「もうちょっと」から「よいしょっと」じゃ前後関係感じなくない?と思っている「ハピペン」です。でも、字数の韻が良かったから採用。
引き続き「エピソード記述」について。こちらの本から『エピソード記述入門―実践と質的研究のために』書いていく。
取り上げたいエピソードの抽出
第3章の第2節では、実際の鯨岡先生のゼミの人のエピソード記述の具体を例に、エピソード記述の構成について踏み込んでいっています。
「図」にしたい部分がどこなのか(中略)一つのエピソードとして長すぎる感じが否めません。
(P179)
やっぱり、物事を伝えたいときに、「長すぎ」はダメなんですねー。ダメなんですね……。ダメなんです。「うん。私はダメな子……。」
気を取り直す、オレ!!
〈背景〉の部分も、診察室を克明に描写する必要があるわけではなく、あるとすれば、「雑然さを少し残したこの狭い空間がなぜかほっとするような場でもある」というところが浮き立つように描けば、細部は省略してもよいはずです。
(P179)
なるほど。「主観が大事!」って思いました。
事象に密着したメタ観察にはなりきれていませんでした。
(P179)
「〇〇は良い」といった主張をするためにエピソードを刈り取るのではなく、「事象が内包する意味は何か」を見ようとすることが大切ってことです。
「実況中継」 の感じが残っています。自分がどこにもっとも感じ入ったのか、どこを取り上げたいのかがまだ全体の中から浮き立ってきません。
(P182)
やっぱり「主観」が大切。それも「自分が」という生半可じゃない強い「自覚」が必要になる。なぜ、そこが浮かんで「図」となって、思い出されるのか、考えたくなるのか、その「意味」をピュアに問う必要がある。
また、「何が正しいか」の証明のための記述というよりは、自分を通した「真の事実」を見取るような印象を受けます。
「主観」を取っ払ったものは、現象としては事実なのだけれども、現象だけの事実は存在しなくて、そこには「自分が100%関与している」わけです。
現象としての事実ではなく「私が感じるあるがままの事実」という客観性が「エピソード記述」の醍醐味なのだと思います。
取り上げたエピソードをどう見るか
ここでは、エピソードが浮かび上がった後、それをどう見つめるかを一つ考えてみます。
従来の研究との接続はもちろん大事な研究の作業なのですが、その枠組みに引きずられると、事象の意味が一面的にしか見えなくなります。(中略)それ以外に他の見方はないのかと問い続けること、これがエピソード記述の方法論にとって大事な視点である(後略)
(P201)
小文字のtheoryから大文字のTheoryに接続することについて書かれていると思いました。しかし、それに引きずられて、自分がそのエピソードに注目しようとした価値や動機のような「主体」がなくなってしまっては、本末転倒ということでしょう。
そうしたエラーやつまずきをなくすための方法論に「リアリスティックアプローチ」があるのだと思います。
「自分の立ち位置」が定まらないとエピソードが書けない?
第3章の第5節も面白いです。『自分の立ち位置が定まらないからエピソードが書けない』ということについて、書かれています。
これは、「ハピペン」が一番気になっているところです。自分の価値観や自分が何者であろうとしているかが(随時更新されるものだとして、その基準となるような価値観が)見えきっていないために、戸惑い迷い頭の中がこんがらがるのだろう、と*1。
ここの『教師を貫く様々な価値観』の項が秀逸。
(前略)相手を主体として受け止めながら共にそこにいる、共にその場を生きるという面と、それだけでなく、その日の生活の流れや課題をこなしていく上で「させる」「求める」という構えをもってしまう面との二面が常にあって、しかもこの二面が「あちらを立てればこちらが立たず」の関係にある(後略) 。
(P202)
その通りだと思います。ちなみに「ハピペン」はどちらかというと、前者寄り。
「共にそこにいる、共にその場を生きる」こういうの好きです。だから、本居宣長の教育観や性善説に「いいね!」って思いがある。
「その時代その子どもに必要なことは、その時代を生きる子どもたちが一番よく分かっている」という考えで答えに近づくことも少なくない。「分からなかったら子どもに聞く」ってやつで。まあその話は置いておいて……。
少し長い引用になりますが
中でも教育の仕事は、目標を立て、その目標の実現に向かって努力する(教師が努力する、子どもに努力させる)という大きな枠組みがあり、一人の教師はこの枠組みからはずれることはまずできません。他方で教師は、「子どものありのままを受け止め」、子どもと共にそこにある(being with)ことを求められます。
