かならず幸せになれるいきもの

おしゃべりによる出現する未来から学ぶ

「正しい行い方」と「ルール」をきちんと「ネタバレ」すること

プール清掃など、イレギュラーがある今日この頃の「ハピペン」です。仕方ないそういうサイクルもある。このイレギュラーのときのタスクをどうするかが、分からない。体調が思いっきり左右されちゃうなあ……。

 

行きに読んでいる本から。『アドラー博士が教える「話を聞ける子」が育つ魔法のひと言』より。

同じ過ちを繰り返さないこと

この姿勢大切ですね。先日の学びの会での話でも、単純化するとこのことだったなあと思う。

難しいのは、自分がどんな失敗をしていて、どんな改善を選んでいるかを俯瞰して記憶できているかだ。しかし、記憶には限界があるため、記録に頼ることになる。

記録を頼りに記憶も呼び覚ませるようにすること。

その工夫が、昨今は、ライフハックになっていたわけだ、と今更になって気づく。

 

さて、同じ過ちを繰り返さないこと。「失敗学」という言葉もあるくらいで、失敗ってホントに大事だ。『最新図解 失敗学』(こんなの超気になるなあ。)

けれども、みんな「武士」状態で、「恥」ぬように生きている。潔さ万歳状態。

転んだら、笑われる。(いや、そこは大丈夫だろって思う)

面白い失敗もある、失敗の笑いってある。だけど、自分で自分を疎んじたくなるほどの笑いはよくない。フォロー、大船に乗った気持ち。いろいろな、支えで、失敗を乗り越えられるとよい。

 

同じ過ちを繰り返さないための、単純な仕組みは、前回の「どうするか」に似ていて、「次からどうすればいいか」を考えることに尽きる。

そして、それを次の機会に、再現できるか、それを見守って気づかせて自分でできるようにしていくのが、大人の役割だと思う。

いかに失敗が悪いかを注意するのではなくて、次に失敗しないにはどうするかを指導する。至極当たり前のことが出来ていないことが多い。

出来ていたとしても、チャンスは一回なことも多い。これは本当に罪だなあって思う。

これも「当たり前のことだから」というのが働いていると思うのだけれど、そうすると、本当に子どもは生き辛いだろうなって思う。

「何回失敗したら気が済むの!?」(失敗させているのは誰かという話だ。指導ミスだろって……。)

 

反省させても効果はない!?

反省させると犯罪者になります (新潮新書)』こんな過激な本もある。

この本は、借りてパラパラ見させてもらったのだけれど、反省していかに相手に対して悪かったかを考えても、罪を犯してしまった側の罪を犯すに至った心の状態はケアされず、最終的に犯罪へ向かってしまう、または再犯してしまうといった話だった。

まず、自分の心と向き合わせること。その辛い心模様に向き合う大人が必要だといったことが書かれていた(すみません。確か。)

そして、この感覚はその通りだと思う。

よく反省させられるあの子

私はT2で、交流級に入ることが多いのだが、T2で入ると、俯瞰して教室を見れていることが多い。そうすると、一連の流れで、よく注意される子がどうして、注意されるようなことを起こすのかが、よく分かる。不可抗力で、刺激に踊らされて逸脱行動を起こしていることが多い。

  • 先にちょっかいを出されて、やり返すか。
  • 楽しそうだと思って参加してやりすぎるか。
  • 参加したものの、引き際を間違えるか。
  • 参加したものの、加減が違って嫌がられるか。

そうした子は、一人では問題を起こせないことに注意したい。誰かトリガーがいて、起こっている。まあ、人間関係の課題なんでしょって言われるとそこまでだが、全体を育てる目が必要ってことが言いたい。

最終的には「僕じゃなーーいーーー」って号泣しているシーンも見たことがある。

そうした見方の感覚については、これでもいいし、

通常学級のユニバーサルデザイン プランZero (授業のUD Books)

通常学級のユニバーサルデザイン プランZero (授業のUD Books)

 

これでもいいし、

 こういうのでもいい。

困った児童への言葉かけと指導

困った児童への言葉かけと指導

 

 話が少し逸れた。

 

反省じゃなくて「ネタバレ」へ

反省させ、謝らせてだと、次の日、また「いつも言ってるでしょ!」「何度言ったら分かるの!」と効果を挙げられないことがある。

この正体は単純に「正解を知らない」ってことだ。

子どもはとりあえず、あやまれば、お母さんが黙ってくれると思って、「ごめんさなさい」を繰り返しています。
(中略)
「ごめんなさい」と反省しているように見えますが、単なる習慣になってしまっています。それは、この場合もまた、子どもが過ちを正すためのいい方法を知らないからです。
P97

そして、その先、私たちは「もう教えました!」とか「前に言ったよね?だからいつもちゃんと聞いてなさいって言ってるでしょ!」とかにも気を付けたいです。

私たちの教え方、その入力は、その子にとってそんなに本当に「パーフェクトだったのか?」ってことです。

どこまでもどこまでも、その子の人生のために指導してあげたらいじゃないか、と思うのです。

私たちはどこか、「自分でダメさに気づいて、私たちが思う正解に辿り着くこと」を学びとしているところがあるように思うのです。ネタバレなしで、正しい振る舞いを導きだすことが素晴らしいみたいな。

