それでも幸せな人はいるから

特別支援学級の担任をしていて感じたこと。幸せな子ども時代を過ごす子どもが一人でも多く増えるように

<フル・インクルーシブ>についてもう少し(その2)

  <フル・インクルーシブ>について。続きです。

inclusive.hatenablog.jp

inclusive.hatenablog.jp

 

言いたいことは大まかに三つで、

  1. 「インクルーシブ教育システムの構築は『フルインクルーシブ』に向かっているプロセスだろう」ということ。(前回)
  2. フルインクルーシブには「『場』と『学びの内容』の視点が必要」ということ。です。(今回)
  3. 教師は「子ども同士を結びつけること」が重要性(次回)

といったことです。 

 

2.フルインクル―シブには「『場』と『学びの内容』の視点が必要」ということ

<フルインクルーシブ>を目指しているからと言って、どの子も通常級に入れてしまっては、ダンピングになりかねません。

その状況から、学びが生まれる可能性はなくはないでしょうが、学校教育に求められる意図的・計画的な教育活動とは言えないでしょう。

 

フルインクルーシブの良さとして、どんな子も一緒になって学ぶことによって、社会性が育まれると考えられています。

私もこの考えに賛成です。

共生社会の実現に向けて、多様性を認める感覚や考え方、力は育まなければならないものだと思います。

 

しかし、<社会性>が育つからといって、誰でも彼でも同じ場にしておけばいいとはなりませんよね。

 

その<同じ場>で、<学ぶ内容>があるはずです。その<学びにアクセス>しなくていいのか?というのが、<フルインクルーシブ>の対極に出てくるものです。

 

「<場>と<内容>のバランス」が重要になっていきます。

<場>とは?<内容>とは?というそもそもの問いも必要でしょう。

 

こんな記事を見つけました。

 

「障害のない者」に対する視点

イタリアのインクルーシブ教育について書かれたものです。

平成27年10月14日 大阪府立寝屋川支援学校の学校便り

イタリア方式フル・インクルージョンの課題 ・すべての人が完全に納得しているわけではない
・法や理念が現場で十分生かされていないケース
・巨額の財政負担 ・受け皿となるハードの不足(学級増への対応)
・大幅に増員が必要となる教員の数・質の確保
・医療や福祉面で学校を支える枠組みづくり (学校が教育に専念できる環境)

イタリアでは、障がいのある子どもが通常の学校でともに学んでいます(フル・インクルージョン)。この体制を実現するために、少人数の学級編成に加え、支援教員の配置等きめ細かな 支援体制がとられているとともに、地域保健機構(ASL)との役割分担等、法律の整備を通じて学校 が教育に専念できる仕組みや環境が整えられています。

一方で現地関係者には、フル・インクルージョンはクラス全体の授業の進度に影響があるという否定的意見もある

大阪府が進むべき方向性 ・障がいの有無にかかわらず子どもたちが自然に交流するなど、イタリアの教育環境に学ぶべき点は多いが、仮に「イタリア方式」を導入した場合、 現状に比べて極めて巨額の財政負担が必要となるうえ、支援教育としての実効性、保護者のニーズ への対応や満足度という点で課題があることが視察を通じてわかった。

http://www.osaka-c.ed.jp/neyagawa-y/pdf/h27/kochodayori-kyosyokuin13.pdf

(下線は「ハピペン」)

イタリアでは「フルインクルーシブ」で学校教育が行われているようですが、共に学ぶことでクラス全体の授業の進度に影響することが懸念されています。

 

「障害のある者」への視点

あるブログの記事を紹介します。

ameblo.jp

読んでいただくと一番いいのですが、2010年のアメリカでのインクルーシブ教育について書かれている記事です。

簡単に説明すると、

本の学校では、国・算・社・理などで、通常級における交流学習をすることは少ない、という文脈で、アメリカでは、「accommodation(適合援助)」(今でいう合理的配慮)によって、様々な教科で交流をしているという話です。

しかし、日本では「同じ条件で同じものをやるのが平等」という考えが強く、難しいかもしれない。アメリカでは、他の生徒とは異なる教材、配布資料をもって交流していると書かれています。

そして、あるとき友人が、「違ったことをやっているのに同じ教室にいる意義はあるのだろうか」と教授に質問したそうです。いわゆる「お客さん状態」だと。

ディスカッションの結果。

「それでも何か学べる」ということ。

学習面ではなく、社会性を育てているということ。

といった意見が出たそうです。

そして「周りにいる子にもメリットはある」と書いています。

最後は、

フルインクルージョン(完全に普通教育の中に組み入れること)は効果的でないと思います。アメリカの法律の中でも、フルインクルージョンは謳ってません。
けれど、インクルージョンの意義は確かにあると思います。全ての子供たちに。

