かならず幸せになれるいきもの

おしゃべりによる出現する未来から学ぶ

078|【何でも言える教室】自分は何者になりたいのか

寝起きの疲労感や、頭の重たさというのは軽減されつつある。

 

問題は、結局、日中の暑さかもしれない。体力勝負。あと一週間もつのだろうか……。

 

粘っていくしかない。尻を叩きつつ、漂いつつ。ゆらゆらとでも進む!

 

連休中は、できたこともあれば、できなかったこともあった。総じて連休ってのはそういうもんだろうけれど。

 

どうしようもない書類コレクションをスキャンすることができ、また、部屋の領地が広がったように思う。あとは、読書。自分にないものがTOSS的な教授であり、「教える」ってことの大切さをTOSS系の本で学んでいる。やはり、それくらい、公教育の授業はこちらが主導権を握って知識・技能を植え込んでいくしかないイメージだ。残念ながら。

 

どうにもこうにも、時数と準備時間がマッチしていないのだ。その「ゆとりのない中」で、中途半端な新学習指導要領的な実践を施すと、うまくない場合、学級は荒れる。とにかく、準備するのと見通しをもつための時間がいる。「通常業務」プラス「知識・技能を身につけさせるという課題」を乗り越えればいいのだとすれば、今は、しのごの言わずにTOSS系だと思う。ただ、そうしてお尻を叩いていくことで、「集団」ができてくるということを言っているのがTOSS系でもある。この先に、自分たちで活動できるような集団につないでいくことはできるかもしれない。

 

 

TOSSと同じくらいに、なぜ懸念されているのかが分からないものに「生活綴方」がある。自分の実際の生活を見つめて、自分がごととして社会を捉えて、思いや考えを綴っていく。そこにある学びを教師が見出し、拡散し学級の学びにつなげるということ。今どきと合っているように思うのだけれど。

 

私は「小学校の先生になろう」というのより先に、灰谷健次郎を知って、生活綴方をいいなあと思ったので、生活綴方に憧れがある。生活綴方と自分の人生の課題がリンクしているのではないか、ということに連休中に気がついた。

 

この本を読みはじめた。

 

「何でも言える教室」というワードが出てくる。「あ、結局、目指しているのはこれだ」と思った。でも、実際に出来上がってくるクラスはほど遠いように思う。それに、このご時世簡単ではないとも思う。

 

しかし、目指すのはそこでいいと思った。学級の仲間を信頼して、心を許せること、そうして学び合おうという態度をもつこと。できたら、楽しいだろうなと思う。おそらく、この先、目指すのはそことして、毎年、振り返って、自分の仕事を改善していくだろうと思う。

 

そして、これは、私が「何でも言える」ような、さらけ出せる感を抱かない限り実現しないだろうと思う。そのためには、安心やリラックスがいる。しかもそれは、技術的なものではなく、内的な精神的な、内側から滲むような安心やリラックスだ。

 

主に、自分の居場所を職員室と学級と家庭と分けて考えてみた。一番安心できるのはどこか。

 

職員室は、変数だなと思った。毎年とか何年かに一回とかのくじ引きであり、よい時もあれば、悪い時もあるだろう。なので、ここには、今のところ投資をしても仕方ないと思った。

 

家庭は、一番安心してリラックスしていたい場所だ。土日にはゆっくり家族と向き合えたら素敵だと思う。頭の片隅に仕事のことを置かずに、きちんと両手を空っぽにして、家族を見つめたい。しかし、そうはいかないことが多い。

 

それを握っているのが学級だろうと思う。ここが良ければもつだろうし、快適になり得る。そして、ここは、職員室よりも作用できる可能性が高い。担任だからである。任されているということは、管理者でもある部分があり、コントロールし得るところがあると思う。だから、ここが崩れないように、投資をすべきだと思った。そうなると、授業力や学級づくり、人間関係づくりに投資するといいのだと分かる。もちろん、だから、職員室はどうでもいいという意味ではない。

 

