それでも幸せな人はいるから

特別支援学級の担任をしていて感じたこと。幸せな子ども時代を過ごす子どもが一人でも多く増えるように

慣れ親しんだ社会と動物の間で

人は休むと回復するのはどうしてだろう?と思った「ハピペン」です。エネルギーがなかったのに回復するってなんか矛盾してませんか?自分のハード面についても全然知らなくても生きられるDNAに感謝ってとこだろうか。

 

そんなことを思うのは、今日は動物園に遠足だったからかもしれない。

 

展示のプールを下から見上げる。窓の右上でずっとクルクル回っているオットセイ。

「何がしたいんだコイツは……。」と思った。

ただひたすらに回転している。

たぶん「遊び」なんだと思う。

 

本当は人も別に生産性なんて気にせず、気持ち良さや心地よさに身を委ねて「やりたいことをやっていいはず」。

そんなことを思った。

 

私たちは「世間の目」みたいなものがあるからしていない、本当はしたいことがあるのかもしれない。

回りたいとか回りたいのかもしれない。

確かに、動物園の反対に、動物たちだけが自分を見ていても、なんの「恥」とか「世間」とかは感じないだろう。

食い殺されない範囲で自由な挙動で生きると思う。

 

人は「生産物」が評価される喜びがあるから、社会に参加しているのだろうか。(純粋にその評価が得られないと食べていけないってのもあるだろうけど。)

でも、そうすると、なんとなく社会ってつまらなくないかなあ、って思う。

良い評価が得られなくても、自分らしく参加できる社会だったらどうだろう?リラックスできて、私はなんとなく笑顔が増えるような気がする。

 

モラトリアム期間って言われるような、時間に制限があるところが苦しさかもしれない。脳科学的に若い脳で支えなければならない社会があるから、現代の教育制度なのかもしれないけれど。(そんなことないか、社会人の学び、生涯学習って話も散々されているものね。)

もしくは、セカンドチャンスっていうような、挑戦への制限があるところが問題なのかもしれない?

もし時間があったら、生産的でない時間を認められていたら。私はもう少し、虫や魚や動物を見たのかもしれないって思ったんだ。

実際、プライオリティはいつ如何なる時も発生するから、それよりも楽しい「子ども」に時間がいってしまうだけなのかもしれないのだけどね。

モフモフな鳥や、等身大のペンギンの像にかなりトキめいた日。

 

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