 以上のような懸念は、「特別支援教育の在り方に関する特別委員会」でも議論されていました。

(大久保委員)インクルーシブ教育といっても、私は、同じクラス、通常の学級で常に一緒に学ばなければならないとは思ってないです。知的障害の分野から見れば、お子さん御本人にとって、それが苦痛であったり大変であったりということは当然あるわけですし、

特別支援教育の在り方に関する委員会(第一回)より

(下線は「ハピペン」)

 

ここまでをまとめると、

<場>か<学びの内容>か

言い換えると

<社会性>か<学力>か

ということが言えるように思います。

 

野口晃菜さんのアメリカのインクルーシブ教育視察から

引き続き検索結果を見ているとこんなツイートを見つけました。

上でも出ていた考えです。

 

この視察の報告から、モヤモヤがスッキリする考えの落ち着くところを見つけられました。

 

あくまで一教授の考えということですが、個人的にはバランスのとれた視点なように思います。

 

この「inclusion視察」のまとめがこちらです。

togetter.com

 

この中から、いくつかのツイートを抜粋します。

メリーランド大学の教授との話

メリーランドに着いてから買い物して明日聞きたいことをまとめた。明日一番聞きたいこと:インクルージョンとスタンダード・ベース改革(学力向上政策)は両立するのか?

 

特別教育は1975年以降、通常教育とは別枠で発展。「個々に応じた無償で適切な公教育」がよしとされてきたが、何をもって「個々に応じた」なのか、何を持って「適切」なのかについての議論はされてこなかった。

 

別枠で発展してきたものの、通常教育改革であるスタンダード・ベース改革が始まった際に、障害のある子も含んだ多様なニーズある子ども達がその改革に含まれないのはおかしい、とのことで教育改革の1つとして、障害のある子どもへもスタンダードの適用が必要であるとされた

 

そこで生まれた新しい概念が「通常教育カリキュラムへのアクセス」である。それまでは教育内容は「個々のニーズに応じた内容」が適切とされ、特に決まりはなく、目標・内容・方法・評価全てが「個々のニーズに応じた」IEPで決められていた。

 

つまり「通常教育カリキュラムへのアクセス」以前の従来の特別教育は「なんでも屋さん」だった。全て先生の裁量に任されていた。基準となるものが何もなかった

 

通常教育カリキュラムへのアクセスが義務付けられてからは、ベースは「個々」ではなく「通常教育カリキュラム」にあると明示され、そのカリキュラムに配慮を加える(アコモデーション)・変更する(モディフィケーション)ことにより、「個々」のニーズに応じるとされた。

 

でも私は通常教育カリキュラムを超モディフィケーションした場合(日本でいうところの自立活動を主にしている児童生徒の場合)それは通常教育カリキュラムへのアクセスって言えるの?って疑問を持っていたので、それを聞いてみた

 

そしたら、目から鱗な答えをいただいた。教科の「本質」を学ぶ機会を提供し、それを達成できていたら、それはカリキュラムアクセスだと。だから通常教育も特別教育もこれからは教科の「本質」について話さなければならない、と。

 

スタンダード・ベース改革の流れからの「通常教育カリキュラム」は教科ベースの教育を知的障害のある子どもにも行うこととしていて、私は「結局水増し教育になるのでは?」とかおもっていたのだけれど、「教科」ってのは、「教科の本質」ってことだった

 

そして、もう一つ大事な質問をした。インクルージョン(最少制約環境)とカリキュラムアクセス(スタンダードベースな教育)は両立するの?」

 

そしたら、「まずは子どもにとってのカリキュラムアクセスの方法は何が良いかを考える」そのあとにそのアクセス方法ができる「場」を選ぶと。

 

つまり「場」のインクルージョンの議論はやっぱりもう収束していて、子どもに通常教育カリキュラムへのアクセスをどのようにして提供するか、をまずは考える、とのこと。「インクルージョンは場の議論だけじゃない

 

先ほどの教科の本質の話に戻ると、現在アメリカではほとんどの州が「コモンコアスタンダード」なるものを導入している。何かというと、全国統一スタンダード。各教科の教育内容・到達目標が書かれている。これ⇒http://t.co/Bf0uKLs1

 

要は学習指導要領みたいなものが、導入されているってこと。違うことは到達目標まで明示されていて、それも試験まで統一されたものが導入されつつあるらしい。このコモンコアが教科の本質をついていると面白い

 

ここらへんがPISA型学力とかともまた通じてくる。要は、「学力」って言った時に、PISA型学力は「教科の本質」を問うているものだと私は解釈している。教科の本質をコアとすることにより、障害のある子どもない子どもも同じカリキュラムで学べるのでは?

