天気がいい朝が嬉しい「ハピペン」です。昨日に続いて今日も気持ちいい。眠気も少し吹き飛ぶわ。
昨日読んだところの記録を今日も書いていく。
聞く力とさまざまな能力
行きに読んでいる本から。
- 人の話に興味を持ちつづける「集中力」が身につく
少しのガマンが大切で、興味を持ち続ける時間を延ばしていくこと。
これは他者への期待につながる。新しい知識の獲得にも。
そして、少しのガマンは「対話」をして解決する方へ。 - わがままではない、ホンモノの「自己主張」ができる。
人は話を聞くとき、聞いた話と自分の知識をチェックして照らし合わせる。
すると、自分の考えを修正したり、相手の話に納得できないから反論したりすることにつながる。
話を聞き取れると、自分の頭で考えて、自分の意見を言える。自分の考えを主張できる。
相手の話を聞かずに自分の言いたいことだけ主張するのは、単なるわがままであって、自己主張とは言えない。 - 新しい発見ができる
相手の話から刺激を受けて一種のひらめきが起き、自分の知識をより深めることができる。
無関心からの脱出にもつながるかもしれない。 - 反省して、視野が広げられる
人の話を聞き取ることができる子どもは、反省し、自己修正しては、自分の世界を広げていくことができる。
同じひと言でも、会話する相手との関係によって受け取り方はまったく違う。
ベースになる親子関係を安心できる関係にすること。 - 想像力・創造力を発揮できる
「なぜ、そうなるんだろう」「そのあとどうなるんだろう」という想像力を働かせたり、「どうしたらいいんだろう」「じゃあ、こうしよう」といった創造力を発揮させることができる。
「わからないことがわかる」。こうした体験を通して、子どもは本当の意味での勉強をし、学ぶことに喜びを見い出すことができます。 - 相手の気持ちを受け止め、くみとれるようになる
相手の人の気持ちや感情を捉えるという感情面を伸ばすことにもつながる。
話の内容だけでなく、そのとき相手に流れている気持ちまでいっしょに聞く必要があるのです。 - 生きる力に欠かせない「本当の学力」が育つ
道徳の時間の意見と現実との乖離。自分を俯瞰できていないこと。
行き過ぎた能力主義は、学力テストから知的障害をはずすという事件や、「学力テストの結果がいい子は優れた人間で、悪い子は劣った人間だ」という二極的な考えを生み出す土壌にもなる。
1の「期待」や「新しい知識の獲得」は、生きることの楽しさにつながるのではないだろうか。あとこれらは、「他者意識」と「リアリティ」につながっているように思う。
「ダメ」と叱らずにすむひと言
「ダメ」という禁止用語で子どもから考える力を奪うもとになっていることが多い。
「いけません、いけません」という育て方をしていると、子どもを無気力にする恐れもあります。
P57
これは、強く共感する。学校が社会に対する無気力を育てる場というよりは、自分も参加できる力を育む場。それこそ参画する力をつけられる場としたい。だから、その参画が、なるべく嫌悪感が混じって行われない方がいいと思う。"参画させらる"って状態は違和感ってことだ。「それじゃ社会で認めないぞ!!」ってよりは「それでいいの?」と問うだけの違いなのだけれど。
その「長々と真剣に対話する時間がない」というのが病というのは、あり得ると思うけれども。
それなりに自分で考えて、自分の考えを持つ力は、抑圧さえなければあると思うんだよね。そう「ちいさな哲学者たち」を見て思ったんだなあ。
「小さい子ができるから、お前もできる、やれ」ってことではなくてね。
「ダメ」で育てた先に、それが結局また他者への「ダメ」につながって、悪循環を起こしている気もする。
アランの『幸福論』にあるように。客が悪い態度でウェイターに接した結果、そのウェイターは家で奥さんを殴るかもしれないのだ。
「対案」はあり
ただ禁止するだけではなく、代わりに「こうしたらどう?」という対案を出してあげることが大切です。
P59
大人は、正解を自分が持っていることにしながら、子どもと会話をすることって少なくないんじゃないか、と思う。
子どもからアイデアが出たなら。「じゃあ、とりあえずそれでやってみようか」というのが大切だと思う。
問題は、その後失敗しても声をかけないで、なんとなく過ごせてしまうことだと思うのだけれど、様子を見ながら、「で、どうだった?今の気分はいい?」と聞いてみると、「できたけど、いまいち」みたいな反応が来ることもある。そして、また「さらに、よくするアイデアありそう?」と聞く。「あとで考える」と言うこともあると思う。それもよし、で一度は託す。そんな風に、子どもの行動や時間の使い方を信じながら見守るのが好き。
