脳の最適化がしたい「ハピペン」です。ブログを見てくださっている方は分かるでしょうが、頭の疲れが全体的に取れない。スッキリしない……。ブログを書くことで多少のモヤモヤは解消されているけれども。
今日は、講演会に行ってきました。
最前線の悩みと現場の悩みはだいぶ一致してきているのだろう、という印象。
その間にある何かによって、ひん曲がることはあるみたいですが……。
国レベルのフロントランナー的な明日の見えなさ。
現場レベルの百者百様の実態に対するどんな力を付けるべきかの見えにくさ。
これらは、同じ根っこから生えているように思う。
表題の二つ。
「基礎学力の保障」
「コミュニケーション力の育成」
が大きな両輪。
この両輪のバランス。実態に合わせて何を剪定し、何を育むかが問われる。
「どちらを"より"重視すればよい」という絶対解はない。
実態に合わせて未来に必要だと考えられる「身に付けさせたい力」があるだけ。
そしてこの「身に付けさせたい力」は、教師の観点によって変動してしまうところに、これからの時代の変化を想定した教育のややこしさがある。
「未来にとって何がいいか?」は、前例のない未来を生きていくことになるため想像するしかない。
その想像の「質の良し悪し」は、教師のイメージする未来に必要な「価値観」でしかない。
研究の発表も「質的データ」が主になる(別に悪いって話ではない)。
どのような質的変容を(見えない内的な変容も)、「イイネ!」って思うのかが、「実践内容の良し悪し」になるってことかな、って思う。
その「イイネ!」って「質」の「価値観」を、個人→学級→学年→ブロック→学校→地域のレベルで、共有していくことが望ましいとされる(チーム学校的な)。
これは、下手すると「我こそは正しい」となっていく。(「これだけは気をつけろ」と何度も言っていた。)
「基礎学力」と「コミュニケーション」について、どちらを重視するか挙手をしても会場では2:3だった。そこにいる人によって価値は変わるのだと感じる(やはり「絶対解」はない。)
この先「価値観の多様化」から一歩進んで「価値観の多様性を認める」が日本中の流行の言葉になってほしい。(これも全く反対に流行らないでほしいって人がいるのもたぶん事実。)
そんな中で、私たちは「どんな根拠」があるから「どんな価値観」でいき、それは「何のためなのか」、しっくり来るものを探して未来に備えるしかないってのが一つのアンサー。
大きな枠組みが、アンサーを一歩進めるヒントをくれる。
概ね予測できるところが「大ーーーきな枠組」ではある。
たとえば、AI、IoT、ロボティクスなどは発展する。そして、2100年が来る。「そのときに必要な力」をイメージをすること。
人間は、未知、イレギュラー、変数に遭遇した時、どんな力で応じるのか。
先人・先哲、読書、歴史から学ぶことが強く求められる。
これだけ不安を煽られ、それを越える希望や期待を生み出すために、産業革命時代の教育は、本格的に次の新しい時代の教育へと歩み出した。
「誰が正しいか」を訴えている場合ではなく、「誰もを生かす」を形にできたらいいな、って。
さあ、どうする……。