 

そして、それは「多様性に耐えうるインクルーシブなカリキュラム」として評価できるのではないか?

 

ちなみに、「教科の本質」を重要視するのであれば、生活スキルはどうするの?と聞いてみたところ、「それは本来家で教えるもの」と言い切っていた。「学校は生活スキルを教える場所ではない。もちろん家庭をサポートはするけれど」と。

 

それに生活スキルは時代によって本当に変わる。小学校の時黒電話で電話の仕方を学んだ子が、高校になったらそれがまったく無駄になって、iPhoneになっていたりする。それは時間のロスだ」って。これも新しく得られた視点。

 

「教科の本質」を学ぶことがどうやって将来につながるの?って聞いてみたところ、それは「哲学的な問題よ」、と言われた。通常教育と特別教育両者が教科の本質は何かきちんと話して、その上で高い期待値を全てのお子さんに持つこと。そしてそれが価値のある活動と信じること。

 

だって私たちはこの子たちにとって一番良い教育がなにか、推定することしかできないじゃない」と言い切っていた。

 

個の課題と社会の課題が異なるように、個への「適切」な教育と社会としての「適切」な教育は異なるよね

そこも混同しているケースが多い気がする。「個々のニーズに応じた」は個への「適切」な教育であって、「スタンダードベース改革」は社会への「適切」な教育。

 

「適切」と鍵かっこ付きにしたのは、個に対して何が「適切」かは個によってもちろん異なるし、社会にとって何が「適切」かは社会によってもちろん異なるからなんです。なので国としての方向性を決める時に、「今はこれを適切としよう」って議論が大事だと思います。 

 

知的障害教育学者・藤島岳先生が「教育って哲学だよね」って言っていた。今日の先生も「哲学と科学と両方」って言っていた。ほんとうにそう。何が正しいか、わからないもの。生活スキルを教えたらいい、とか、教科を教えたらいい、とかわからないもん。

 

だから「信じること」が大切。「教科の本質」が将来にどうつながるの?って聞いた時に、「分からない。でも本質を教えることが将来につながること、それに価値があることを信じること」が少なくとも必要って言っていた

 

 □Bethesda小学校の視察から

視察した場の方たち、全員が「私たちにとってのインクルージョンは…」とそれぞれにとってのインクルージョンの形を話していた。つまり、そういうことなんだ。

 

話がそれたが、Betheda小学校でインクルージョン」と言った時に、それはお子さんによって異なるものであるが、どんな障害種・程度であっても最大限の場とカリキュラムへのアクセスが行われている

 

「特別教育は本来存在する必要なんてないのよ。子どもはみんな同じなんだから。ニーズだってみんな同じ。学び方が違うだけよ。教育に関わるものは全員そういう強い信念を持っていなければだめなのよ。」

 

48年もかかわっている人の強い、強いお言葉。「日本では何が課題なの?」と聞かれて、「『障害』のある人達にとって、何が『適切』な教育か模索しているの」と言ったら、「何が『適切』だと思う?適切なのは"life"よ。幸せで自由な生活と人生よ

 

「障害の勉強をする人は全員歴史を知らなきゃだめよ」歴史的な史資料(当時のコアカリキュラムとか!)も持っていて、全部コピーして送ってくれるって。

 □NPO学校 Cooke Academy Schoolの視察から 

このNPOの学校にとってのインクルージョン「誰もに居場所があること」を模索し続けること、通常の高校と同じ経験ができるようにすることで、地域でも自分の高校に誇りを持って話せること。

 

インクルージョンに「正しい」「間違っている」はないこと。それぞれの立場にいる人が「全ての子どもにとって『適切』な教育って何かしら」と考え、信念を持って行動すること。教授だろうが先生だろうが関係ない。そこに意味がある。

 

珠玉の言葉だらけですね。

・何をもって適切か

・教科の本質へのアクセス

・生活スキルは時代によって変わる

・私たちはこの子たちにとって一番良い教育がなにか、推定することしかできないじゃない

・それに価値があると信じること

・私たちにとってのインクルージョン

・学び方が違うだけ

・適切なのは"life"よ。幸せで自由な生活と人生よ

・「誰もに居場所があること」を模索し続けること

インクルージョンに「正しい」「間違っている」はない

・それぞれの立場にいる人が「全ての子どもにとって『適切』な教育って何かしら」と考え、信念を持って行動すること

 