しかも、その大きな教育の枠組みの内部には、やり方に関してあれこれの立場があります。また、後者の「共にそこにある」ことに関しても、どのように「共にそこにある」のかに関してあれこれの立場があります。
その複雑な渦の中に巻き込まれ、その中で自分なりの動きをしたくてもできない面と、それでも自分が一個の主体として働きたい部分とがあって、それも自分の内部でせめぎあいます。
おそらく、そのような実践環境があるからこそ、多くの教師はマニュアルを求め、自分のすべきことを外側から決めてもらうことを求める動きを強めているのでしょう(たとえ自分の主体性を半ば犠牲にしても)。
ですから、善意の教師であっても、一つの職場の中ですっきりした気持ちで日々の教育実践に携わることができる人は、ほとんどいないといってもよい残念な状況にあるのだと思います。
(P202~203)
ここに書かれている内容は、まさしく自分のことを言われていると思いました。私は新卒で学校現場に入ったわけではないので、外部からの人間として少しでも早く学校の風潮に慣れたいという思いを強く持って学校で過ごしました。
しかし、学校現場へ入ろうと思った理由の中には「何かがなってないから子どもたちは不幸にになっている」という動機もありました。
私は、学校を尊重しつつ、自分の考えを殺しきることもしたくないという、まさに「内部のせめぎあい」がありました。
そして、立場が決まらず、実践を重ね子どもの姿を明確に伝えようとしても、自分の言葉と借り物の言葉が入り混じって、複雑な表現*2になってしまっていたのだろうな、と考えました。
どう改善するかですが、「読み手を意識してエピソードを描こうと努める」という項目があります。
ほとんど独白に近い、自分の実践日記のような書き方になっていて、読み手に読んでもらうという姿勢がうかがわれないことに気づきます。エピソード記述としては、そこが一番問題だというべきかもしれません。
つまり、これだけは伝えたいというものが書き手に煮詰まっていない、こう書けば読み手はどう読むだろうかという読み手の視点がないことが、裏返せば、そこでの自分の立ち位置がはっきりしていないことに通じているのです。
これまでも繰り返し述べてきたように、当日の記録とエピソード記述は違います。
エピソード記述は、読み手に読んでもらおうとして、そのエピソードが生まれた日の記録を描き直すことで出来上がってくるものです。
描き直すには一つの視点が必要です。つまり、自分の実践を評価する視点、自分の関与を吟味する視点です。その視点をもつことが一つの立ち位置をもつことに繋がるといっているのです。
(P207~208)
「あ、はーい……。」って感じです。
改めて、反省が浮かびますが、ここに書かれている考えをもとに「リアリスティックアプローチ」を実践していってみようと思っています。
そのエピソードを「何につなげるのか?」
「何につなげるのか?」この問いが、エピソードを描く意味だと言えるかもしれません。そのエピソード記述は、ただの思い出日記ではなくて、そこから見えた「考え」を次なる実践に生かすために描かれるものだということです。
そのエピソードを描く意味が明確になっているならば、自然とエピソードは浮かび上がるし、読み手を意識した記述にもなってくるだろうということです。
人の生の断面を描いて、そこで現場の問題を一緒に考えていきましょうというごく素朴な姿勢があれば、そして現場での実践を気持ちよく進めていくことができていれば、エピソードは描けるものなのに、というのが私の率直な感想です。
(P208)
単純な言葉になるが、「寄り添って共に生き、その人の人生に参加すること」そこからエピソードは浮かんでくるってことでしょう。「『本気さ』のようなもの」、「その子の人生に責任をもつ意志」、「知らない人生を知るということ」。これらが、「次につながるエピソード」として、「客観的な主観」になり得るということです。
最後に
エピソード記述を一言で表すと、
そこで取り上げられる場面は、その人固有の目を通して捉えられたものでありながら、誰にとってもそのように捉えられるものであるかのように提示されている(後略)
(P253)
「主観と客観のバランス」が重要なことを忘れないように。
注意点として、
一見したところでは確かに事実の提示であるようにみえるものが、実はその人の一面的な見方にすぎないということは往々にしてあり得ます。(中略)しかも常に「再吟味」の姿勢、つまり「これでよいのか」を問う姿勢をもって臨む(後略)
(P253~254)
「エピソード記述に正解や終わりはない」ということを忘れずに。
そして、冒頭に書かれていることだが、
「エピソード記述」は「関与」と「観察」である。エピソード記述を通して、「出来事のあるがまま」に迫ること。「関与の質」に迫ることを意識して、実践を省察していく。