チョコレートはホワイト派の「ハピペン」です。森永の板チョコアイスにホワイトが出ていて、うまうまーです。開発者の方が私のようなホワイト派のために尽力してくださったかと思うと感動……。
さて、今日は、「出遅れること」ということについて書く。
「置いていかれたら。置いていかれた人と、歩いていくしかないじゃない?」
これは、自論で私論だけれど、ギャング・エイジ後、非行の流れの原理は、これだと思っている。置いていかれた存在特有の何かが結びつきを煽る、と。
そんな「出遅れること」について。
見識をくれたのはこの本。
この本に書いてあることを見て、
どの子どもにも、
どの人間にも、
自分は外の世界や現実に対して「出遅れているかもしれない」という劣等感や不安のようなものを抱く時期というのがあるのではないか、と思った。
そうして、「誰かに追いつきたい(同一視)」。
そういう、無限に(延々と)解決することない、幻想を追いかけて人は、成長しようとか、誰かに適おうとか、認められようとか邁進するのかもしれない。
「先にいる者と後からくる者」
ちょっと長いんだけど引用。
(ある子どもが寝て起きるとき)
目覚めた世界に先にいる者は、後からくる者が入りやすいようにと気をつかう。これは保育にたずさわる場合の根本のひとつである。このことは、この場面に限らない。
すでに楽しく遊んでいるところに他の子どもが来た場合や、よその子どもが遊びにきたとき、新学期に、すでに上ったグループに新入生が入ったとき、大人の場合も、親しい仲間関係があるところに新入者を迎えるときなど、同様のことがある。
ごく幼いときから、自分が出遅れたと感じたときに、迎え入れてもらうことを体験した子どもは、逆の関係になったときに、他人に対して保育的配慮をすることのできる者となるであろう。目がさめたときに、泣いてむずかる子どもは、それなりの理由がある。放っておいたり、叱ったりしてはいけない。まず、目ざめたときにすでに動いている現実の世界にあたたかく迎え入れることが、保育者の最初の仕事になる。
ある環境に対して「遅れを取った」と感じる子どもは、追いつこうと自分を働かせる。
なんとかそれを受け入れてもらう素地を自分なりの力で展開する必要があるが、そこで変に強がって、自分から離れた自分を演じるとややこしいところがある。
そのために、自分は自分なりに選択をして、現実を生きることになる。
大人の姿勢としては、「遅れを取った」と感じている子どもに対して、大丈夫なことを示し、復帰できるタイミングを示してやることである。
(行けそうなときに、行く試みに付き合いきってあげることが大事かもしれない。)
「出遅れること」
人は「出遅れたこと」に気づいたときに、狼狽し、動揺するのは、二歳の幼児のみではない。大人になっても同様のことがある。
しかし、幼児期から、それを処理することを学んできた者は、次第に、わずかの助力でそれを乗り切ることができるようになり、更に、もっと広い人生の舞台で同様の場面に出会ったときにも、うろたえることなく、建設的に処理してゆくようになるであろう。
この「出遅れ」にどう対処するか。これは、ストレスマネジメント、ストレスコーピング、レジリエンシー、アンガーマネージメントなど、そういう類の力なのかもしれない。
ここで知っておきたいのは、人は「出遅れる」という心苦しさをよく抱くということだ。
A子は、きょうは起きるのが遅くなった、どうしてもっと早く起してくれなかったのかと言って、きげんがわるい。時計の時間としてはいつもとほとんどかわらないのに、自分が起きたときにすでに妹たちが起きているというのは、遅く起きたのと同じことなのである。
(中略)
母親は、子どもが出遅れた認識をもつにいたった経過を察していたので、食卓のサービスを少しよくしてやる。子どもはじきにきげんを直して、学校に出かける。
イメージされる光景に、「温かさ」と「優しさ」を感じる。
ここで知っておきたいのは、「出遅れた人」は、誰か何者かによって、その憂いを拭うことができるということだ。
私たちは、つい「便利な子ども」を求めすぎるところがあると思う。
いつの間にか、気づかないうちに、知らないうちに「便利な子ども」を生み出すことに必死になってしまっていることがあるだろう。
気づけば、その子どもが「便利でないこと」に腹を立ててしまっている。(なかなか恐ろしいことだ)
ある子どもが、それくらいのことで耐えられないからと言って、それくらいのことで悲しむからと言って、それくらいのことで助けを求めるからと言って、別にそれはなじらなくてもいいことだったりする。
突き放して与えた孤独は、いずれ誰かにそっくりそのまま還元される。
この衝撃的な題名の本の中にもそういったことが書かれていた。
子どもが自分は「出遅れている」と焦っているときは、どうにかこうにか少しでも並走して、子どもが自分から走るスピードを速められるような励ましをしたい。