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それでも幸せな人はいるから

特別支援学級の担任をしていて感じたこと。幸せな子ども時代を過ごす子どもが一人でも多く増えるように

「幸せな子ども時代を過ごす子どもが一人でも多く増えるように」

自分なりの視点

帰って来て触れる家の中の物何もかも「冷たすぎるでしょ!」と凍えている「ハピペン」です。指先がきつい今日この頃ですね。

 

 さて、表題「幸せな子ども時代を過ごす子どもが一人でも多く増えるように」。

自分に結局「何がしたいの?」と問うたとき、なるべく具体じゃないといけないから、と言って答えるのをやめてしまうことも少なくない。

 

だけど、今日は抽象も受け付けるよ!漠然もOK!どうぞどうぞ、みたいな感じにすると行きつくところはこういう言葉だった。

 

「幸せな子ども時代を過ごす子どもが一人でも多く増えるように」

どの子どもも見つめて同じ場で「幸福感」を共有できる場所は、公教育の教室しかないのではないか、と考えている。

「いろいろな人といられた」という経験。
しかも、それで「幸せだった」という体験。
この「事実」、この「勇気」は、将来つまずいたとしても自分を生かそうと思う原動力となる。

贅沢を言えば、このセミ社会の公教育の場が「協働して楽しかった場」であったなら、「自分の居場所はある可能性がある」という希望を持てるのではないだろうか。

 

いろいろな境遇の人がいる中で、一人ひとり自分を発揮することで(したおかげで)、どのメンバーも楽しいと思うことができた。
「自分のいて良さ」と「自分の誰かを救えるさ」という共通の体験が得られて、それを「いいなあ」と感じさせる場所。

 

それを体験させたくて、作りたくて、公教育に携わっている。

誰一人欠けちゃ味わえなかった今を味わえる子どもを育てたい。

そうして、幸せな子ども時代を過ごす子どもが一人でも多く増えた先に、子どもを幸せにしたいという人間が増える。自分たちが幸せだったから返したいと思える大人。

そこに向かって行きたい。とにかく何が何でも、子ども時代は幸せであった方が、結局の社会への還元率も高いのではないかと思う今日この頃。

 

それなのに、こういうツイートもある。

 

私たちは、子どもから何を奪って、何を与えているのか。

そして、それは本当に「何のため」なのだろうか。

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