「何でも言える教室」づくりには、私の安心がいる。その安心が職員室由来の成分で作れることは望ましいが、変数である。ならば、自分が作用できるところから安心を捻出したい。自分に授業力や、教科や学年の一年の見通しがもてるようになれば、私はリラックスして、たとえば、そのゆとりを書く力を育てることに注ぎたい。そうすると、「何でも言える教室」が出来上がったり、「生活綴方」を意識した活動もできるのではないか、と目論み期待している。

077|地球との足並み

一旦休みだ。

 

今日は水曜だったけれど、惨敗ってよりは、無理矢理勝ちにいってしまった。最後はとても「わーわー」なったがよしとする。楽しくもあったはずだ。

 

「心情語」という括りで、教科書に言葉が紹介されている。それを、まとめて、例も付けて配った。「うれしい→うれしかったです」というようなもの。

 

「したこと→きもち→りゆう」を書けるようにしたいと目論んだ。例文を出して、どの気持ちかを選ばせてみた。それぞれちがって、みんなで音読すると、いろいろなイメージが浮かぶようで面白がっていた。気持ちに気がついて考えて書くことを面白いと思ってもらえるといいなあ。

 

あとは、ダンゴムシを飼い始めた。偶然育てているものがエサになるようなので、与えてみると、確かに食べているようで、子どもたちは面白がっていた。

 

着々と少しずつだけど、何かが動いていく。学級が積み上がっていく感じが今年はするなあ。

 

「新しい計算を知ることができる」ってことが喜びである。素晴らしい。「なんか算数楽しい!」と言ってくれる子がいる。理想的な教室のつぶやきだと思う。嬉しい。いろいろなことが重なって、その子とのつながりがあって、そういう言葉につながっているとも思う。

 

そうそう。いろいろなことが重なったり、つながったりしているのだ。昨日、ずっと話したいと思っていた人と話せたり、思いもしないことをフォローされる電話がかかってきたり、「ああ、いい、今。」的な、地球と足並みが揃ったような気分になる日っていうのは、時折あるものだ。毎日そうだったらいいのにな。気楽に生きられる。

 

地球はそう自分を悪いようにはしないと分かっていても、懸念はなくはないし、不安は尽きない。それでも、やっていく。

 

面白がらせるってなんだろう。とも思うけれど、面白がってくれている方がやっぱり嬉しい気がする。

 

また、いくつか本に手を出しているので、ますます学級の力を高めたい。そして、杉渕先生の本も読み返そうと思う。「テンポ」を強化したいのだ!

 

 

076|子ども心と夏の空

河合隼雄の本に、180度の変化というのは、それはそれで移ろいやすく、すぐに反転することもよくあるとあった。

 

この話が、私のぬか喜びを食い止める。称賛を素直に受け止められない要因である。好きならちょっと好きくらいが、長く続くための秘訣ということだ。

 

子どもたちにとって何がヒットして、「学校を好き」になるかは、分からない。

 

もちろん、一番は学ぶこと、自分が成長すること。もっと言えば周りと成長していくこと(そんなやつそうそういないな)。

 

ならば、友達がいるから。それでもいいや。それで、学校が好きなら、学校という制度も報われる。

 

他に先生が好きってのもある。悪手である。療育の先生に、サービスを提供するには来たくて来させなければならないけれど、どう来させる動機を持続させるのか、と聞いたことがある。結局、一番の強化子は、人だと言う。その担当に会いたいから来るというのが一番あるとのことだった。エンターテイナーでいること。私のできないこと。そして、集団には向かない選択肢だと2年目で身をもって知ったように思う。

 

そうなると、一つでも何でもいいから、学校という生活動線があるから、生きるってことが潤うような何かがあって、学校っていうものが少しでもマシであるといいなあ。給食があるとか、休み時間があるとか、体育があるとか、図工があるとか。基本的に子どもは知ってて、できれば好きなんだろうな。深くっていうのは、たくさん繰り返し行うってだけのことかもしれない。

 

そうして、縦横無尽な、十人十色な理由で、子どもたちは学校に来ていて、運が良ければ学校が好きということになる。この先ずっと私がいいとか言われもする。しかし、それは、いつか、思いっきり反転することでもあるのだろうなあと思う。それなら、給食が好きで学校に来てもらっている方が気楽だ。

 

今日もいい日だった。クラスのスローガンが決まりもした。

17:30ごろには退勤できた。おかげさまでよい。実によいと思う。

こころの処方箋(新潮文庫)

