それでも幸せな人はいるから

特別支援学級の担任をしていて感じたこと。幸せな子ども時代を過ごす子どもが一人でも多く増えるように

「自尊感情」を下げない指導の具体(2016.12.27〈更新〉)

ここに「自尊感情」を下げない指導と捉えて実践していることを随時書いていこうと思います。

 

(2016.12.17 更新)

自尊感情について」

自尊感情は、自分が自分のモデルとの差が大きいほど低いと捉えます。

その向かいたいモデルの昨今のトレンドは〈承認欲求〉です。

要は「どう関心を得るか」です。

 

しかし「どんな関心がほしいか」は、人それぞれに違います。

 

それが、誤った方向に行くと、「負の関心」も喜べるようになってしまう子もいるし、「負の関心」は喜べなくて、自尊感情がだだ下がりしていく子もいます。

 

注意したいのは「負の関心がほしい子どもはいない」というところです。

どの子どもも温かい関心だけほしいのです。平気そうにしても強がっているだけです。

 

では、どうすれば「正の関心」で子どもを指導していけるか考えたものを書いていきます。

 

「言うより『書く』」

指示のおいて〈視覚化〉と言われますが、この〈視覚化〉は〈自尊感情〉にも影響すると考えます。

何度も「静かにしなさい!」と言って静かにさせるよりも、「静かにしなさい」と板書したり、「静かにしなさい」と書いた紙を見せた方がいいです。

 

「言われてやらされる」のと「見て気づいて自分からやる」の差が、自尊感情に影響すると考えます。

「言われてやらされる」のは、「できない自分→命令されてやらされる自分」、という流れがあります。この自己認知は、「できない自分」であり、目指したい「できる自分」からは距離が縮まらないため、自尊感情は低下するということです。

もちろん、「いつか」や「次」から「できる自分」になりうるという期待はもてます。

 

「見て気づいて自分からやる」のは、「できないことに気づけない自分→気づいてできる自分」、という流れがあります。この自己認知は「気づけばできる自分」であり、目指したい「できる自分」との距離に変化が生まれると思います。「気づけばいいのだ」ということです。

そこからの成長は、「いかに気づくか」に更新されます。

「いかに先生に注意されないか」「いかに先生の言うことを聞くか」ではないのです。

 

同時に使用したいのが、

「命令系・否定系を使わない」

「全体で名前で指摘しない」です。

 

「命令形・否定形を使わない」

〈命令形〉の話

「言うより『書く』」の中で、「静かにしなさい」という言葉かけが出てきました。

「〇〇しなさい」というのが命令系の言葉です。「静かにしなさい」も命令形の言葉です。当然、「〇〇しろ」も命令形の言葉です。(教育現場で「〇〇しろ」という人はいないと思うのですが……)

「命令された」というのと、「自尊感情」がどう関係するかというと。

価値観が多様化して、人とのかかわりが対等になった昨今、「命令された」ということは、「下に見られた」という「ありのままの自己存在の否定」につながり自尊感情が低下すると考えます。

そのため「静かにしましょう」の方が、勧誘であり、提案であり、投げかけであり、柔らかい対等な言い回しになります。

〈否定形〉の話

「〇〇ません」が否定形の言葉です。

「静かにしなさい」を否定形の言葉で注意すると「うるさくしません」「しゃべってはいけません」「口を開きません」などが考えられます。

しかし、否定系は、「今の自分はいけなかった」ということを想起させるため自尊感情を下げる可能性があります。

もちろん、次から「良い自分になろう」という考えを起こさせるという期待はできます。(そんな子どもばかりなら、この記事を書こうと思わないような気がするんだけど……。)

 

子どもは、ありのままの自分の存在を否定されたくないので〈命令形〉も〈否定形〉も基本的に受け入れたくないという心構えがあります。そのため、「言うことを聞かない」ということが起こります。

 

どんな言葉かけが求められるかというと、今のところ誰が使っても有効だな、と感じるのは「口を閉じます」という言葉かけです。

何をすればいいかが分かりやすいです。

 

支援での方法の「具体的」も合わさった言葉かけです。

「静かにしましょう」だと「抽象的」なのです。「静かに」ってどれくらい?何?どんな状態?と人それぞれの「静かに」が生まれてしまいます。

 

中には「死ねってことか!」とパニックを起こす子もいましたが、その子は鼻がつまっていたのかもしれません。この言葉かけの注意点はこの辺です。

もちろん、口を閉じさせた後、だんだん、言葉かけを変えていく必要はあります。

子どもたちが口を閉じて静かになったら、「これが静かってことだよ」、「話を聞くときの静かさはこれだよ」、「先生が話し始めたらこの静かさにしてね」、「先生が話そうとしたらもうこの静かさだといいよ」など必要な価値観を伝えていきます。

 

そして、ちょっと話が逸れますが、当たり前に大きい声や強い声で言えば言うことは聞きます。命令でも否定でも聞きます。

それは、言うことを聞いたというよりは、ただ身の危険を感じたから、動いただけです。ここには、次からも身を危険にしたくないという考えから、教師にとって正しい行動を引き出すことができるという期待ができます。

同時に、身の危険を感じない先生のときは、その身の危険を感じる大人に指導された歳まで退行した姿が表出する可能性があるというフラグが立ちます。

 

「全体で名前で指摘しない」

特に、高学年で良い影響がない指導法だと思います。

名前を読んで注意すると、「その子」ができないということが知れ渡ります。

期待は、次からその辱めを受けたくなかったらやめなさいということですが、期待値は低いでしょう。

子どもは元来好き勝手な生き物ですから、それをなじっても何も出ないんですよね。

特に衝動性やこだわりが強い子どもには期待しにくいと思います。

 

