かならず幸せになれるいきもの

おしゃべりによる出現する未来から学ぶ

130|「学校に行きたくない」ってなあ

「学校に行きたくない」という、教員キラーなワードが聞こえてくることがある。

 

「知るか!」って感じだけれど、そうは言ってもいられない、重たい言葉である。

 

処方箋としては、とにかく子どもの「ストレス」を下げることだと思う。

 

どうするといいだろうか。

 

要因は、どうあがいても、疾病か、関係性の悪化のどちらかだろう。

 

教師が応じられるのは、「関係性の悪化」である。

 

そのために必要なことを書いておく。

  1. 大人が休息すること
  2. 大きな声で責めずに肯定的な言い回しで注意する
  3. 不適切な側面に注目せず保留にしてみる(2週間程度)

 

とりあえず、クラス内の圧力を下げたい。

それにプラスして、授業の内容が分からない、できないが加わると大変苦しさが増してくる。

 

反対に、賢い子どもほど、学校にある利益がないことに気づいて拒否するということもあるかもしれない。どういうことかと言えば、たとえば、70%の子どもが学校が楽しい理由に「友だちがいること」と答えている調査を見たことがある。

 

その友だち関係がうまくいかなければ、残りは30%しかない。仮に半分以上の51%以上で学校になんとか来られると考えることにしてみる。

あと20%を何で補えるだろうか。給食?授業?先生との関係?制約?常識や世間体?

なんでもいいが、49%になれば子どもは来ない。心中のバケツをストレスが占めてしまえば、子どもは重い腰を上げられなくなってしまうのだ。慢性的にストレスの値が高いと毎朝の格闘が必要になる。単純に体調の悪さもストレスに加担することもある。

 

だから、なおのこと、季節の変わり目の今の時期は、「学校に行きたくない」が誘発されやすい。そういう意味では、休息することで復活に近づく可能性も高い。

 

反対に焦らすと、悪循環は一向に止まらないだろうと思う。

 

期待や願いが強すぎても、やはりそれはストレスになり、重い腰をさらに重くするわけだ。

 

繰り返しになるが、やはり「大人が休息していること」が重要になる。

 

「学校に行きたくない」と呟く子どもの周りにいる大人は何かに追われていないだろうか。

 

何にせよ、そうした子も大人も休息の大切さを学ぶ時期に舞い降りているだけなのかもしれない。今その時にある知恵の海を生きてみることもいいかもしれない。

 

カーネギーの「道は開ける」に休息の大切さが記されている。

激しい仕事そのものからの疲労は、たいていの場合、十分な睡眠や休息によって回復します……悩み、緊張、感情の混乱こそ疲労の三大原因です。

しばしば肉体的あるいは精神的労働に起因しているように思われる場合でも、それらが原因となっていることが少なくありません……筋肉が緊張すれば、筋肉が働いているということを忘れてはいけません。まず、くつろぐことです! 大切な責務のためにエネルギーを蓄積しましょう。

さあ、くつろがないと。

道は開ける 新装版

道は開ける 新装版

 

 

 

129|モチベータ

土曜に、青砥さんの本を読んでいた。

モチベーション、ストレス、クリエイティビティについて書かれている。

 

Amazonのレビューでは、薄い情報だ!みたいなことが書かれている。でも、脳というややこしいことの、初めて知る言葉だらけの複雑なことを優しい言葉で書いてくれている本だと思う。脳について、ビジネスに生かすぞ!というよりは、学んで自分を豊かにしていくというニュアンスを受ける本である。だから、ビジネスに生かしたい情報がほしい!となると、物足りないのかもしれない。

 

ただ、とりあえず、青砥さんの優しい書きっぷり、人となり、そういうタッチの文を読む癒しがある。

 

本を読んで影響されたのが、「モチベータ」を集めようかなっていうことだった。

目で見ても、耳で聞いても、気分が高揚するものを集めておいて、自分をやる気にさせることができたらいいなあと思った。

 

だから、まず、インスタの自分専用のアカウントを作って、写メベースで楽しかったこととか、こだわったこととか、好きな言葉とか集めていってみようかな、と思った。

 

スクロールするとハッピーになれるものができたら最高である。気を取り直したいときに、インスタのアプリを起動すればいいのである。果たして、機能するだろうか。

 

今日は、「非日常」について考えていた子が手紙をくれた。突如始まるラブコメモードである。この子とはつながることができて、私の願いが届いて、いつまでもつかは分からないけれど行動改善が見られている。

 

それが、長く続くといい。

良い自分は、自分で選ぶのだということを、繰り返していってくれたらいいなあ。

 

いろいろなことが進んだり進まなかったり、それでも、万能薬の時間だけはいつも進んで、彼らの未来を紡いでいくよう。どの子も、未来を切り拓いていってほしい。自分を楽しめる明日へ。

 

あとは、文脈VS.文脈が若干起こっているなあ。みんな自分のことを棚に上げてね。それが、唯一の禁じ手だろうにね。箱から出るのは、一体誰からなんだろうか。自分はそのための自分をやっているのかもなあ。