こころの処方箋(新潮文庫)

 

 

 

 

075|おそらく、ここは「選ぶ力」でいいっしょ、たぶん

子どもたちに経験をゲットさせることが大切だろうと思う。知れば、使える可能性がある。知らないことを生み出して使うのは難しいだろう。難しいに決まっているよな。

 

だから、恐らく、学校は「教えて選ばせる」の繰り返しになると思う。その選出の趣味嗜好が個性になる。

 

人のつながりは、そのループかもとも思う。

教わって、選んでいるだけ。豊富な、豊潤な、潤沢な、選択肢をもって、そこから、時と場合に合った適当な選択ができると良い。

 

そして、その選択肢や選択力を別の事象にもあてがうひらめきを育む。たぶん、そんくらいを目指すので、とりあえずはいいような気がする。それ以上の高度なことを仕掛けられない。考える頭がない(ような気がする)。

 

金曜日は、クライシスを感じたのだけれど、今日はそんなことはなかった。今までで一番いい月曜日だった。

 

これまで、支援や低学年で言ってきて当たりだったような指導を自分を信じて再放送すればいいのだ。それが、今回も良かったように思う。話を聴くためのお願いをした。

 

出会いのときからしていたお願いは

  • おへそを向ける
  • 手は空っぽ

である。

 

そして、新たにしたのが

  • 一人ずつ話すこと
  • 誰かが話しているときは待つこと

これをお願いした。

 

さらに「ステレオゲーム」を2問やって「同時は本当に聞かないのよ、失礼しちゃうのも悲しいから、一人ずつ話してね」と言った。

 

刺さった。良かった。

「月曜の始め」というのもよかったと思う。大変にいいところで、刺したなと思う。

 

おそらく低学年ほど、月曜には、それなりに生まれ変わって来ている。先週あったことなんて、なんのそのである。

 

総じて、言いたいのは、いつでも希望はあって、現状を打破ないし打開する選択肢はあるのではないか、ということだ。それを把握できていないときも当然ある。というか、その方が多いだろう。しかし、何かしらの懸念に対する、何かしらの対応策や対処法はある。眠っている。漂っている。浮遊している。と思う。だから、そんなに自分を責めずに、また、不安になりすぎずに、人々は明日を迎えていいのではないか、というようなことが言いたい。

 

074.5|週末の反省【アドラーと『指示は一回』より】

うまくいかないとすれば。

 

それは、何か「自分の作法によって」だ。

 

たとえば、それよりも「他の何か」に特に注目を与えているということ。

 

もしくは、初めに「そもそものその事柄についての指導」が出来ていない。

 

残念ながら自然に気がついてできるようになることなどというものは存在せず、常に立ち止まって教師は必要な指導を考えなければならない(当たり前)。

また、手放していくステップにどう入っていくかにも駆け引きがある。教師に指示されて動くのではなく、自分から動けるようになる必要がある。このご時世だと条件に「密にならないように」が加わり、手順が少し増えて厄介である。

 

そうだなあ。

その都度

  • 「どうして?」
  • 「どうするといい?」
  • 「どうしたらできそう?」
  • 「それでやってみる?」

というような、集団で解決をしていこうというような、よりよくなっていこうというような風土を作っていく必要がある。

一つの事柄ずつ消化していきたい。

 

そして、それは、特段調査の良い日に鍛えておく必要のあるもので、前頭葉疲れました状態の時には無謀である。

 

アドラー心理学の子育てより

「不適切な行動をする背景」には、4つがある。

  1. その行動が不適切であることを知らないとき

  2. その行動が不適切であることは知っているが、どうすれば適切な行動ができるのか知らないとき
  3. その行動が不適切な行動であることは知っており、適切な行動も知っているが、適切な行動をしても望む結果が得られないと信じているとき
  4. 不適切な行動で注目や関心を得ているとき

太字が大事。

 

そして、これらは、アドラー心理学の目標や信念に向かうために指導に生かす。

 

自立して生きていく

周りと調和して生きていく

 

私には能力がある

周りは私の仲間である

 

