それでも幸せな人はいるから

特別支援学級の担任をしていて感じたこと。幸せな子ども時代を過ごす子どもが一人でも多く増えるように

「他人を幸せにできる人間だけが自分を幸せにできる」

これは3/31の話です。

何気なさ担当の「ハピペン」です。もう言えないって分かったとき、あの日「おかえり」を言ってあげれば良かった。その何気ないことが、繰り返せなくなるかもしれない、ってところに美しさがあるだろうな、とか思ってます。

 

学童で最初に大切にしたのはそれだった。当たり前に安心して「ただいま」が言えること。おいしいものを「おいしい」って言えること。学童は第二の家庭。だから、自分がきょうだいから呼ばれる呼び方で子どもにも呼んでもらった。

その最高級、さりげなさ、儚さ。

家族はずっと家族だが、職場は変わりゆく。

(実際「第二の家庭」は広告で嘘だと後で気づいてしまったが。)

 

家庭的な(?)、チームワークが良い(?)、清い泉のような(?)職場からもいよいよ旅立つ。

 

お昼には、保護者と子どもが来た。「もしかしたらまだいるかもと思って」だって。親に泣かれる。

 

夕方。「ハピペン」が帰るときは放送で呼んでくださいって人もいた。

(でも、風邪で休んでたから、片付けが終わらん……。)

 

そんでもって「よーし!もう帰る!」

 

そして、集まる。握手する。泣かれる。

わーっとなって外に出る。雨。

(「あれ?オレ上履きじゃね?」)

 

「すみません!オレ上履きじゃないっすか!?」

職員室は泣き笑う。

 

オレは、これまで、みんなが泣いてくれるほど何をしたんだろう……。

 

そういえば、子どもは基本的に泣かない。ちょっとは淋しそうだけど。大人が泣くよなあ……。

 

子どもが泣かない感じは「ずうっとずっと大好きだよ」に近いかもしれない。

もう確かにお互いの中にいるから、そう向き合って来たから。

これは、ひどい妄想なんだけど「自分なんか大丈夫だから、次に行って」って感じ。

「もっと誰か救って」とか「どんな人間も生きていい」とかって他でやってきて、みたいな。

 

子どもは「はりきりすぎないでがんばって」って書いてくる。まあ、かわいいかな。

その辺、やっぱり、オレを見てた証拠だなとも思う。だから、別れられる。

 

大人が泣くのはどうしてだろう。

何人かに言われたのは、やっぱり「もっと見てほしかった」「うちの子も見てほしかった」「本当に感謝している」など。期待とか、不安とか、願いとか、もっと必要だったのかもしれない。

もっと一緒笑いたい、過ごしていたい、感じていたい。いわゆるロス。

今回、単なる、いなくなる淋しさを越える何かを感じて不思議な気持ちになった。

 

やっぱり「いた」んだ。何気なく「いた」。もうそれが当たり前に「いた」。生活の一部。存在の一部分。その「いる」とか「いない」とかは、足りているか、足りていないか、そのイメージの差。

毎日等身大でいた子どもたちは、本気だったから、「いて」当たり前にしなかった、いなくなるのも分かるのかもしれない。どの子も自分たちより、私やこれから私に出会う誰かを思っていた。って言うのはいいすぎかもしれないけれども、ちょっと出来過ぎかそんな子どもじゃ……。

(ただ、刹那を生きているだけの可能性もある)

 

今、ちょっとした食事も終わって一人でココアを飲んでる。叫びたくなるほどじゃないけど、有り難いことだなあ、と感じる。

特別何かがドーッと湧き上がってくるわけじゃないんだけど、純粋な事実として、今自分は幸せな状態なんだろうな、っていうのを感じる。

そして、この幸せは、自分の欲求を満たせたから、というよりは「他人を幸せにできていたから感じざるを得ないもの」みたいな幸せ。

 

露骨に「いてよかった」ってことが分かる。いるってことは、これまでの毎日となーんにも変わらないのに。

その「いてよさ」の当たり前さが一つの幸せなんだろう。

 

これは言葉遊びに近いだろうけど、

他人に幸せを与えられるってことは、幸せをもっていたということ。与えた側に幸せがあったということだ。

それに気づけるのは、誰かに幸せを与えたとき。与えたときはじめて自分に幸せがあったって気づく。

そして、その幸せをもっていた自分は、幸せを与える前と与えた後で何か違うか。

おそらく、違わない。

自分にはずっと幸せがあった。それは、与える前も、与えた後も、今も、ある。

誰かに幸せを与えられたとき。それが明らかになる。「自分は幸せだなあ」って。

誰かに幸せを与えられたとき、自分は心から純粋な幸せを感じられる。

 

そうして、オレは、自分っていう何気ない存在を「ありだよ」ってことにできる。

 

あなたに幸せを感じさせられたから、オレも幸せを感じられる。そう一緒に生きた。

「じゃあ、またね。幸せたち。また、会おう!」

そうして、またそれぞれ、別の誰かに幸せを与えていく旅が始まる。

 

今日見た涙たち。

最後にそういう涙を受け取った日。

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