の自尊感情を高めるために、よく学校などの大人が寄ってたかって誉めたり、手伝いをさせたり、ありがとうを言ったり、役割を与えたりする。
けれど、その承認はほしい相手からの承認ではないため、空振りなことも少なくない。対症療法的に問題行動を緩和できる部分もあるが、根本的なところに響かないためちょっとしたことで崩れる可能性が高い。
私はそうした状態を「本当はケーキが食べたいのに羊羹を喰ってる」とたとえる。
子ども自身も「何が欲しいのか」は、よく分かっていないため、周囲の大人からの承認によって「なんとなく甘い物つながり」ってことで、目の前の刺激に脳が誤魔化されて、変わらない日々に埋没することがある。
どういうことかというと、本当は父親や母親からの承認が欲しくて問題行動を起こしていたのに、問題行動を起こす者同士で結託して問題行動を起こし「オレたちは正しい」と承認し合う状態が起こったりする。
その承認は「甘い」という点では同じだが、本当はほしい味と違うことに気づけない。
あくまで外は公であり、本来は、私的なありのままの自分の振る舞い方と変わらなければならないだろう。それか、法などの最低限は守る。
よく言われる「子どものやったことの責任を親がとる」っていうのは、親の人生をもってして育て方を変えるなり、親が自分を変える責任という意味かもしれない。しかし、大人の可塑性には期待しない方が良いことが多い。たとえば、4年待って変わるべきときに変わるだけなのだ。それだけ、変わることに前向きになれない社会情勢、環境であり、変われない苦しい背景があるのだ、と思った方がよい。
変化する責任を見失っていることに関してはこちらがアンテナを張って読み取らなくてはならない。
家で認められず、外ではみんなが社会に合わせて動いていて、自分の代わりはいくらでもいるように代替不安を感じるから、外で家をやって見捨てられないかを確かめる。
家庭内の人間関係と似た構図や、家で偉いとされている人間の真似事で他人に作用して、自分は間違っていないといった自己満足をしようとする。他に人間関係のためのロジックがないから、知っている方法で試す。
しかし、そうした家庭で行われている接し方は外の人間関係で相応しいはずがなく、負のスパイラルを呼ぶ。
人とのかかわり方に誤まりがあっても、自分は間違ってないと主張し、人間関係が悪化し、自分は間違っていないと思っているのに、周囲からの承認は減り、そのことから家の中でも否定されるようになり、あとは自分が搾り取られて憔悴していくといったスパイラル。
どんな言葉かけをすべきか
自傷行為の子に命の大切さを説くのはNG。そんなにも大切な命を粗末にしてしまう自分はなんてダメな人間なのだろうかと、さらに彼らを追い込んでいくだけになってしまう。

(所感:13)諸問題のスタートはどこにあるか

集団的な自傷行為のスタートはどこにあるか→自尊感情や承認欲求
存在論的な揺らぎはどこからくるか。→多様化による迷いや確信のなさから来るものなのだろうか?
たとえば、ただ人間として自然な姿で生きたいのに、勉強のできなさによって自然な姿を否定される生き方を強要されるから起こるか。
モラルやルールやマナーを知っているけれど、できないという絶望を味わっている可能性がある。
私の学童の例で言うと、保育園時代で十分知っていると分かっているから否定せず、彼らの元々持っている姿から外れない指導ができた(「なんでできないんだ!」ではなく、「できるよ」という姿勢で促せた)。
どの子にも〈TPOによる道徳の選択力〉を上げたい。そうすることで将来の生きやすさにつながる。

(所感:14)モバイル機器と自尊感情

使用しない子は、これ以上知らなくてもいいってこと。それは、そのまんまの君でいいよってことだ。使用時間が長い人々は変化の強迫にあっている、と思った。
他者とのつながりをインスタントに求めず、もっと自分との対話を取り入れると良いのではないか。内省や省察を大切に生きるということ。
"そもそも、人びとに過度の熱いつながりを強要し、一致団結を求める態度は、みんなと違うことを悪とみなし、運命の共有を強要し、そこから外れて振るまう人間を断罪しかねない危険をはらんでいる。"