 

それと、耳障りのいい言葉が聞きたい気分になっていて、しかも、サクッと。

 

それで、また、本に手を出してしまっている。消費活動が……。でも、本ぐらいにしか使わないから、そんなにひどいことになっているわけでもないと思うんだけど、現実が直視できていないだろうか。

 

 

 

128|「やってないよ」

非日常についてのつづき。

 

「やってないよ」って。

その一言に、「ああ、やっぱり、なんて信頼できるのだろう、この子は」と思ってしまった。

 

とてもいい目をしているし(だからどうした)、物事をよく見極めている子だわ。大切にしたい子。初日からそう思ったなあ。それは、少し脆さを感じてだと思う。

 

いろいろと受け入れながら突き進むスタイルは、良くも悪くも「その個」を映し出すように思う。

 

 

朝。

金曜の出だしはごちゃついていたなあ。

ミルトンエリクソン然りで、煽ってみた。

「皆さんは静かにすることも、喋り続けることもできます。姿勢を良くすることも、姿勢を悪くすることもできます。自分のことは自分で選ぶことができるのです。金曜日だからって力を使わないこともできるし、金曜日だから最後と思って頑張ろうとすることもできます。」

 

そんなことを言って、1時間目に突入した。

国語の読みを楽しむ。

読み方を話し合ってから読むと、読み方はよくなるとのこと。そう認識できたならとりあえずOKかな。

 

朝や帰りの支度に課題のある子がいる。10月にその手立てを考える脳みそをなかなか使い難いと思ってしまうのだけれど。なんとかしてあげたいところ。

 

発達がゆるやかなのか、発達に凹凸があるのかで、見立てた手立てが変わってくるかと思うのだけれど、改めて学ぶしかないなあ。とりあえず、定石でスモールステップだろうか。そんなに張り付いてもいられないからなあ。いっそ、床置きか。

 

相手がうまくできないのは、スモールステップの教え方ができていないということです。そう、叱られるべきなのは、スモールステップをうまく指示できなかった、教える人のほうなのです。

 

いちばんやさしい教える技術

いちばんやさしい教える技術

 

より

以後気をつけます。

127|楽しい授業ってなんやねーん!

現実は「こうである」という主観的な「観念」と実際には例外のある「流動性」のある現実がある。という話を聞いた。

 

「べき」が邪魔である。

 

学校は、受け皿ができていようがいまいが、指導すべきことを投げる(本当はそれじゃならないのだろうけど)。そのシステムが、学習意欲を削いでいるように思った。理由は、放課後にその子のペースで教えるとやるからである。ただし、その援助を全体を進めていく中で施すことが、私にはできない。

 

そこで、『学び合い』って話に行ったりするのだろうな。もう、そういう理念で、そういう仕組みでってことでないと、効率的に限られた時数の中でCの子を拾えないんだなあ。横のつながりの承認が欲しい時代だと思うし、学級経営的にも、一石四鳥ぐらいある考え方なのだろうな。『学び合い』は。

 

ただ、だからといって、じゃあ『学び合い』でって邁進できる環境でもないので(コロナかつ自分の勉強不足)、まあ、策を練る。

 

本当は、閾値でないことを指導してゲンナリさせるよりは(私もゲンナリ)、その子に合った然るべき行程を踏んで楽しめた方が良いよなあ。閾値でないから、頭の中が追いつかず、追いつけず、楽しめないということがあるわけだ。

 

そんな、教育課程だから、育つものも半端にしか育たないような気がする。バラバラと一年間の中でいろいろな子の諸々が育ったり、育たなかったりするのだろうけど。

 

ねらって教育活動をするも、それはある程度の子にある程度までしか作用できないのだろうなあ。どうしたって、日常の中で、30数人の進度を掴んだ授業を、一人ではできませぬ。非日常でも無理かあ。

学校アンケートで「授業があまり楽しくない」がいくつかあって衝撃だった日。

 

楽しい授業ってなんやねーん!!

わかる・できるなんだろうけど!!

無理やねーん!!

 

せやろがい!!

126|水曜日だったけれど

特段、目につくこともなく終えたかな。子どもたちはよく頑張っているのだと思います。

 

問題といえば、教室に日に一回ほどハエが入ってくるということくらい。なんだろうなあ。なんでもないと思うのだけれど入ってきます。

 

漢字を丁寧に書いていたなあ。

外でもよく遊んだなあ。

 

昨日まで気にしていた、非日常との対峙もうまくいっていたみたいだ。今日も一緒に遊べたのでよかった。

乗り越えてくれているのではないだろうか。

 

優しくされていない人は優しくなれない。大切にされていない人は大切にできない。大人にも子どもにも、余裕がある。余裕がない対応はされた人は、その連鎖反応で、余裕のない対応の連鎖が起こる。ああ、きつい。最悪である。

 

