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それでも幸せな人はいるから

特別支援学級の担任をしていて感じたこと。幸せな子ども時代を過ごす子どもが一人でも多く増えるように

「何のためのインクルーシブか」の解

インクルーシブ教育 特別支援教育の視点 教師の在り方 子どもの見方 自分なりの視点

これからインクルーシブ教育を進めていく上で、「『なぜインクルーシブ教育をするのか』という問いにどう応えるか」という課題があると、全国障害学生支援センターの殿岡翼さんが言っていた。

 

みなさんは、なぜ共生社会を目指す必要があると思いますか?なぜインクルーシブ教育が必要だと思いますか? 

 

私は、これを聞いたとき「え?なんでだろう?」と思いました。単純に「やった方がいいことなんだからやればいいじゃん!」と思いました。

 

けれど、一般的にはそう簡単にはいかないものなのだな、と日々痛感しています。

そうですよね……。

「じゃなきゃそもそも差別なんてないからね!」

 

今回の話は

条件付きのインクルーシブは存在しない

学校が『勉強』も『インクルーシブ』も『よりよく生きるための価値観』を手に入れるという意味で同レベルの重要度で扱うべきだ」という話に収束していきます。

 

結局、差別解消法が成立する理由は「差別があるから」だよね。

本当は、そんな法律なくても差別ってない方がいいよね。だけど、つくるのは、法的根拠がないって言い返してきて差別する人がいるからだと思うんだ。

 

たとえば「インクルーシブ教育」は、「インクルーシブ教育」を推進していこうと考えなかった時代にとっては新しいものなのかもしれない。

「なぜインクルーシブしなければならないか?」という疑問にそもそも差別性があることに私たちは気づかなければいけない。気づけないほど当たり前のように私たちは差別をしている世の中を生きているってことだ。排除されている人がいて、排除をしている私たちなのに、それに自覚がないがために、それを改善しなくちゃいけないんですか?なんて問うているのだから。

 

「なぜインクルーシブしなければならないのか?」って、おい!

「なぜインクルーシブしなければならないのか?」

その背後には「なんで今までしなくても良かったことをわざわざしなきゃいけないの?」って言葉が隠れているように感じる。

理由の一つは「苦しんでいる人がいるから」としかいいようがない。

「なぜインクルーシブしなければならないのか?」と言える人は、その苦しんでいる人の存在が見えない。気づけない(気づこうとしないだけじゃないかと思う)。

そういう意味では、ここがインクルーシブの難しいところなのかもしれない。自ら手を汚さず、目もくれず抹殺できてしまうからだ。「だって、今まで私それで何も困らなかったよ?今までそうだったんだから、今までが正しくない?」って。

 

そういう人は、自分の中の価値観しか自分を生かす根拠がない人々ってことだ。ここに人間がよりよく簡単に生きやすくなるヒントがあることに、私たちは気づかなければならないと思う。自己責任論、個人主義の怖いところだと思う。

 

「インクルーシブ」をしなきゃいけないものだからするでは、ダメだろうか?そこで腑に落ちない感じがもっている感情や考えはなんだろうか。

 

合理的配慮を「ずるい」という子どもたち

その子が安心して参加するための配慮を、「ずるい」と言って責める子がいることがある。

声が小さい子がマイクを使う。集団のしゃべり声が嫌いな子がイヤマフを使う。

このアイテムの使用を「ずるい」と言う子がいる。

 

その「ずるい」という指摘は、存在否定に近い、ある条件を受け入れられないなら「いるな」ということだ。

アイテムを使わないでいられないんだったら、「ずるい」ってわけだ。

 

合理的配慮は、「保護者、教師、本人」で合意形成をして行われているだろう。「ずるい」という子もそれが相応しければ受けられるってことにしてくれればいいだけなのだけど……。

 

二つの面白い視点がある。

 

一つは、その合理的配慮を受けている子が仲の良い友達だったら、「ずるい」と言わない可能性だ。反対に、仲の良い子じゃなかったら「ずるい」と言う。

このパターンからは、もう差別しか感じない。そもそも内容に対して言っているのではないということだ。「対・内容」ではなく、内容はあくまで攻撃のためのネタでしかなく、「対・人」に「ずるい」と言っているってことだ。

だから、やっぱりそれは「存在否定だよな」って思う。なんでもいいから、陥れたいってだけじゃないか?