(所感:15)協調について浮かんだこと

協調ってよりは、お互いを「あり」にしようってことだと思う。
そもそも協調って何か。同調と勘違いしてないか。子どもだけでなく大人も。
そうなると、言葉の意味を大切にすることが必要なだけかもしれない。(文科省の道徳に関する会議の委員を何度もやられてりう吉本恒幸さんが「今回の改訂はすごく分かりやすくなっている。言葉の意味を考えられる人が減ったというのもある」と言っていた。)
守らせたい道徳、たとえば〈協調〉してほしいと思っているのが、“先生だけ”っぽい感じ(この雰囲気な風味が大事)だったら、恐らく子どもはしらける。
本当にクラスがそう思っているのかっていうのが大事(民主主義だからか、っていうのは分からないが、先生と児童は対等な立場にされることがある。「先生だからって僕たちよりしゃべっていい権利ってあるんですか?」という謎の質問を平気でされる)。
組織としての経営が必要。トップは教師だということをどう思わせるかが問われる。
"強い絆や一致団結を求める圧力は、その本来の多様性を否定しかねない圧力へと転じる危険を秘めている"
"いま、私たちが目指すべきなのは、内部で閉じた強固な結束ではなく、緩やかに外部へと開かれたつながりではないか。"
"無縁化への対処も、過去の共同体を復活させるのではなく、むしろ人間関係の軸足を外部へ広げ、現代に見合った形へとつながりの質を転換させていくことで実現されなければなりません。価値観の多様化を押し止めるのではなく、むしろ促進していかなければならない"
10~35歳のLGBTの人の7割がいじめられた経験があり、そのうち3割が自殺を考えるまで追い込まれた経験があると分かった(全体の21%)。ここには「異質な者の排除」という「従来型のいじめ」の構造が歴然と見られ、その点からすれば価値観の多様化はまだまだ不十分とすら言えます。

(所感:16)現代の多様化と大人の背景

大人が子どもの前で子どもを否定しない大切さはある。言葉をそのまま受け取る子どももいるためよくない。「この世には生きていてはいけない人間がいる」“風味”が本当に問題。これが、多様化から来たのではないか、と感じる。
現代は、多様化で価値観に甲乙を付けてしまった。
新自由主義の自己責任論で勝ち組と負け組がうまれてしまったのがよくなかった?
その中での不易の共通理解が必要。少し戻って人間という原点を意識しながらの、多様化が求められる。
そうすることで、多様化は進み、安心して過ごせる人が増えるってことだと思う。原点がありながら差別をしている嘘ぶいた理不尽な社会だったから、社会にはまらない多様化があったわけで、今は社会がまっとうになろうとしているところもあるから、むやみやたらに社会に反するのではなく、社会に合わせて多様化していくことが必要になる。
一言でいえば「社会が多様化していなかった時代の多様化」から「社会が多様化している中での多様化」へ。
「原点」を大人が押し付けてきたから、その押し付けから離れるように多様化していった。けれど、この時代の人々は社会を知ってはいた。
それから時間が経って、もともとの社会の理念も忘れ始めてしまって、無法的に多様化しているから社会化へ戻る路線が必要になったと考える。

(所感:17)解決策の一端

どこの自分が本当か自分で認識できているか?
子どもたちを〈認められる側〉から〈認める側〉へ。
また、キャラとして見立てることもしないようにする。
子どもが納得して行える 〈役〉を与える。責任は与えなきゃとれない。
(リーダーシップは練習が必要とも聞いたことがある)
"もちろん、まずは子どもたちをきちんと見つめ、大人に対して全面的に依存できる関係を築いてやることが重要です。まずは、彼らの承認願望を心ゆくまで満たしてやらなければなりません。しかし、その後は、自立への一歩を歩みだすきっかけを積極的に作ってやる必要もあります。ある段階で、見つめられる側から見つめる側へと、承認のベクトルを反転させてやらなければならないのです。自分が周りから求められる側に立ち、そこで必要とされている実感を得ることが、自己肯定感の確固たる基盤となるからです。人は、自分が求められ、頼りにされれば、異質な相手とでもつながろうとするものです。"
"そこに自分の存在価値を見出すからです。"
要するに「一方的な依存先と圧倒的な拠り所」はダメ。

