かならず幸せになれるいきもの

おしゃべりによる出現する未来から学ぶ

「『他律』の『自律化』から自分を理解して律しながら、自分らしく自分の力を発揮して『自立』へ向かうこと」

もうすっかり暑いですねって感じな「ハピペン」です。6月って学級経営において結構肝心って言われますね。子どもたちも自分を出して来ているように感じます。より多く調子にのってみたり、いちいち先生を呼んでみたりが増えた気がする。その中に4月から細々と一生懸命やっているように感じる子もいたりして面白い。

私が、思うのは「いいから、まず自分たちで解決しようとしてみて」ってこと。話し合ってこじれたら来てよ、と。なんとかするから。何でも先生に来ないでってよく思います。私は警察官でも裁判官でもないので。危険は守るけどね。

注目されたさも、自分たちで満たし合ってほしいわ。メリハリ、ふざけと楽しいは違う、自律心使ってみな、我慢力、今は無理してごらん、とかよく言っています。

さて、流れに反して読んだ本で一番心に残った部分を記録して今日を終えようと思います。

この本『教育の原理とは何か〔改訂版〕: 日本の教育理念を問う』。ちょと意図した内容とは違ったのだけれど、目次で気になったところだけは読みたくて、読んでいます。

「人格の完成」ってところで何よ?みたいなことが、書かれていて楽しい。

今日一番気になったところは、

要は、人格の完成を目指す際に他律的な教育ではなく自律的な教育が必要であるとするならば、そのためにはまず教育者である教師の自律性が担保されねばならない。
そして次に生徒たちを自律へと至らしめる教育的方法を教師が理解しておかねば人格者を目指す自律的教育は他律による見かけ上の「よい子」を作るだけの誤った方向へ行ってしまうだろう。

P34(下線は「ハピペン」) 

 結局のところ向かう先は「自立」と「自律」だ。

「自立」は独り立ちのことで、発達段階に応じて自分の身の回りのことが自分でできる「自立」と自分で働いて食い扶持を得る「経済的自立」がある。

「自律」は「自己の生き方を考え、主体的な判断の下に行動する」ような意思にかかわるものだ。

日々の指導で忘れたくないな、と思うのは「『他律』の『自律化』から自分を理解して律しながら、自分らしく自分の力を発揮して『自立』へ向かうこと」だろう、と考える。

先日、指導において、大切にしていることを3つ挙げさせてもらった。

  1. 子どもを否定しないこと
  2. 分からなかったら子どもに聞くこと
  3. 子どもは気持ちの悪いことはしない

ただし「お願い、説得、交渉、相談」はあり。(交換条件はあまりよくない。)

私は、ここに「他律」の提示の仕方のヒントが隠れていると思うし、自律的教育へのヒントもあるように思う。

怒ると、怒られないために律するようになる。それは、避けたい。

心地よいから律するのである。そのためには、心地よさを感じているときに、言葉かけをするなどして、振り返る、気づかせる、メタ認知させることが有効だと考える。

私は、快晴の天気の良さに積極的に気付かせるようにしている。何気なさこそ至高で嗜好。下手すると笑った後もただ笑って終わりじゃなくて、少ししてから、わざわざ「さっきの面白かったね」と言うくらい。そうやって、恩に着せるわけじゃないけれど、生きる喜びを押し売りするわけじゃないけれど、「"ここ"にいること」を肯定的に捉えさせている。(コンプリメントを与えるってことに近いかな。言祝ぐってイメージもある。)

そうした日常の中で、「お願い、説得、交渉、相談」などによって経験した、教師が良いと感じているルールを子どもたちは体験して、「自分で自分から」と「自律」的に選択できるようになるといい。もちろん、その子が価値を感じられなければ、それは、選ばない権利もある。

ただ、学校は公で活動事に目的があるため、従ってもらうこともある。有無を言わさず経験することが優先されることもある。

それでも、なるべく、命令と否定なしでいける限りは行きたい。

今の子どもたちには、安心のある「快」を感じる集団経験の方が有用だと考えるからだ。不安や不満、抑圧は、承認欲求を満たす方へ動いてしまいがちだと思う。

本質的な自分でかかわるのではなく、周りから賞賛を得られる自分を選んでしまうということだ。これは、思い切り「他律」的な自分になってしまっていると言っていいだろう。

自分で最高の自分を選べるように、その選べる自分を信じられるように。

失敗したっていいんだからこそ、自分の本筋で、自分を選んで、好き放題学校を楽しんでほしいのだ。周りに翻弄されて注目を得るための好き放題出来ていない自分じゃなくてね。

そうして、自分たちで自分たちを作れるんだって思ってほしい。自分たちの感じ方考え方で、最高は作れるってことを知ってほしい。

「なんだ、ただ誰の存在も否定しなきゃいいだけなんじゃん」って。

子どもたちには、否定されたことからはじまっているゲームから抜け出せるような、人とのかかわり方を身に付けさせたいわけだ。