今日、数年前に受け持っていた子がドッチボールをする姿を見て「成長したなあ」って思った「ハピペン」です。
「今すぐ死ね!」
「学校を壊せ!」
「お前は頭がおかしい!」
と毎日言っていた子も、年月を経て通常級で過ごすようになり、友だちとドッチボールができるようになったようです。
入学して2ヶ月くらい経った6月、励まし続ける私の言葉にその気になり、その子は小学校で始めてドッジボールに参加しました。
「よし、いけいけー!」な私。
初参加の彼は見事、数秒後に顔面でボールを受けた。
「おっ!そう!それが社会生活だ!」と呑気な私と激高する子ども。
「ふざけるな!お前のせいだろうが!」
「いや、最終的に参加を決めたのは自分でしょうよ!まあ、分かるよ、大丈夫?」
「なんでなってないお前が分かるんだ!死ね!」
「いや、顔に当たって驚いたんでしょ?」
「そうだよ!首が取れたらどうするんだ!」
「(えっ……?)そ、そうだね!」
「死ぬかと思ったんだぞ!」
「(いやいやいや……)もしかして、顔にボール当たったの今日がはじめて?」
「そうだよ!当たり前だろうが!」
「(当たり前かは、知らんわ……!)あー、そりゃ、驚くよね、そうだよね……。こ、怖かったね!でも大丈夫だよ、首ついてるよ。実は人間は子ども同士のボールが当たったくらいなら首は取れないんだよ!」
「うるせー!」
と言いつつ、ちょっと安心した様子。
「(マジで首が取れると思ったんだろうなあ……。ほら、やっぱりビバ社会生活なんだよ!)」
思えば、彼のドッジボール人生は、あの時はじまったのだなあ、と振り返る。
よくあの時「生まれてはじめて」って直感したなあ、と自画自賛。
共感を飛ばした受容と図星を突くことでパニックを収める力を強制的に鍛えられていった年……。
そんな子も、今では、わざと前に出て挑発してらあ。
「ドッジボールをしてボールが顔に当たらなければ、子どもが投げたボールが顔に当たっても首が取れないということは分からない。」
当たり前のことが分からなくとも、イライラせず、それを楽しむ余裕は大事。
それが、その子を許容するってことのヒントだと思う。
お前の考えいていいよ、って。
受け取れるよ、大丈夫だよ、って。
まあ、慰めてやるからこっちこい、って。
そういう二人三脚だったなあ。