正解があるくせに、正解を示さない。そして、大人がもっている正解に辿り着くことだけを「考える」にしているきらいがあると思う。「考える」とそのときのその子なりの最善だ。もちろんそのための情報をどう得るかも大切で、その情報意欲のようなものも育まないとってのはある。
説教から逃げたくて「わかった」と言っているだけ
たとえば、「わかった、わかった」という返事をしていても
子どもは、お母さんの説教から逃げたくて「わかった」と言っているだけなのです。
P61
これは、学校でもよくあると思う。うるさい先生のために黙っているだけ。聞かなければならないのは、うるさい先生の話だけではないってことが身に付かない。
うるさい存在がいれば、たとえば、
兄弟ゲンカが起きたとき、お母さんがケンカそのものを止めようとすると、子どもはお母さんのいうことを聞いている「フリ」をするだけの結果になります。
P63
ここに、家庭と学校にある構図を少し見た。
「フリ」=社会・学校 なのではないか、と思った。それに今は「家」も入ってくる。
それは、大人の多忙感から、インスタントに子どもに応じているからかもしれない。でも、それは昔からそうだったとも思う。なくなったのは「子どもの世界」ってことだ。
『街から消えた子どもの遊び』という本のあとがきがとても切ないのだけれど、写真が撮れなくなったといったようなことが書かれている。それは、規制とかではなくて、街で遊ぶ子どもがいなくなったからだ、と。
子どもは「本当」でいられる場所がなくなっていく。すると「家」では、生き延びるためにいい子でいなければならないから、学校で「フリ」を開放して「本当」をやろうとする。
ただその本当は「本当の本当」ではなくて、上辺の短絡的な『ファスト&スロー』でいう「ファスト」のような、刹那的な「快」を目指してしまうから、荒れにつながりもするだろう。
大切なのは「フリ」と「本当」をつなげてあげることで、自分に自覚的にいられて、「誰かを攻撃しなくても人生は楽しい」ってことに気づかせられるような、「安心」していられる場を提供するってことなんだと思う。
この辺は「クラス会議」にヒントがあるような気がする。
「本当は、あの時、『フリ』じゃなくて、自分が自分を否定しないで、『本当』でありたかった」って傷をどうケアするか、ってのがあると思う。それに対して「これが社会だ」と学校が切り刻むと、学校と子どもは衝突する。いじめが起こる場合もあれば、不登校につながる場合もある。
だから
本当の意味で聞いてもらうには、ケンカをしないためにはどうしたらいいのかを考えさせる方向に持っていくことです。ケンカという形での解決方法しか知らなければ、子どもはそれを使うしかないのです。
つまり、子どもが「わかった」と言ってから勝負は始まると考えた方がよさそうです。
P62 太線は「ハピペン」
この項はたくさん書いてしまった。思い入れが強いってことなんだろうなあ、たぶん。
これだけは知っておきたい道徳理論
帰りに読んでいる本から。
- 他者危害則
自由の濫用は、道徳的ではない。
「相手が嫌がることをしない」。
(個人的に1にこれがあるのがとてもいい。1は当たり前ってことで飛ばして2で指導しているとクラッシュ。) - 黄金律
「してもらいたいことをする」。
「されたら嫌なことはしない」。 - 普遍化原則
「みんながそれをすると心地よいか」。
みんながそれをしないと不快ならば道徳的ではない。 - 動機説と結果説
道徳的行為で大切なのは、動機か結果か。偽善は許されるか。
心も伴っていなければ、本当の善とは言えないのか。 - 自律と他律
誰かに言われてではないこと。自分の「快」のためでないこと。
なぜ「他者に親切にするのか」。
たとえば、「流されない人間づくり」。自律的な人間形成。
それは、どこまで可能なものなのか。問いがナイーブになっていくが……。
こういうのを考えるは嫌いじゃない。
そして、こうやって網羅的にまとめられているのも大好き。
トータルで浮かんだのは、子どもに心を持たせるにはどうするか。
心がない子どもなんてそりゃいないのだけれども。
心=脳ってことでも当然、誰にでも心はある。
ただ、「心ない」という表現があって、これは、要は、脳が発達して「他者意識」をもてるってことだと思う。
ただ、そのためには「快い他者とのかかわりの体験」や「快くない他者との関係を改善できる体験」が必要だと思う。
この他人が存在している世界をどうしたら信用できるか。
素晴らしさを教える教育。生きる喜びを教える教育につながる話だと思う。
本当はつながりたかった。道徳に無関心になってしまって、子どもたちは無気力化しちいないか、が問い。