勇気をもらえる言葉たちです。

2013年の視察についてなので、現在の実態と変わるところもあるかもしれません。しかし、ここに概ね考え方を整理するための言葉が溢れているように思います。

 

私は「<場>か<学びの内容>か」→「<社会性>か<学力>か」という風に捉えられると言いました。

日本では、「<場>と<社会性>」も優先順位が高いですし、「<学びの内容>と<学力>も」当然に求められます。

 

ここで大事になる観点が<合理的配慮>です。

<合理的配慮>についての

<「合理的配慮」の観点○1 教育内容・方法>

<○1-1 教育内容>

○1-1-2 学習内容の変更・調整(別表2)

 認知の特性、身体の動き等に応じて、具体の学習活動の内容や量評価の方法等を工夫する。障害の状態、発達の段階、年齢等を考慮しつつ、卒業後の生活や進路を見据えた学習内容を考慮するとともに、学習過程において人間関係を広げること自己選択・自己判断の機会を増やすこと等に留意する。

教育内容に関する合理的配慮の中で、学習内容の変更・調整がある。

この中から、要素を取り出すとすれば、「学習の内容や量」、「人間関係を広げること」、「自己選択・判断の機会」という3つの要素がある。

この3つについてその子の実態、卒業後の進路によって、それぞれをどうするか保護者とも話し合い合意を形成する必要がある。

私が思うのは、この3つが今の通常級の実態とも合わせてどの程度望めるかをきちんと話し合う重要性だ。当然、特別支援学級では、どれがどの程度得られそうかも話し合いの中で示す。

 (3)学校における「合理的配慮」の観点

○各学校の設置者及び学校が体制面、財政面をも勘案し、「均衡を失した」又は「過度の」負担について、個別に判断することとなる。その際は、「合理的配慮」を決定する際において、現在必要とされている「合理的配慮」は何か、何を優先して提供するかなどについて関係者間で共通理解を図る必要がある。

○「合理的配慮」は、一人一人の障害の状態や教育的ニーズ等に応じて決定されるものであり、すべてが同じように決定されるものではない。設置者及び学校が決定するに当たっては、本人及び保護者と、個別の教育支援計画を作成する中で、「合理的配慮」の観点を踏まえ、「合理的配慮」について可能な限り合意形成を図った上で決定し、提供されることが望ましい。例えば、設置者及び学校が、学校における保護者の待機を安易に求めるなど、保護者に過度の対応を求めることは適切ではない。

共生社会の形成に向けたインクルーシブ教育システム構築のための特別支援教育の推進(報告):文部科学省

「 <社会性>も<学力>も」一つの場で同時的に育まれる環境が提供されることが一番望ましいが、日本のシステムや価値観(通常級で育つよさ)の普及具合では、まだそう簡単ではないように思う。

そのため「 情報提供→合意形成」が図っていくしかない。としか言いようがない。

 

以上から、フルインクルーシブには「『場』と『学びの内容』の視点が必要」だと考えられる。これらの視点について合意形成をして、学び環境を整備することが子どもにとっての利益が一番高いと考えられる。

 

ところで、平成24年の障害者白書には、「<共生社会>という言葉を知っているか」の世論調査の結果が書かれている。

その結果は、

(1) 「共生社会」の周知度
共生社会」の周知度については、平成24年7月に内閣府が実施した「障害者に関する世論調査」(以下「24年7月調査」という。)の結果によれば、「共生社会」については、「知っている」が40.9%と前回(平成19年2月:40.2%)に比べ微増したものの同程度にとどまった。20歳代では、34.8%となっているが、前回(平成19年2月:26.7%)を大きく上回った。

20歳代で前回を大きく上回ったものの、「障害者基本計画(平成15年度~平成24年度)」の「重点施策実施5か年計画」に定めた「共生社会』の周知度を成人世代全体、若者(20歳代)とも50%以上」には至らなかった。

しかし、「言葉だけは聞いたことがある」24.2%を含めてではあるが、65.1%と7割近くの人が「知っている」と回答しており、19年2月に実施した同名の「障害者に関する世論調査」による同旨の質問に対する回答が61.4%であったことと比較すれば、用語の周知度も上昇している。

年代別でみると、30代及び70代の周知度が低く、これらの世代への啓発広報が重要と思われる。20代が前回に比べ増加しているのは、学校教育において「共生社会」という言葉に触れることが増えたことが考えられる。

第1編 第3章 2.主な調査結果の概要|平成25年版 障害者白書(全体版) - 内閣府より

(下線は「ハピペン」)

 引き続き、「共生社会」や「インクルーシブ」に関する価値観や考えが広まり深まっていくといいなと思います。

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