 

二つは、周りの子が「ずるい」って言いさえしなければ合理的配慮「してあげますよ」ってやつ。そこにあるのは、自己保身だろうと思う。自分が「ずるい」と喚く子どもに対処しなくていいなら、なんでもやれます、って。自分が大変じゃなきゃいいですよ、と。もし「ずるい」って子が出てきたら「納得させられる理由を考えてください」って。

 

で、この「条件付きの配慮」って「配慮なのか?」ってことが言いたい。

絶妙に絡み合う「なぜインクルーシブしなきゃいけないの?」と「条件付きの配慮」

「インクルーシブ・共生」を目指した「合理的配慮」は「子どもたちが納得できるか」などではなくすべきことだ。

必要なのは「インクルーシブすることでどんな得があるか」とか、「合理的配慮をしたらずるくてオレらは損だ」とかの話ではない。

配慮は「交流級にいるからなし」ではなくて、必要に応じて受けられるものだ。その当たり前さを指導していくことが必要なのだろう。

たぶん、この配慮への損得の感情が少しでもあると腑に落ちなさを生んでいるのだと思う。

 

「なぜインクルーシブするのか?」は、「勉強することに得があるか?」と同質の問いで、学校で勉強することの根拠に「法律」がかかわってくるところがあるように、「インクルーシブ」も「法律」で定まっているからと言えるような、それくらい当たり前のことでしかない。

しかし、それでは、「具体的な効果が、エビデンスが」と言われるかもしれない(たぶんそんなんばっかだ。あと、それで社会・学級が成り立つのか、とか)。

 

ってことは、問題は、「勉強をすることで幸せになることができている人がいる可能性がある」ように、「インクルーシブすることで幸せになることができている人がいる可能性があるか」っていう話になるかと思う。

それを覆すには、実例を増やすしかない。また、子どもたちが「インクルーシブする側になる価値」を選択したくなるにはどうするかを考えていくしかない(国が未来に必要だって求めているんだから)。

 

「インクルーシブの価値」

「インクルーシブの価値」と「勉強の価値」。二つに違いはあるのか?

どっちの方が必要ってあるのか?

私は「インクルーシブ」にある価値は、根源的には「共にいる喜び」だと思う。

そして「共に生きる喜び」は生きるってことそのものなんじゃないだろうかと思う。

「勉強」みたいにいつかの自分の生活費につながるかもしれないこと、自分の自己実現につながることの方が「より学びである」ってことはないだろう。

私は「自分がしたいことができたけど、自分以外の誰かが地球に生きている喜びは一切感じられない」という人間もありだ、とは思えない。


結局、「学校は『勉強』も『インクルーシブ』も「よりよく生きるための価値観(や視点)」を手に入れる場である」と捉えることができれば、「勉強」も「インクルーシブ」も重要さや無理強いしたくなるレベル、価値は等価である。


「インクルーシブ」が<ある>より、<ない>方がいいかというのを考えてもいいと思う。存在を認め合えないより、存在を認め合えた方が単純にいいに決まっているだろうけれども。

 

勉強の大切さは主観か?

