新しいちょっと高い手袋をして通勤しているのですが、指先が寒いよ!なんで!?と思っている「ハピペン」です。そして、試しに古い手袋をして通勤をしたらもっと指が冷たくなって冬は本当に怖いと思いました(お前はペンギンじゃねーのかってね)。
今日は、主体性について「研修」「本」「自分の考え」を書きます。
「第三のやる気」(?)
主体性とは、何かという問いは、一瞬沈黙に包まれるような問いですよね。
なんて答えるとベストかってのを考えたくなるのだけど、恐らくベストってないのだろうな、と思います。そこら中に定義はあるとしても。
今日は、研修の中で、主体性って?って話が出ました。
指導主事の先生は、はじめ「やる気」のようなものと思ったと言っていました。
やりたくなるようにすること。
やらなきゃいけないことだと思ってやれるようにすること。
かな、と。
この二つを「第一のやる気」「第二のやる気」としたとき、この二つは、その場で喚起させるようなやる気だというようなことを言っていました。
①やりたくなるようにすること。(教材、言葉かけが主でしょうか。)
②やらなきゃいけないことだと思ってやれるようにすること。(言葉かけが主でしょうか。)
けれど、養護学校が舞台になると主体性についての考えはそれでいいのか?と思ったと言っていました。
「第三のやる気」と言っていいか分かりませんが、それが「共に行っている中でじわじわと育まれるもの」と言っていました。
ある物事、「これ」といったものでやる気になるのではなく、共に活動していく中で、やれるようになっていく主体性もあるのではないか、と言っていました。
確かにそれもそうだなくらいに聞いていました。
偶然帰りに読んだ本に、「主体的な学び」について書かれていたので、それも紹介します。
「地球市民意識を育てる『学び』」
多田孝志さんの本に書いてあったことです。
「自学・共創・実感による学び」が地球時代の教育には必要という文脈で、
「自学」と「共創」とは相互補完的な関係にあります。主体的な学びは、常に他者との関わりによって深まり、共創の学びは、個々の子どもが発想・発見・知識等の表出し合うことによって高まっていくのです。
(P26)
とあります。
「他者の存在によって主体性が高まり得る」ことが、示唆されています。
研修の話に似ているなあと思いました。
要は、教師の力によって、一時的な「主体性」を喚起することはできるかもしれないが、教師以外の存在によって「他者(お互い)の存在が、自分にとってのあなたとして認識されたときに、その間柄によって主体性の芽が出てくる」ということだと思いました。
いかに<他者を認識>するかは、主体性のための鍵かもしれません。というか、そもそもそうですよね。自分のためだけの勉強というより、誰かのための方が子どもたちはやる気を出しますね。
結局、一言で言うと、「つながりが主体性を高める」って話に落ち着きそうです。
(なんとなくサンデル教授の、母親を助けるか、他人を助けるかという話を思い出したぞ。)
自分なりに考えた「主体性」とは?
私は「自分なりの参加」と思いました。ここには、「参加しない」という主体性もあるかもしれません。学校の場合は、ここが「参加」を前提とするため、「主体性がない」と見てしまうこともありますが、それは「社会」に関する「主体性がない」という話ってことですよね。
ただ、ここまでの話でいくと、それはやっぱり「つながりを感じないから」ということで答えが出せそうです。
また、「伸びたさ。今より伸びようとする作用(よりよくなりたさ)」も主体性には必要だと思います。これも、また結局「社会」や「集団」を感じているかということが関わってきそうです。
そして、その伸びたさは、考えを一歩進めると「自分に必要なものを自分で手に入れられる力。(自分に必要なものを見い出し理解する力)」だと言えそうです。これも、また、「社会で生きていくための」という「社会」が前提に入ってきます。
主体性のための「つながり」をどう演出するか、今年はたくさん考えられたらと思います。