『指示は一回』より

  1. 話は一回しかしない
  2. 子どもの発言を繰り返さない
  3. 聞いていないと困るように仕向ける

 

1.はうまくいっているように思う。

2.は、学びの協同体のとはズレるけれど、環境が違うから諦めようかな。そして、「聞こえないこと」を子どもが対処できるようにする。これと、授業のテンポとの兼ね合いが心配になるけど。

3.は、ことあるごとに、こちらが言ったことを、子どもにも言わせてみることだな。気をつけてやってみよう。これで、多少聞くことへの意識が変わるはず。

 

 

 

あと、こちらの記事の「1/31の先生でしかいられない」という言葉には、それぞれの先生の哲学が詰まっていそうで、惹かれる表現だった。

軸足の話をもう少し - nao_takaの『縦横無尽』

074|惨敗だな

疲労感が大きい。

 

敗北感。

 

何かが悪かった。

 

恐らく、やっぱり「テンポ」が大事で、それって、金曜にどういくかって、もしかしたら結構繊細なことなのかもしれない。

 

いつも通りでいけてしまうこともあれば、いかれないこともあるということ。

 

この金曜に指導を入れていくのは、負の強化に思えてならなかった。

 

今日は、喪に服すような気分で(それは失礼か)、静かにしていた。

 

何か言いたくなるのを堪えながら、ケガのないように、と思って過ごした。それを達成できたからよしとしようかな。

 

子どもたちも本当に一週間頑張ったわけだ。えらかった。それをそれ以上に焚きつけることはできなかったなあ。

073|とはいえ、木曜は勝てる

だらだら書く。

 

当番に対する意欲の違いに驚く。

低学年は、当番を「やりたい!」のである。

 

意欲に驚くし、その意欲を削がないように、活動を考えて、差し込まないと、その灯が消えないかという不安がある。

 

とりあえず、文字を「読む・書く」ステージには乗り始めていると思う。大きく転げ落ちている子はいないと思われる。国語でも算数でもゆっくり遊んでいるしなあ。時数を気にしないとダメかな。

 

「1分音読」もはまっていた。

読めた子は「やった!」と喜んでいたなあ。

 

今使える国語で使える指導は

  • なぞる練習
  • 1分音読
  • しりとり

 

今度は作文に取り組みたいなあ。まず「しりとり」かもしれんが。頭に浮かべた文字を書く練習をたくさんさせたい。

 

自分のクラスは競争が好きみたいだな。低学年ってそういうものなのかもしれないけれど。

チームでの対抗戦も好きだ。つまり、何か「目的」がいるってことなのだろうな。そのゴールが見えれば楽しいわけだ。「何のために」という散々言われていることを大事にしないと、子どもたちは腰が重いわけだ。無意味な人生なんてまっぴらごめんという。今時な感じで、もう低学年のころから、自分探しは始まっているのかもしれない。カラオケも採点で競って視聴率が取れて、盛り上がる時代ということで。

 

ちょっとずつ、システムを見直して、また走り出そうという頃。滞っているところを見つけては、話し合いながら改善したらいいんだよなあ。

072|常勝はムリだから

「う〜ん」っていう日もそりゃあるよなあ。

 

自分が常勝できると思っていることの方がおかしいわ。

 

いや、単に満足いく準備ができなくて、満足いく子どもの姿を表出させられなかっただけかもしれない。

 

楽しい活動とか、面白い活動とかって難しいなあと思うわ。

 

時間がなかったなあ。ないない。なさすぎた。

あとは、疲れ。

余裕があれば、朝早く起きれたりとか、遅くまで残ってとかあり得るのだろうけれど。ムリでした。

 

諦めなければならない日もあるのかな。

しかも、一番の天敵「水曜日」だし。

 

しゃーない、しゃーない。

 

怪我なく、配布物や時間のミスなく、トラブルなく、落ち着いて安全に過ごせたことでよしとしよう。

 

隣のクラスを助けもしたしね。

 

仕事はしていたはず。

 

提案の文書を15分という高速で作りもした。

 

 

あーーー、別のタスクが残っている感があるが、それは、週末に処理しよう。そうすると、また、少し脳が軽くなるはずだ。付随してごちゃごちゃありすぎなんだよ。うおー。