帰って来て触れる家の中の物何もかも「冷たすぎるでしょ!」と凍えている「ハピペン」です。指先がきつい今日この頃ですね。
さて、表題「幸せな子ども時代を過ごす子どもが一人でも多く増えるように」。
自分に結局「何がしたいの?」と問うたとき、なるべく具体じゃないといけないから、と言って答えるのをやめてしまうことも少なくない。
だけど、今日は抽象も受け付けるよ!漠然もOK!どうぞどうぞ、みたいな感じにすると行きつくところはこういう言葉だった。
「幸せな子ども時代を過ごす子どもが一人でも多く増えるように」
どの子どもも見つめて同じ場で「幸福感」を共有できる場所は、公教育の教室しかないのではないか、と考えている。
「いろいろな人といられた」という経験。
しかも、それで「幸せだった」という体験。
この「事実」、この「勇気」は、将来つまずいたとしても自分を生かそうと思う原動力となる。
贅沢を言えば、このセミ社会の公教育の場が「協働して楽しかった場」であったなら、「自分の居場所はある可能性がある」という希望を持てるのではないだろうか。
いろいろな境遇の人がいる中で、一人ひとり自分を発揮することで(したおかげで)、どのメンバーも楽しいと思うことができた。
「自分のいて良さ」と「自分の誰かを救えるさ」という共通の体験が得られて、それを「いいなあ」と感じさせる場所。
それを体験させたくて、作りたくて、公教育に携わっている。
誰一人欠けちゃ味わえなかった今を味わえる子どもを育てたい。
そうして、幸せな子ども時代を過ごす子どもが一人でも多く増えた先に、子どもを幸せにしたいという人間が増える。自分たちが幸せだったから返したいと思える大人。
そこに向かって行きたい。とにかく何が何でも、子ども時代は幸せであった方が、結局の社会への還元率も高いのではないかと思う今日この頃。
それなのに、こういうツイートもある。
幼少時からの抑圧は、思春期前後で問題行動化する。
— Nikov (@NyoVh7fiap) 2017年1月14日
根底にあるのは、「自分を理解してほしい感情」と「理解してもらえない現実」とのギャップ。
幼少時から、安心して自己表現できる居場所が、子どもの安定した情緒を育てる。
私たちは、子どもから何を奪って、何を与えているのか。
そして、それは本当に「何のため」なのだろうか。