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それでも幸せな人はいるから

特別支援学級の担任をしていて感じたこと。幸せな子ども時代を過ごす子どもが一人でも多く増えるように

「なぜ勉強してほしいのか」(勉強させる理由)その2 終

子どもの見方

 

inclusive.hatenablog.jp

 のつづきです。

 

前回、

「自分だけの自分だけによる自分だけのための人生」は存在しないのです。

「勉強をする理由」に「誰か」といった他人が抜け落ちてしまって、「自分のためだけの勉強」になってしまえば、子どもは「自分なんていいや、大変だから嫌だ、面倒くさい」と思った瞬間に、勉強は「しなくていいもの」になってしまいます。

反対に自分の向かいたい未来のために勉強が必要だと頑張れるということもあるので、当然「自分のための勉強」という価値を否定するわけではありません。

ただ、その「自分のための勉強」に辿り着くにしても、そこには「他者意識」が存在するのではないか、と問いたいのです。

「勉強して〇〇になりたい」だとして、その〇〇になって味わいたいものはなんなのか、と。

「なぜ勉強してほしいのか」(勉強させる理由)その1 - 「それでも幸せな人はいるから」

 どの職業も「自分だけ」のためにやっているのではないはず……。

 

「勉強にある楽しさ」

「勉強にある楽しさ」は究極的には「自身の高揚感」だと思います。ドーパミンやアドレナリンにつながる。

その高揚感を得る方法の質が生きている中では問われるわけです。

そして、高揚感を得る良い方法の中に「勉強」は含まれているでしょう。

同じくらい「社会性をもつ」ということもよい方法に含まれていると思います。

 

「自分」か「社会」かどちらかではなく、この二つの掛け合わさる自分のモデル(目標や未来)を見出すことで「勉強の楽しさ」は高まると考えます。

 

まとめると、モデルに向かって「よりよくなっていく」ということだ。

  

 「それでも正しいと思うことをやっていくしかない」

 人間は結局といった感じに思うのは、結局、人は「それでも正しいと思うことをやっていくしかない」ってことです。

 

どんなによい方向性、考え方、方法があったとしても、それを採用するかどうかは、その人次第です。

 

どんな窮地でも、逆境でも、ピンチでも、「それでも正しいと思うことをやっていくしかない」のです。

 

そこに働く心の動きは、
・「未来の自分がよりよく成りたい気持ち」
・「今の自分をよりよく活かしたいという気持ち」
・「これまでの自分やこれからの自分で社会に作用して社会をよりよくしていこうという気持ち」など。

「よりよく」という気持ちしか「勉強をしたい気持ち」につながらないと考えました。

 

その「生きたい」という気持ちのような、「よくありたい」というエネルギーのような、自分の生への意欲ってどこから来るのでしょうか。

 

私は、「周りにいる大人の社会に対する正しい認識」と「その認識を子どもを否定せずに提供する力」だと思います。

 

「楽しく教わる」

ここまでの話の対局にあるのは、「いや、楽しく勉強できるように教える側が工夫すればいいだけじゃねーの?」という考えだと思います。

 

「勉強をさせる」ことが目的であれば、その通りですし、仕事として教師をやっていれば「学習」を保障する必要があるので、授業に巻き込む工夫は必然といえます。

 

ただ、私が思うのは「手段の目的化」です。

勉強が目的になっている時期もあっていいと思うのですが、本来の私たちの目的は「勉強ができるようにすること」というよりは、その先の自己実現と社会参画なわけで、そのために「勉強が必要」だから、強いるわけですよね。

 

そして、その「勉強」というのが、メインストリームで、つぶしが利く可能性、未来に適う可能性が高いから自信をもって教えているのでしょう。

 

しかし、その「未来」をどこかではイメージしておく必要があるだろう、ということです。

「そもそも教える側が楽しく教えろ」というのは、勉強に対する働きかけであって、勉強によって何を為すかが、抜けていますよね。

 

子どもたちの不透明な未来に適うために、学習を教えている。

 

ただ、勉強するのではなく。

ただ、未来へ行くのではなく。

「よりよく」 のために勉強する。

「よりよく」のために未来へ行く。

 

その意欲を潰さない前提。その指導の仕方でいいのかってことをずっと問うているわけだな、と。(今、分かったけど。)

子どもを潰さない前提をもちたいとずっと思っているのだ、と。

 

そして、私はそれを正しいと思うから、だから、「それでも正しいと思うことをやっていくしかない」から、「正しいと思うこと」をやってみているのです。(「それでも幸せになる人はいるから」もその一環。)

 

この項(終)

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