なので、「あと2人」、「後ろの方気になるなあ」、「まだ話している人がいるよ」、「あと〇人の人がんばって」などと指摘することが多いです。

 

ちょっときつくするときには「あと1人だよ!」と圧力を上げるときもあります。

 

また、なぜ有効なのか分からないのですが、話しているないようをそのまま言って「〇〇の人も〇〇して」は、結構ポップな雰囲気で通ります。

たとえば、子どもが
「昨日逃げ恥見た?」
「ガッキー可愛かったよね」

などと話していたら

「はい、そこの『昨日逃げ恥見た』の人たち座っていただいてもよろしいですか?」なんて言ったりします。

 

ここでも子どもたちに「気づかせる」ということがポイントなのが分かります。

「あっ、オレか!」とか「あっ、わたしか!」と思うと人は動けるでしょうね。

 

当然のことですが、全体の中で「教師にとってあの子はできないよくない子」という雰囲気ができるとそこからクラスの雰囲気が悪化します。 

注意が「排除のための注意」「悪い奴だから注意」「迷惑で嫌いだから注意」ではないという前提を醸し出すこともとても大切です。

「名前の呼び方」一つとってもその醸し出す思いや込める思いは重要です。

 

(以後、随時更新)

「行為」と「人」を分ける(2016.12.27〈更新〉)

「罪を憎んで人を憎まず」ですね。
 

子どもの中には、どこから得た価値観か分かりませんが、「誰が悪いか」を追及しようとする子どもがいます。

 

その会話の流れに乗ると、大人も犯人捜しに巻き込まれて、誰が悪いかを探ることが責任を果たすこと、と指導の視点を誤ってしまうことがあります。

 

学校においては、よっぽどの過失、法に反する、人生にかかわる、修復不可能(作品でなく気持ちの面で)なものでない限り、「誰も悪くない」と指導し「行為が悪い」と伝えて、当人が責任を取れる形で責任を取らせる工夫が大切です。

 

そのときに重要になるのが「罪を憎んで人を憎まず」です。
子どもは誰が悪いか、どれくらい悪いかを追及してきます。
7:3、8:2、6:4、そんなこと教師は知ったこっちゃありません。
裁判官じゃないですし、度合いによって何をすべきかの基準を持っているわけではありません。

 

そういったとき、謝ったり、直したり、償ったりで解決できる場合は、子どもと「何が悪かったか」を話せば、大抵解決できます。

傷害、器物損壊等があると、大人が出てくる必要がある場合もあるでしょうが。

 

気持ちに〈共感〉はする。
ものすごーく、短絡的な例ですが……。

「どうして叩いちゃったの?」
「だってうざいんだもん」

「うざいって感じたんだ……何が?」
(これで言えれば大したもの。)

「Aくんがバカって言った。」
「そうだったの。それは嫌だったね。それで叩きたくなったの?」
「うん。」
「そう、バカって言われて嫌だったんだもんね。先生もバカって言われたら嫌かもなあ。」
「ただ、叩いたのはありだったと思ってる?」
「……よくない。」
「先生は、君のこと大切だと思ってるよ、好きだよ。そして、今回のことがあっても別に悪い奴だ、嫌いだとかは思わない。ただ、私は、叩くのはよくないかな、って思うよ。君と同じ意見だ。」
「……。」
「今、君がすべきことはなんだろう。何ができるんだろう。」
「Aくんに謝る。」
「そうだね、あとやっぱり嫌だったことも言わないと。」

私は、これぐらいはっきり言語化して、子どもを支持しつつ、「行為」と「その子」を分離します。「その子」が悪いは、指導として入りにくいという実感があります。

この指導をしたせいで、子どもが悪化していったことはない、と感じています(かなり主観)。

学童のころに一度、5年生の男の子があまりにも見境なく頭を叩き、2年生の女の子までバシバシ叩くので気になったことがありました。
その子は塾に行き始めて、その圧力の発散だろうと推測していたのですが、やっぱりあんまりでした(5年男子が2年女子はダメじゃない?)。

それで、一度「それは、よくない」って注意したんですよね、「何考えてんだ」と。
当然、5年の彼は「は?」みたいな、「なんだよ!」「うるせー」「偉そうにしやがって」みたいになるんですよね。

それで、帰り道ずーっと考えてて、でも、そうだよなあ、と。
「悪いことは悪い」ってのもそうなんだけど「その子を受け止めてない指導だったよなあ……。」みたいな。

それで、もう夜8時過ぎくらいだったけど、その子の家に電話をして、話させてもらいました。

「さっきの注意の仕方はよくなかったわ。ごめんね。」と。
「君がどうしても叩きたいなら、それを認めるわ。でも、オレは君を信じているし、たぶんよくないのは分かってるだろうと思う。だから、任せるし、君は自由でいい。とにかく今日はごめんな。」みたいなことを言いました。
この意味不明な電話に、彼は「は?うん、じゃーね。」みたいな感じにボソッと言って電話を切りました(ゲームをやっているような感じもあった)。

正直、自分でも「うっわ、ビミョー。」と思いました。
けれど、翌日から、頭を叩くのはなくなりました。

〈信頼関係があるから〉というのが、今では一番の大きな要因ですが、「行為」と「人」を分けるのは大切な視点だと思います。

(今回の例であってたかな???)

一言で言い直すと「子どもは支持」しつつ「行為を指摘」するってことです。

 

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