「この家に『せんせいけらいになれ』あったっけ?」と言われて、文庫の『せんせいけらいになれ』を本棚から出して渡した。
そのとき『灰谷健次郎』の別の本に付箋が貼ってあるのが目についた。
それを見て、「やっぱり、自分の原点だなあ」と感じたので、それを少し紹介。
『優しい時間』から
『優しい時間』というタイトルがもう素敵ですね。
当時、人間は本来どうあるべきか、という闇に片足を突っ込んでいたので、癒されました。
灰谷さんは、島での人間生活から感じた生の営みのことを『優しい時間』と、とらえたのだろうと思います。
(見出しは、本の目次から)
「澤地久枝さんと――往復書簡――」より
わたしは『太陽の子』という沖縄の子の物語の中で、主人公の少女に
「いい人ほど勝手な人間になれないから、つらくて苦しいのや、人間が動物とちがうところは、他人の痛みを、自分の痛みのように感じてしまうところなんや。ひょっとすれば、いい人というのは、自分のほかに、どれだけ、自分以外の人間が住んでいるかということで決まるのやないやろか……」と語らせました。
「自分の中に他人を住まわせていく」という大切さを子どもによく伝えていました。
人の中には「他人を意識できないから、自分がからっぽになっていく人がいる」と考えています。
※子どもの中には「他人がいることが重すぎて死ぬ人もいるんじゃない?」と言う子もいましたが……(これが道徳の面白いところ)。
自分の口をついて出てくる言葉に『灰谷健次郎』のいう人間観が紛れ込んでいることになんだかビックリした。(勝手に自分の言葉のように使っていてごめんなさい、と言っておこう)。
「住井すゑさんのまなざし」より
住井すゑさんの思想と行動はきわめて明快である。
人に上下の差はない、いのちに高い、低いはない、すべてのいのちは尊くかけがえがない、という自明のことを、自分の生涯をかけ、人々の前に明らかにしたといい得る唯一ともいえる日本人である。
あえてわたしは唯一と書いたが、思想的にそう生きた人は少なからずいるとしても、その生活のすべてを、そのことのために注ぎ、私心なく生きた人物は、田中正造と住井すゑくらいではあるまいか。
このような人は名もない人の中には数多くいるが、名のある人のうちにさがすのはむずかしい。
人はみな同じ、とか生命に重いも軽いもない、というのは誰しも口にすることである。しかし、それを一点のくもりもなく、おのれの生き方で示す人はまれである。
この「まれ」になりたいと思ったように思います。
それこそ私も「誰しも口にする」誰しもの一人です。
しかし、「一点のくもりもなく、おのれの生き方で示す人」として振る舞えているかは分かりません。というか、できていないでしょう。
この先、どこにいようが「この謙虚さ」、卑屈な謙虚さでなく「この人間を感じる謙虚さ」を忘れないようにしたいのです。
引用した部分の次のページに『住井すゑ』さんの言葉を灰谷さんが抜粋して載せています。そこに「――教育という言葉を辞書で調べると」と書かれているものがあります。
是非、ブックオフなんかで108円で売っていると思うので見てみてください。(当然、図書館ならただ)
「若者と読書」より
一番好きな、大切にしている詩です。
そして、この詩が、「私が子どもに教えたいこと」の第一位です。
(詩は下線)
話が少し飛ぶが、オウム真理教の幹部らの犠牲になった坂本弁護士の婦人が、わたしの本を読んでくださっていたということを、友人からきいて知った。
テレビで、そんなことが放映されたらしいのだが、わたしの『ひとりぼっちの動物園』の巻頭の文が気に入られていたということである。あなたの知らないところに
いろいろな人生がある
あなたの人生が
かけがえのないように
あなたの知らない人生も
また かけがえがない
人を愛するということは
知らない人生を
知るということだ
これは、わたしが読書生活で得た貴重な実感である。
坂本夫妻は、このような気持ちで、人に添う仕事をなさっておられたのであろう。無念だったろうと思われる。ご冥福を祈るばかりである。
他人の人生を知るということと、他人の考えを知るということは、人が人になるために、絶対的に必要なこととしてあるだろう。
養護学校の介助員をしていたときの経験とこの詩が合わさって、私の中で替えのきかない信念となっています。
「人を愛するということは、知らない人生を知るということ」
どうすれば「知ることができるか」「どうすれば知ろうとしていることが伝わるか」が大きな問いです。
そして、究極的には、この営みにしか、人間の活動はないとすら思っています。
「今、私たちが、誰かを知ろうとしているか」、それだけがつながって、人々はつながって、「生きたい」って思えるのだと思うのです。
これは、私論でしかないのですが、「人を愛する」の「人」を「自分」に変えると、「自分を愛するということは、(自分の)知らない人生を知るということだ」に変わります。
もし、生まれた日、生まれる前、この先の未来、どこかの「自分の知らない自分の人生」に出会えたときに、人は「自分を愛すること」ができるのではないではないか、と考えています。
「知る」という尊さ、時間の有限さのようなものを感じさせられる詩です。
そうして、この書いたものを読んでくださって、私のことを少しでも知ってくださること、時間をいただくことに、やっぱり私は愛を感じずにはいられないのです。
そんなところで、では、また☆