でも、そしたら、もう教科書いらないなって。もはや「教える」っていらないなって思います。

教える。それもその子に合った教え方で教える。そこにある関係の中で最善と思われるベストの入力で教える。それで「(今のところのその環境での)正解を知る→次の機会に気づく→行動を選択し、自分を訂正できる」ことが学びなのではないか、と思います。

そういう意味では、学級の中で友達の良さを見つけまくって、その環境における正解を共有しまくった方がいいですね。悪いところさがしばかり起こりますから。

ケリー・マクゴニカルは、『スタンフォードの心理学講義 人生がうまくいくシンプルなルール』の中で、人の心は、一つの否定をケアするのに20の賞賛を要するといったことを言っています。

いつも名指しで注意されるあの子は、概算で帳尻が合ってなくないか、検討してあげてほしいです。

声のトーンに気を付けて

さらに、先へと進もう。実際、ここまで分かっている人も少なくはない。

今度は、その「ネタバレ」をどう伝えるかが、鍵だ。

昨日、言ったように「笑顔で言う」ことが望ましい。

注意したくなるような状況に直面したとき、やっぱりイライラはすることがある。

そのとき、その怒りをあらわにしたトーンで正しい振る舞いを言ってしまうと、効果は半減する。半減より減るかもしれない。

「イスに座ります!!」これを怒鳴って言うと、めちゃシュール。哲学的すら感じる。

怒って伝えている時点で、自分の気持ちを解消しようという動機が感じられる。

アドラーは怒りは道具だと言っている。人を従わせるために、あえて意識的に「怒る」ということを使っているということだ。

「人を従わせるために怒る」という回路はどうして出来てしまうのか、仕方がないことなように思うが、怒るべきことと、怒らずに子どもを導いた方がいいことを分けた方がいいと思っている。

子どもは、笑顔で優しく言っても聞くというのが、自分が実感していることだ。

(もちろんハイテンションで盛り上がってざわついている中で優しく言っても聞こえないだろう。聞こえなければ入力されたと言えない。どう入力するかが鍵だ。授業中にカッターを出したり、3Hにランドセルが机の上に乗っている子が4人いたり、全員が授業中に自由に話していたり、散らかり放題だったりするクラスで、板書4つで静かにきちんと座らせたのを見たことがある。入力の成功。脅しは一切ない。多少時間はかかったが、そこに「子どものため」という思いやりを私は見た。)

 

ルールは明示し、同意を得る

前に見ていた子でことあるごとに「先に言えよ!」と激高している子がいた。

修正液が手について「それ手につくと落ちにくいよ」と伝えたらズドーン!

どこまで、先に言っておけばいいのか、もはやエンターテイメント化していたくらいだ。(それを楽しめるようになったら、一人前かもしれない。)

ただ、なぜ、それで激高するのかと言えば、暗黙知が分かりにくいからだ。

子どもたちの中には暗黙知が分からない子はいくらでもいるだろう。

たとえば、男性の小便器が入口から入って手前から3つ並んでいて、一番手前を使っている人がいたら、次の人は、一番奥を使うべきだ、とか。(一つ離れられるところが空いているのに、隣に来るのは、「ん?」ってなるのが一般的なのだ。)

この暗黙知が分からずに後出しをされるってことは、世界は自分の知らないルールで動いていて、急に裁かれるという感覚に近いだろう。

ときには、それで怒られたり、嫌な目に合ったりするわけだ。激高して当然である。

「なんで先に言ってくれなかったんだ!」という絶望感はよく分かる。

それほど、この世界に対して不安だったってことだ。それでもこの子は生きる意欲のある子だった。楽しみたいタイプだった。だからこそ、いつどこでルールが来るか不安で仕方なかったのだ。幸せでいたかったから。(ちなみに今では、すっかり交流で友だち付き合いをして毎日をエンジョイしている。)

(長くなったが)なので、ルールは明示すると良い。

私は、暴力や友達に迷惑のかかるような逸脱行動に「タイムアウト」を使っていたのだが、それを個々に伝えていて、全体で共有してなかったことに、この本を読んでいて思い出して、早速、ルールを明示した。そして、子どもたちの同意も得た。

そのルールが破られたときには、感情的に何かを起こすのではなく、ただルールに則って、冷静にルールが適用されるだけだ。

今のところ、それで問題行動が消去できなかったことはない。学校で集団に適応するためには必要な視点だと思う。ここには、プライベートとパブリックのメリハリを持たせるという視点もある。「ここ学校だぜ?」を発動する、わがままだけをする場所ではないよ、と。

大切なポイントは、ルールを作ったら、断固として守ることである。

ルールを示してから、最低でも一か月程度は、例外を認めずに適用する必要がある。

だから、そんなに大変なルールにしない方が良い。活動が中断されない程度のペナルティーのがよいだろう。

私の場合は「教室の構造化されたスペースに10秒入る」だ。

 

あと

やる気にさせるには、「まだ~」より「もう~」を使う。
P108

というちょっとした言葉遣いも書かれていた。

「まだ終わらないの?」より「もう終わった?」の方が否定でないということだった。