「勉強の大切さ」と「インクルーシブの大切さ」どちらの方が世の中で多く語られているだろうか。どちらの方が耳にするだろうか、目にするだろうか。

私は、勉強だろうと思う。

もしそうだとすれば、勉強についての大切さはいろいろな人が説いているわけで、多くの人に勉強についての客観的な意見は入っているわけで、勉強を大切と思う一般論は少なくないと考えられる。

ここで、問題に気づく。「勉強は『客観的に大切』という価値観が存在できている」が「インクルーシブは『主観によって大切』かどうかを判断している」ということだ。

 

使い古されたフレーズ「学校は『勉強』するところ」。

これと同じように「学校は『インクルーシブ』するところ」って当たり前さがあってもいいってことだ。

 

だから、なんで「インクルーシブ」の価値を認められないのか

「インクルーシブの価値を認めない」、それって、差別なんじゃないだろうか。

もし、「合理的配慮」ができないとしたら「過度の負担」ってことが理由として挙げられる。

たとえば、「子どもたちの『ずるい』を治めることへの『負担』」があるかもしれない。

しかし「ずるい」という子どもも、治めることを「負担」と思う大人も、ここに登場する人々はもはやみんな「自分の感情しか優先していない」。

私たちの「枠」で負えなければ、あなたは「枠に入れられません」ってことだ。

ここに生まれるインクルーシブしてもらうっていう主従関係はなんなのか。

 

そもそも「その者のまま」で存在させなかったのは誰なのか?

声が出せないことによるマイクも、周囲のざわつきに対処するイヤマフも、「その子」にとって必要なのであって、僕たちは関係ないのだろうか。

「その子が勝手に困っているだけ」なんだろうか?

たとえば、「僕たちが変わらないことを選んでも、その子にいてもらうためにその子がみんなのためにしている配慮」とは言えないのか?

平等にするのは、アイテムの条件ではない。「そこで学びたい人がそこで学ぶ権利」だ。

彼らが権利を侵害することを回避るために、その子なりに配慮を手に入れていると言ってもいいかもしれない。

必要に応じて、特別支援学級で学ぶ必要はあると思う。実際見ていても、まだまだ全然それが必要な実態があると思う。そうした特別な場がなければ行動的にも発達的にも伸ばせないものがある。

ただ、それはイコール相応しくないからそっちへ行けって話ではない。本来どちらも居場所であって、その子の学びに応じて選択すべきなのだ。

「社会に参加したいに気持ちにさせるため」「社会に参加する力を身に付けるため」の両面から考えても両方の場がほしい。

 

「インクルーシブをする価値」というのが主観ではダメ

どの子も安心して学ぶためには、「インクルーシブ」がどこにもかしこにも前提であってほしい。「インクルーシブをする価値」というのが主観的な判断ではよくない。

したい人はするけど、したくない人はしなくてもいいってものでは困るし、そもそもそういうものではないのだから。

それなのに、子どもが「ずるい」って言ってしまうから、「過度の負担」ってことで「しなくてもいい」という選択肢ができる現実があることが、苦しいなと思う。

「勉強」については多くの人が携わるから、勉強ができないことによって苦しむことは回避しようという感情が強いけれども、「インクルーシブ」については多くの人が苦しむわけではないから、回避しないくていいという感情でも「まあ、いっか」ってことなんだろうか。

その「ある姿でなければ否定してもいい」っていう姿勢に、違和感はないのだろうか。

たとえば、私たちが目指さなければならないのは、「インクルーシブは『すべき』といった慣習であって、客観的に必要だと思えるようになること」だ。

 

インクルーシブの考え方 

まず、どうすれば「そこに存在することができるのか」これだけを問えばいい。

ほとんどは「『否定的な言葉』さえなければいられる」

そうして、できることを役割として与えればいい。

そして、「どうすればある姿で存在できるのか」は、その次の話だ。

その次にたとえば通常級でやっていること。みんながしている活動をするためには何が必要かを考える。当然これは、「みんなと同じ条件で同じことをすること」を目指すのではなく、「同じことをするには」「同じことをすることに近づくには」を目指そうとするくらいのものだ(保護者の願いが入ってくると、また別)。

 

「条件付きのインクルーシブ」は、「インクルーシブできている」とは言えない

「ある条件を出したとき」、それはすでに「その者のまま」を受け入れていないということになる。条件は、そのままでは、その場にあなたは相応しくないという宣言だ。

もちろん、言いたいことは「なんでもかんでも受け入れろ」ってことじゃない。

支援を要する子だって、「みんなが作りたいものに合わせて頑張るよ」。でも、それはイコール「みんなには支援を要する子も含まれるんだから、みんなも支援を要する子に合わせてよ」ってことだ。

