卒練と面談に追われている「ハピペン」です。追うってよりは、完全に追われていて、むしろ襲われている気すらする……。そんな最終局面。
卒業式は大きな行事ですね。大きな行事は、インクルーシブについて考える機会になりやすいです。
多方面との合意形成。その間に入る力が重要になる……。
「価値観の合う・合わない」を越えていくのが本当に難しい。
「誰のための・何のための」が統一されていないと、個人的な価値観の衝突で空中分解しかねない。
ここで「枠」の話が出てくる。
学校という「枠」
学校は組織であるっていうのは、最近になって考えられるようになってきた視点なのか、とてもじゃないけれどあまりそう感じない。
組織とは、
一定の共通目標を達成するために、成員間の役割や機能が分化・統合されている集団。また、それを組み立てること。
「共通目標を達成するために」これを忘れないでほしい。
命題:みんなと同じことが出来ない子は卒業式に出てはいけない
理由は、同じことが出来ないことに周囲の子どもたちが納得できないため。
学校の「大枠」がそれなら仕方ない。
「同じことができるようになること」が、学校教育目標、それを目指す組織。
しかし、学校教育目標で、そんなことは共通理解されていない。
それ以前に、国が掲げている教育は、そんな方向には行っていない。
「合意形成」と「できる限りの同じ場」を目指す。
子どもは、卒業式には参加したい。
できないことがあることは、保護者も合意済み。(同じであってほしいと、保護者の方が要求すればまた別の話だろう)
阻むのはどの「枠」か?
教師が支配する「枠」
教師が教師に一目置くことがある。なんのためかは謎。
すごい先生だから、そのクラスの子には、口が出しにくいなんてことがある。
(組織って話はどこに行ったのか?)
そういうモヤモヤを抱えるときってのは、要は、学校が組織として機能してないってことなんじゃないかと思う。
「共有されている価値観がない」ってことだ。
もちろん、その都度、現場レベルで合意形成してベストを探るっていうのは、やり方として有効なところもあるのかもしれない。
でも、基本姿勢がほしいって思うのはわがままなのだろうか。
場合によって「排除があり」の前提ってどうなんだろうか。できないことがあるから、能力が低いから、力が弱いから、笑われていいっていう前提ってありなんだろうか。
それなのに、「できる限りみんなと同じ場や内容」に参加しようとすることは、異常なことなんだろうか。
教師は「社会の代弁者」なんじゃないか、と思う。
「知・徳・体」で、「知」を身に付ける。「徳」として誰にでも平等に接する。
だから、身に付けられない者はダメ、平等だからお前もやれ。
この「知」と「徳」が社会で生きていくには必要だと……。
私は「社会」ってそっちの方向に行っていると思っていなかった。
たとえば、少数派の私は「何考えてんの?」ってことで異常ってことにさせられる。
これが「社会なんだ」って教えも必要なんだろうか。できなければ、必要とされないとい、居場所すらないっていうのが真実なんだろうか。
私は、時代は「枠」は、本当に大きな「大枠」は学校が持つとして、学校にいる成員の「枠」は「流動的でそこにいる人たちの間で生み出され変動していくもの」だと思う。
その「枠」を固定的なものと捉えて、一人の人間が生み出して支配している場合、そこには、排除思想が生まれる。
「枠」は「排除を生む」。