語りたい人な「ハピペン」です。
前に学年会で言われてしまった一言。「ハピペンは語りたい人だからね」ってそういう枠組みあったんかーーー!スマートにって人もいるってことだよなー……そうだよなー……がーん。みたいな。
気を取り直して、今日はこの本を見て知ったことを思い出した。
多動傾向だったり、自閉傾向だったり、自分の興味に従って動いてしまう子がいる。それはそれで何も「悪い」ってことはない。人は自由だ。
ただ、社会生活を営む力も身に付けた方がいいよねってのが学校。その良さに誘い込むのが大人や級友など、かかわりのある人間のなせる技だ。
いろいろ大目に見ながら、学校生活に慣れていってもらうって段階が毎年ある。
しかし、こちらの予想を遥かに上回る動きを見せる子もいる。
3秒目を離したら、8駅先で見つかったって話を聞いたこともある。
それくらい神経を使う部分もある。
そんな中忘れちゃいけないのは、どんな特性があろうが、その前に「その年齢の子」ってことだ。
直感の域を出ないのだが、たまに、「いや、いまやっちゃえって思ったべ!!」ってときがある。
上で紹介した本には、そんなことが書かれている。
あくまで特性によって特定の行動をとってしまうこともあるが、子どもながらに「いいや、やっちゃえ」ってときもあるということなのだ。
ともすると、反対に「特性と捉えて」行動を改善しようと躍起になることもある。
実は、年相応として、単純に注意でいいときもある。ここの指導の判断がどうつくのか自分でも分からないのだけれど、子ども自身が「分かっていてなんとなくやっているとき」は、注意をすると照れ笑いでその場から離れるなんてことがある。「あちゃー失敗失敗」みたいな感じに。
なんでもかんでもその子らしいってことで「特性」っていうブラックボックスに入れてしまうのではなく、年齢的な部分もふまえて指導ができると、支援の視点が広がる。
たとえば、その子も年相応に誰かにいたずらをして、叱られたいってこともあるかもしれないってことだ。適切な支援による行動の改善ではなくて、適切な対応によって年相応の経験を積むというようなイメージだ。
そういった視点があることを知ると、反対に、「特性」だと考えることも際立つように思う。これは、年相応だから出たものなのか?と判断できるということだ。そうでないと考えられるならば、「支援」によって改善できる可能性があると考えられる。
それを、支援的な視点のない指導で改善を挑戦するとしたら、それは合わないことが少なくないだろう。
別に、いわゆる定型発達が基本って話ではなくて、反対に、定型発達に近づけることが支援だと思っている人が多いように思うからこう書いている。
その子が今から未来で生きやすくなるために、何が必要かをいつもいつも考えたい。