それでも幸せな人はいるから

特別支援学級の担任をしていて感じたこと。幸せな子ども時代を過ごす子どもが一人でも多く増えるように

障害者だから優しくするんじゃなくて、「優しいは誰にでも」。ただ、その「優しさの中身」が「相手によって変わる」ってだけ。

休みのリズムから到底戻れる気がしない「ハピペン」です。ただそれも「観点喜地」で、大きく喜んで生きていこうという2017年。3学期がはじまりました。今年度の最初、むしろ昨年度の終わりから、最高学年は何が最高か?と問うていました。
私は「喜び最高学年でいこう!」と言っていました。
そして、3学期の初日「喜び最高学年、最終章のスタート」と板書しておきました。「うん、たぶん、誰も見てない……。」

 

さて、枕は、表題と全く、ビックリするくらい全く関係ないんですねえ……。

たまにあると思うのだけど、
「先生は〇〇ちゃんには優しい、オレらには怒ってばっかりなのにー」とか
「〇〇ちゃんだけ、先生を独占してずるい!」とか。

高学年で起こると学級崩壊につながるような火種を感じます。

支援級の子は特に交流級で、こういう待遇になりやすくて、周りの子が満たされていない子だったり、先生からの注目大好きだったりすると、こういう意見が出てくることがあります。

けど、この子はあんまり「優しさ」とか「みんなで生きる」とか知らないのだろうな、と思いました。

たぶん少し考えさせれば分かると思うだけどね、じゃあどうしたい?とか。クラスのみんなはみんなのためにいるんだよ、とか。自分だけパイが少ないからってひがむのは公ですることではないというような。
そして、誰かが誰かに、誰もが誰もに作用していれば、自分が構われる時間も増えるはずだ、とか。

要は、先生に構われる時間が少ないことを、先生とかかわっている子や、先生のせいにしようと子どもは巧妙に罠を仕掛けてくるけど、そうなっている大きな原因は〈かかわられたい子ども〉自身のせいかもしれないってことだ。

〈かかわられたい子〉が、先生がかわっているその子を助ければ、先生は〈かかわられたい子〉とかかわる時間が生まれる可能性があるってことだ。

 

そして「そもそも優しさの形は相手によって変わる」。今回言いたかったのはこれ。

〈かかわられたい子〉は、勘違いしているけど、
〇〇だから優しくする」のではなくて、
「誰にでも優しくする」っていうのがそもそもの前提。

先生は「誰にでも優しくしている」はずである。
そして、その「優しさの中身は変わる」のが当然である。

赤ちゃんへの優しさと、成人への優しさが違うのと同じように。

「優しさ」としては、「優しさ」であって変わらないわけです。
しかし、その「中身の同じさ」。行為やかかわり方、時間だとか、相手だとかを同じであってほしいと思うと、優しさはすごくどす黒く濁ったものになるように思う。

私たちの誰もが求めるべきものは「優しさ」であって、
その優しさの「中身」→「誰からの誰々にしたのと同じ長さの同じ行為の同じかかわり方」を求めてしまっては、ごちゃぐちゃっとするってことだ。 

その子は、〈かかわられたい子〉は、ある行為だけが「優しさ」だと捉えているため、自分に起こっている優しさが見えていないかもしれないということだ。

もちろん、自然にそれに気づけっていうのは無理があるので、その辺りを話して、人間一人ひとりの違いや、力を合わたり話し合ったりすれば全員が気持ちよく過ごせる方法があるっていうことを知っていく必要がある。

「隣の芝生は青く見える」っていうのがあるせいってのもあるだろうけど。

ただ、「自分も優しくされたい」なんて子どもは悲しすぎるので、そこを払拭できる「つながりのあるクラス」は演出したいなあって思う。

「頼りたい」より「頼っていいぜ」が蔓延すればいいだけなのに、と思う「ハピペン」でした。