(所感:18)自己肯定感と依存について

子どもが〈承認のスパイラル〉にはまっている場合、相応しい依存を経験できていないことがあると思う。養育者以外への依存は、対象者がいなくなったら次々と乗り換えて、インスタントな承認を受けようとすることを繰り返す人生にしてしまわないか心配です。
外に出て「他者貢献をしない自分を必要とされたい」と考えるほど「甘ったれるな」ということを少し思う。
貢献があれば、人は必要とされる(アドラー心理学から)。
自己肯定感とよく一緒に挙げられるものに〈自信〉がある。
「自信は経験でつくられる」と、『自己カウンセリングとアサーションのすすめ』に書いてあった。
「どのように何を経験させるか」によって、〈自信〉を得ることができる。その自信が、依存から脱する力につながると思う。必要とされる経験から枠の外部との接触へ。

自己カウンセリングとアサーションのすすめ

自己カウンセリングとアサーションのすすめ

 

自尊感情≒自己肯定感〉
自尊感情が高い≠承認欲求が強い、自己主張が強い=仮想的自己有能感が高い=他者の能力を低く見ることで自己評価を吊り上げる〉
自尊感情が高い=自己像と理想自己のギャップが少ない〉
自尊感情が高い=自惚れない、傲慢でない〉
自己肯定感が高いとプライドも高く、集団の中で協調できなかったり、まとまれないということはない。それは、仮想的自己有能感が高かったり、元々の自尊感情が低かったりする。〈未発達な自己像〉〈非現実的な自己像〉〈弱い理想自己〉が根源。
仮想的有能感〉とは、「速水敏彦」さんの造語。

他人を見下す若者たち (講談社現代新書)

他人を見下す若者たち (講談社現代新書)

 

その子に相応しい(たとえばその学年)らしい力を示し、目指させる。目標を与えることで、きちんとチャンスや機会を与える。
全面的に依存できる関係を築いて(ここの変数が難しいけど)働きかける。
演出(子どもがやったことの責任を肩代わりするなど)、意図して舞台に上げる、役割を体験できるように。
〈どうやって?〉をこれから探っていく(できれば1年から6年で創造できたら最高)。

(所感:19)最後に思ったこと

バランス力〉が求められる。
「折り合いをつける力、納得解を見つける力、妥協点を探す力、最適解を導く力」などが求められる。〈個人と社会〉〈自分と他者〉〈自由と責任〉〈利己と利他〉などのバランス感覚がよければ、生きやすさは大きくなると考えらえる。
自分のことで精いっぱいだとして、他者を入れれば、それは楽に解決できるだろうか。
大人が変わろうとしないと。
結論としては「自分の受けた教育の再放送が、社会の変化に追いついていない」だけじゃないかとも思う。
追いついていないことも想像できなかったり、どれくらい追いついていないかの検討もつかない。
今育てている子たちが出られる社会がどこなのかのイメージもできていないってことかな、と。
教師や大人の「社会生活への明るさ」は重要。
(希望が明るいとしたら、やっぱり「よく知っている」ってことが大事なんだ)

 

*1:これからも必要な伝統的知識の不易と今の社会に必要な知識の流行の必要性をそれぞれ語って戦わせているときがある。どちらも大事であって、何が主流ってことはないのがアンサーなはず。

*2:多くの人に当てはまりそうなこと質問しながら相手の内側をさぐる方法

*3:OECDも全く似たようなことを言っている。ジレンマを乗り越ある力のようなもの。