みんなが条件を出すように、こっちも条件を出すだけ。

そこに主従関係はない。

伝えるという活動を受け入れるから、みんなに聞こえるためにマイクを使わせてください。

うるさいのを受け入れるから、みんなといるためにイヤマフを使わせてください。ってだけの話だ。

それを、「ずるい」から、「マイクを使うと嫌な気分になって教室にいられないから使うな」とかってインクルーシブされる側に「インクルーシブしろ!」って求められると、もうね、なんて返そうか迷うね。

 

たとえば、そっちが抱く「ずるさ」とこっちが抱く「ずるさ」は同じだよね?

見方を変えれば、

マイクを使わなくて発表できることの方が「ずるい」。

「その能力をよこせ!」って話だ。

イヤマフを使わなくてもざわついた教室にいられることの方が「ずるい」。

「その耳をよこせ!」って話だ。

でも、それってできないよね?それだけの話で、だから、道具を使うってことじゃないのかな。

見えてくるのは、益々ただ違いを責めたいだけ、普通でないことを悪いって言いたいだけじゃないか、って感じがしてくる。「オレらに対するずるさは解決しようがないから無理、でも、お前のは取り外せるよね?だからダメ」みたいな。

だから、その個人主義と自己責任論はなんなのだろうか。

(その根本原因は、「知らないから」ってことなだけなんだと思うけどね。上の方の「仲が良ければ言わないんだから」、その子が重要な他者だったら、そんなこと言わないんだから。共に生きていてほしい。共にいてほしい。ってなるんだからね。一人の命から二人分の命になるにはどうするのか、ってね。)

人間がそこに「いること」の価値を高める

さあ、どんな価値観を育てようか?

 

必要な視点は、

集団を値として育つ。一人より二人、二人より三人、多数よりみんなとして育つこと」

個人を値として育つ。昨日より今日、さっきより今、現在より未来として育つこと」

そうして「お互いが『いること』」に価値を感じられるようにしていく。

「共に生きる喜び」を尊いと思えるようになっていけるといい。

「Aさんがいない方がいいとは思えない」。『つながり』から誰にも愛着を感じられるといい。人は愛のある生命は否定できない。

 

そして、それこそが「勉強」と同じに「インクルーシブ」がもたらすいわゆる客観的な尺度であえて言うならば「得」なのではないだろうか?(これをいらないって言えるんだったらもうどうしようもないなあ……。)

 

インクルーシブする側が、みんなに条件を合わせることを条件として提示することが、普通にあると思う。

これまでの価値観がそうだったから、障害者が健常者に近づくことが求められていたから、それを正論みたいに普遍的価値みたいに美徳みたいに振りかざすけど、もうその価値観は古いんじゃないの?ってことを、知るだけでいいから、とりあえず知ってほしい。

 

インクルーシブする側の「もっといいアイデアありますよ」は、いいと思う。めっちゃ嬉しい。

だけど「インクルーシブ?いいよ!でも、その代わりこうしてね」は、やっぱり違うかな、と。

 

それでね、こんな風なインクルーシブについての課題に出会えるのは、私の価値観と違う人がいるからこそで。

inclusive.hatenablog.jp

 

私はその人を包摂できているのか正直分からない。でも、出来る範囲で議論していくしかないところだとは思う。

 

P.S

・「学力」みたいに「インクルーシブ力」っていうのが示されるようになってくるのかもね。道徳的価値、人間性って感じがするけど。

・「インクルーシブ観」も、洗練されてより普及してくるのだろうな、と思う。たとえば、「包含集合のインクルーシブする側が、インクルーシブされようとしないこと」とか「部分集合のインクルーシブされる側が、インクルーシブすることはできないこと」が一般的な考えになってほしい。

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