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フルインクルーシブが担保できないもの

夜中に急に壁掛けの時計が落ちて割れた「ハピペン」です。この先に起こる何かの身代わりになって私を守ってくれたらしい。先輩が言うには……。

フルインクルーシブが担保できないもの

フルインクルーシブが担保できないものは、「その子に合った個別の学び」だと思います。

10の学級に一人ずつ特別支援学級の子どもがいて、それぞれ通常級の中で学んでいるとする。教科によって周りのみんなと同じことをしたり、時にはその子にあった学びをしたりする。

みんなと同じことをするためには、大人のサポートを必要とする子は少なくない。

みんなの中にいながらその子にあった学びを提供するには、学級内に複数の大人が必要だと考えられる。

また、集団の独特の環境が苦手で集中しにくい子もいる。

やはり、その子が最大限に伸びるための、その子に合った配慮がされた場は必要で、その場での「個別の学び」は必要だと言える。

現行の特別支援学級の教育課程

現行の特別支援学級の教育は、弾力的で柔軟な運用ができます。

子どもの発達・成長に必要な力であれば、その力を付ける活動を取り入れることができます(とても大雑把な表現ですが、「総則」を基にした捉え)。

一人ひとりに合った「ピンポイントフィッティング」を提供することが可能なのです(それだけ彼らはピンキリで多様な価値観を受け入れるシステムでないと運用が難しいってことなのだろう、と捉えています)。

それは、自己実現と社会参画のため。自己実現と社会参画のための力について「どんなことをすることによって、どんな力がつくのか」が問われる。

 

この問いに適うために、個別の学びか、集団の学びか、どちらがよりその子が10年後に生きる社会の実態に合うかというのが必要な視点。

 

文科省が「インクルーシブ教育システム」として示していることをまとめると以下のようになる。

子どもの実態に応じて学びの場を変える

可能な限り「共に学ぶ」ことの追究

連続性のある「多様な学びの場」の活用

『インクルーシブ教育ってどんな教育?』P9

文科省の示す「インクルーシブ教育システム」には、このダブルスタンダードがある。

(このシステム自体は現実的だと思う。)

 

それは、将来の自己実現と社会参画に必要な力が、個別で学ぶべき力もあれば、集団で学ぶべき力もあるからだ。

 

特別支援教育の在り方に関する特別委員会」でもよく話されていたのだけれども、やはり、「視覚障害」の児童生徒は「視覚障害者」として社会で生きていくための独自に蓄積された学びがある、ということだった。

 

このニュアンスを、特別支援学級の子にもあてはめると、フルインクルーシブの時間だけでいいのか?というのは自然に出てくる問いです。

「原則を通常学級」に

だから、言ってしまえば、よく言われる請求は「原則を通常学級」ということだったりする。これは、サラマンカ声明にある言葉を基に言われていることだと思う。

しかし、条約でも法律でもそれは明示されているとは言い難いため、難しい請求と言える。

よって「フルインクルーシブは必要ない」とは言ってない

実際的に学校がすべきことは、「個別の学び」も「集団の学び」も、両方担保してあげることで、自由に(当たり前だが、そのときの児童生徒の気分で好き勝手にではなく、身に付けたい力によって)選択ができるということだ。

「個別の学び」“だけ”でも、「集団の学び」“だけ”でもいけない。

 

フルインクルーシブが可能な風土は、特別支援学級の子にも通常級の子にも居心地の良い居場所なはずである。

特別支援学級の児童生徒がいない方が居心地が良いという捉えがあるとしたら、その集団はフィクションである(現代の実社会もフィクションを生きているところがあるのかもしれない)。

将来の社会は、ダイバーシティで、多様性を受け入れられる集団で過ごす経験は必ず役に立つと考えられる。

 

しかし、通常級が、学級崩壊、違いを認められない風土、特別支援学級児への差別・いじめがあると、集団の学びに参加することは難しく、「自由に選択できる環境」は担保しにくい。

 

「個別も集団も選択できる状況」を担保できることを目指すのが当面すべきことだと思う。

ただ、集団の中で個別の学びを担保できる可能性もある。子どもの実態によるけれども、「授業のUD」や「クラスワイド」な支援などの考えはその一部。

だから、必要な考えは「どこを目指すか?」であって、そこを目指すためなら方法はいくらでもあるのだと思う。

結論として自ずと出てくるだろうと思うのは、通常級の子にとっても、特別支援学級の子にとっても必要なのは、「フルインクルーシブできる学級」を目指すってことだ(以外と当たり前に言葉化できていなかった表現が見つかってちょっと嬉しい)。

「前提」と「責任」と「きょうどう」

そのために必要なことは、先日言った「インクルーシブは当たり前のこと」というような「前提」を手に入れることだろうって話。

inclusive.hatenablog.jp

 

それと、学級担任が「自分のクラスの責任」は「自分だけにある」という勘違いをして、「他のクラスに無責任にならないこと」だと思う。(自分のクラスは自分だけのせいじゃないって無責任になっていいってことでもない。ただ、学校のどの子どもにも現実的な範囲で責任を感じていいってことが言いたい。責任を感じられる範囲は学校規模で全然違うだろうから。その責任の分散はプロとしての仕事の在り方としてありかと言うのも考えなきゃいけないかもしれない。)

この責任の分断が、結局「子どもの成長を奪っているかもしれない」ということを忘れないことが大切だと思う。

 

どの先生がどの学級の子どもとも気兼ねなくかかわれるような、学校の風土があるといいな、って。

「私のクラスは私のものです」て責任感で学級を管理している学級ほど、多様性を受け入れにくくなると思う。

たとえば、担任以外の注意が(担任の注意も?)入らないクラスがあるとする。そのクラスが注意を受け入れていないのは、他人を受け入れていないのは、子どもなの?担任なの?って話しだ。

担任の注意だけ聞けるクラスがある場合もある。子どもたちは、「その先生の価値観」しか受け入れられなくて、イレギュラーに耐性がなくなっていく。それは、飛躍して捉えれば「自分で考える」ってことができないってことだと思う。(担任の価値観の幅が広く、自分で考える力がないわけじゃないけれど、担任以外の昔ながらの価値観や指導言にピンと来なくなるってことはあるかもしれない)

管理された中では、その管理からついはみ出てしまう本能的な振る舞いと、その管理にされた環境に寄った依存的な振る舞いしかできない子がそうやって生まれるんじゃないか、って思う。

 

だから、まず先生同士が多様性を認め合うってことが必要になる。(よく言われることだけれども。)

先生たちが先生たちを「支援」し合う風土ができれば、本当は子どもたちが生きやすいんじゃないか、って思う(十分助け合っているって人たちも少なくはないだろうけど、それが誰にでもどこにでも起こらないってことは、なぜ?って)。

競争から共同・協同・協働へってだけの話かな。

 

インクルーシブ教育ってどんな教育? (インクルーシブ発想の教育シリーズ)

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