起きていないことをあれこれと推測せず、愚直に向き合っていく。いちいち感情を揺らしてふりまわされないようにする。そういうのが大切だと思う。彼らの希望は、まだまだこの先成長するってことだ。心配しない。心配いらない。信じて、一つずつでも手を施して、「何か」を変えながらやっていく。

 

ブラーフの学術大会が始まっていた。今年はオンラインで動画を見て学べるということで、早速申し込まねば。

 

1ヶ月なら間は、ブリーフの学びに浸れる。きちんと浸かろう。楽しみ。

 

隣は、とても怒っている声がした。少し気になる。疲弊しているはずである。問題は、というか、大切なのは、私がいるからではなく、頭を使って考えて行動してもらうことだ。それは、「趣意説明」次第ってのもあるのかもしれないけれど、説明しつつ、考えさせつつで、やっていかないとな。うまくいかないことについては、諦めつつ、横に流しつつ、まあどこかで取り上げつつ。そうやって、ゆったりやっていけばいいのだろうなあ。

125|非日常を繰り出すも

非日常は、良かったっぽい。

 

単純な願いを語ることにする。

私は、あなたが周りから嫌な人って思われてほしくないなあ。学校大変だろうけどね、素敵な人だなって思われてほしいなあ。大変なこととかイライラは是非教えてよ。と言ってみた。

 

何かしらは伝わっていたと思う。

 

しかし、休み時間にうまくいかなかったというオチが待っていた。

 

なんてこったい。

 

どう図っても、うまくいかないこともある。

 

細心の注意を払っての仕掛けでないとならなかったのかな。

 

いや、そんなに揺れ動かす事態ではなかった。そう思いたい。

 

今日は、どうだろうな。

適切な側面に注目するっていうのに気をつけられたかな。それでやってみよう。長い目で見よう。1ヶ月後に云々と思ってみていこうと思った。

124|「ありのまま」との対峙

日常があって。

 

非日常がある。

 

誰もが、なんとなくやり過ごしている日常。

ふと、本音が顔を覗かせる非日常。

 

いつもと違うこと。

大抵は「悪いことが起こった時」が非日常になりがちである。

 

改まった指導。というようなもの。

 

そこでどう対峙するか。その仕方で日常への影響が変わる。

 

たとえば、それは、その子にとって日常であった。しかし、それを非日常にしてください。やめてくださいという指導。

 

日常はそう簡単に引っ込んで、非日常にすることが可能なのだろうか。

 

それをすれば非日常に引き込まれるよ、だから、日常にいたいなら、それをやめなさいってニュアンスだろうか。

 

この指導は日常に嫌気が差している場合は、入らない。

 

たとえば、その子に非日常的な日常が潜んでいるとする。その非日常の連鎖が起こっているのかもしれない。

 

それをやめても、出だしの非日常が変わらない場合。その子は、その非日常を何に還元するのだろう。

 

その子が思っていることを、「ありのまま」表現できたら変わるだろうか。表現できないから、違った形で非日常が連鎖を起こしているように思う。我慢しているから。それが、誰かに我慢を及ぼすような結果になる。

 

自業自得。自己責任。原発主義。不寛容。

それで、行為がなくなったとして、その子は「ありのまま」生きられるんだろうか。

 

もちろん、「ありのまま」が不適切なのだから、改めなければならない。ただし、その改させ方は、あまり力づくでない方がいいかなあ、と思う。

 

十分に好意を伝えてみよう。そして、願ってみよう。代わりに何かできないか聞いてみよう。その子が「ありのまま」でいて、過ごせるように、堪えて耐え忍ぶでなく、やりくりできるように。もし、そこで、その子が非日常にしてしまっている「ありのまま」にアクセスできたなら、非日常のその時のその行為をするその子は変わるな。

 

私の正直さが試される。素で、裸で向き合えるか。やってみよう。

 

 

 

123|低気圧という魔法のせいにして

なんとなく浮かないのは、皆同じだろうな。そういう中でよくやっていると思うのだ。子どもも、私も。

 

ただ、手が届かない。手が伸びない。分かっていても発揮できない。そういうもどかしい疲労なのか、手の足りなさなのか、何かできていないと感じる。

 

どうしたって手は二本しかないように。私の保持している時間が一人分しかないように。それをどうのこうのする手はないようだ。

 

そして、初めて通常級をやる時に思った「同じ時代を生きていく彼らで承認欲求を満たし合うしかないんだぜ」というのは、やはり忘れてはならない本筋なように思う。

 

本筋だから、横道にひたすら教師が全員にイイネを出すサイドメニューもあるとして。ただ、それをやらなきゃとなっても詰むと思える。そうなると、いかに、「見てるよ」をしつつ、イイネの横のつながりを彼らに託して満たすかってことなのだろうな、と思った。

 

マスクしてるし、クラス会議を入れてしまってもいいかもしれないな。やってみようか迷う(コロナ的にです)。

 

頑張りすぎなくていいということを聞いた日。違う目で見ると、また違う言葉が手に入る。その言葉は、誰かを救う。自分も自分が携わる誰かも。そうして、人はつながっている。