ちょっと、つづきです。
引き続き「人権啓発研修」の内容から少し話します。
やまゆり園の事件から、事件の風化について懸念を抱いていると話していました。
ところで、ナチスのユダヤ人に対する「ホロコースト」は「人種差別」について考えなければならない恐ろしい歴史の一つですよね。
このことがいつ謝罪されたかを知っていますか。
wikipedeaの情報ですが、1970年に「ヴィリー・ブラント首相」が謝罪したと書かれています。
そして、600万人ものユダヤ人が殺される前に、障害者が20万人殺されたことを知っているでしょうか(私は知りませんでした)。
NHKのハートネットTVでも、2015年に扱われていました。
(上記リンク先より引用)
600万人ものユダヤ人犠牲者を出したといわれる、ナチス政権によるホロコースト。
これを忘れてはならないとする認識は、戦後ドイツの基本です。
しかし、ユダヤ人大虐殺の前に、いわば〈リハーサル〉として、20万人以上の障害のあるドイツ人らが殺害されたことは同じようには語られてきませんでした。
そして、その障害者の虐殺について、いつ謝罪されたかを知っていますか。
なんと「2010年(反転)」だというのです。
(上記リンク先より引用)
5年前、ドイツ精神医学精神療法神経学会が長年の沈黙を破り、自分たち医師が患者殺害に関わったことを謝罪したのをきっかけにようやく今、真実に向き合う動きが始まっています。
なぜ、障害者の虐殺への謝罪については、約40年も間があるのでしょうか。
ナチスによる障害者の虐殺が風化されていて明らかになるまでに時間がかかったように、やまゆり園の事件も風化していくように感じることから、その研修で、言われたのは(ちょっときつい言葉ですが)、
「〈障害者の殺人に社会は寛容〉だったのではないか」というものでした。
どの事件も〈「誰か」が起こした事件〉ではないのです。
〈「誰も」が起こさないことのできた事件〉かもしれないのです。
誰を、何を人間とするか。誰が決めているのでしょうか。
私たちが「あの人は関係ない」としたとき、その〈排除〉は、その人を人として認識してない、誰かを殺す心情と全く違のでしょうか。
やまゆり園の犯人は「しゃべれるかどうか」を問い、しゃべれない障害者を殺していったとのことです。しゃべれない障害者は「人ではない」と本当に身勝手な判断をして殺害していったのです。
一人ひとりが「役に立たない人はいない」「価値のない人はいない」といった視点を忘れてはなりません。
どんな人間も生きている命は、どんな人間も
「目の前にいる人は、意志をもつ〈人〉なのだ」
ということを私たちは忘れてはならない、と話していました。