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それでも幸せな人はいるから

特別支援学級の担任をしていて感じたこと。幸せな子ども時代を過ごす子どもが一人でも多く増えるように

卒業式が終わって

自分なりの視点

幸せな感じがする!「ハピペン」です。

前を向いてると感じる

まず、単純に浮かぶ感想が「前を向いてる」と感じるなあというもの。

別れを惜しみすぎず、別れたいってわけでもなく。

「もう大丈夫」って感じを受けた。

そう、もう大丈夫なんだと思う。

問題は、そこじゃないから、ってことなのかもしれない。

じゃあどこって?

安心が一つ増えた

卒業式を見て、安心が一つ増えた気がした。

「乗り越えられる力、巣立つ力、自分の足で立つ力」のようなものを感じた。

だから、卒業できるんだろ!その力が育ってなかったら、お前の仕事はなんなんだよ!と言われそうだが、姿を見て、力があるなあと感じて、安心できるのは、実際には今日がはじめて。

理想は、「自分のためにみんなを殺しすぎず、みんなのために自分を殺し過ぎず」だと思う。

けれども、「自分のためにみんなを殺し、みんなのために自分を殺さない」が起こっている中で、よくお互いがお互いを受け入れて、認め合って、存在を「あり」として、巣立っていったなあと思う。

強制や恣意がない中、全員が自由にダンスを踊りながら舞台に上がって舞台から降りていったようなイメージ。

オレらは決して手を取り合わないけど、確かにみんなでそこにいた、みたいな。

1年間、一度も見られなかった姿を今日の放課後に見た。

それこそ、ずっと言っていたような、「みんな」って姿かもしれない。

3Fから窓の外を見ると、これまで、責められ続けた子と周りの子たちが4人で放課後わざわざ学校に来て遊んでいる。しゃがんで話をしている。(卒業したんじゃないのかい!?っていう卒業式の日あるある)

階段を駆け下りて職員室でみんなに伝えた。

私自身は、学校生活の中で「許容」されることを望んで行動していたと思う。

けれど、そこには許容できない理由が存在していたのだろう。

そこじゃないからの正体である。

ピアプレッシャーっていうやつなのかもしれないし、集団の自尊心が低いなど。

学校が嫌いなんじゃない。学校の活動・学習内容が嫌いなんじゃない。

ある集団・枠組み・雰囲気・空気が苦手で嫌いで自分を黒くするだけ。

それが社会でその社会がその社会に乗れない人を排除していて、その社会に乗れない人を障害者って言いますってなら、そう。

(じゃあ、そんなしょうもない社会をつくっている人たちは、なんなの?って思うけど。いいから、障害者を増やすのをやめようか。)

まあ、要は、舞台のルールが複雑化してしまったということかもしれない。

舞台に上がるのも下りるのも難しくなっていったわけだ。

「芽は育っている可能性」と「根が張っている可能性」

6年間の中で育てる力の真髄は、6年間の学校生活で良い姿を見せられることではないだろう。

過酷な舞台で育つことも、一つ必要なのかもしれない。ただ、それは結果オーライだから思えることだし、一部に許容されていればいいってわけじゃない。(それじゃ過酷な舞台の範囲が変わっただけだ)

ただ、少なからず、卒業後に生きる力や伸びるための力は蓄えられているってことだ。

人間を許容する力の芽が出ていたり、学校生活では発揮できなかったけれど根が伸びていていつでも咲く準備はできていた、と。

圧力の中を生きる力

私たちは、見えない圧力に負けていただけで、圧力さえなければ、ってことなんだ。

その中では、圧力を生きる力はできただろう。言い換えると、イツメンを見つけて、やり過ごす力っていうような気がする。

問題は、過酷な舞台、圧力の中では、そのルールに従えなかったものが犠牲になる。

いじめ、不登校、学級崩壊などの形でそれは現れる。

放課後に見られたような姿を、学校生活の中でも出せることを目指すのは悪いことじゃないんじゃないかって思う。

だからこその飛躍

ただ、どの子どもも今回はその圧力の中を生き残ったと言えるかもしれない。

このまま不登校とか引きこもりって可能性だってなくはないわけだったけれど、育っていた芽と根に救われた。

圧力の中の辛さを知っている子どもたちは、もしかしたら、この先の人間関係で優しくできることが増えるかもしれない。

あんな辛い目に、もう誰も合わせたくない。そう考えられる可能性もある。

私はあなたを受け入れるよ」こんな子どもたちに育っている可能性があるのだ。

※ただし、同級生が見ていないところでなら、ね。

みんな「いじめ」を人質に取られた

からかい、けり、パンチ、無視、菌扱い、いろいろな内容がいじめアンケートでは挙がる。

それが一番怖かったのだと思う。それで当たり前の正しさも空気を優先して選べなかった。

その空気をつくった正体はなんなんだろうか。

原因はもうとっくに見えなくなってしまったけど。

もしかすると、本当はシンプルだったのかもしれない。複雑化したルールにはダメなこと、良いこと、イライラすること、不安なことが積み重なりすぎてもう誰も処方箋を出せなかった。

教育の奥深さを知る

着地点の着眼点は一人ひとり違うと思う。

卒業後のその姿を狙っていたとしたら、大したものである。

それで、付く力もあるのだからなんとも言えない。

ただ、そういうのは人それぞれのプライオリティなんだろうか。(あと学校目標ね)

ただ一言、言えるのは、教育は討つって言っていいのかってことだ。

賭けで、不登校やいじめや学級崩壊があって乗り越えて良い姿が出ればよしってことはあり得るんだろうか。

それが修復できなかったらどうだろうか、と。

「オレだって本当はやりたくなかった」

「もっと優しくした方がいいって思ってた」

そんなこと言っても「いじめられた記憶」「不登校」「不安感」は消えない。

やっぱり、学校生活内で心地よい集団が経験できた方がいいかな。

反動の変数はとりあえず置いておこう。

「許容」されている様は、本当に心が躍った。

そんな卒業式の日。

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