かならず幸せになれるいきもの

おしゃべりによる出現する未来から学ぶ

イマドキ

安心・安全な場づくりがしたいだけ!「ハピペン」です。

 

 一回きりの場での場作りに自信はないのだけど、毎日の場では、なんとか安心・安全を生み出したい。

 

イマドキのトレンドは「安心・安全」な気持ちで承認欲求が得られること

  • ちくり
  • カースト内では励まし合う
  • ある子については治外法権が働いている
  • カーストが低い子は何人かに注意される
  • 間違いを責める

という姿を見て考えた。

 

上の5つのことがどこから起こるかといえば、私は「言葉」だと思っている。

特に影響するのは、教師の言葉だ。

 

そして、「言葉」によってもたらされた不安が、その集団で独自のゲームをスタートさせる。

ゲーム名は集団によって違うが、たとえば、「私が安心・安全にするには失敗してはならない」や「この集団では良い人と悪い人がいる」というようなゲーム。

しかし、たとえば、人間として「失敗しないことは不可能だ」。体育なんかだとなおさら。

そのため、チームを作るようになる。それぞれの友だちが結びついていく。その中で、無意識の世論調査的に、「全体での指摘され数」のようなものを材料にカーストが仕上がる。カーストの上位は、全体で悪い指摘をされにくい人たち、それ以外が、全体で指摘され得る(されやすい)人たちに分かれる。

 

上位には、先生に指摘されにくいに加えて一目置かれやすい子が入る。

賢い、運動ができる、声が大きい、容姿がいいなど。

 

面白いのは、集団は「安心・安全」でいたいだけというところだ。

鬼軍曹がいない寮がさわがしいように、指針となる存在が「安心・安全」を奪っているかもしれない。また、そうした場合、鬼軍曹がいなくなると、ストレスをぶつけるために、いじめにもつながる。

 

それでも、上位の人たちは集団の中で同じルールの中にいる。自分たちは治外法権だと自覚しているわけではない。

そのため、不安な状態ではあり、承認を求める動きは休まらない。

そうなると、密告がはじまる。上として上を維持するため、責められない側でいるために、下のものがいかによくないかの情報を大衆やボスである教師に伝え、下のものを下でい続ける仕組みをつくろうとするのだ。

 

これらは、すべて、無意識で起こっている。

それだけ、安心・安全を求めるための機能はオートってことだし、それが発動するほど不安ってことだ。

 

「ここは、安心・安全でない誰かが責められうる場だ」

 

子どもがそう認識した瞬間、ゲームがはじまる。

 

その発端はやはり「言葉」だと思う。

 

意識にどうあがっていようが、「言葉」に人は引っ張られる。

 

士気を上げようが何しようが、気分が悪くなったり、不安になったり、怖いと思うような言葉のやりとりはしない方がいい。

 

回避するには「自分は今のままではダメだ」となんとなく思わせるような言葉を減らすこと。

 

何かを訴えるときも「選んでいい」という一言は付け足して、動いてもらうというような配慮。

 

「自由で、ただ、先生はこう思っていて、目的はこれだから、そこに向かってさえいればなんでもいい、もし、先生を信じることが可能で、一度気持ちよく試してくれるなら、やって」くらい言い回す(みんなそうかもだけど)。

 

さらに、イマドキは、内容よりも、全体で目立つこと自体がネガティブになっているから、その辺りを配慮することがポイント。

名指しで誉めるにも気を遣う。

 

目立つことは「は、何やってんの?」となる。

自分の安心を守りたいという不安から、仲間であっても、後ろから銃を打つ。

 

「お前らいいよ!ありのままで!オレがなんとかする!自分たちが同じ時代に生きていくことを忘れんな!せっかく同じ時間を共有できる貴重な一人ひとりをお前らは責める必要なんてない、そっち側は、そっち側だけは、助け合え!本当に貴重なんだ。バカを発見したって仕方ない、そう思うならなんとかしろ。それだけが、お前らの目指す方だ」みたいなことを叫びたい。

 

大人の価値観に乗っかって、有利になろうとしている上位をなんとかしたい「ハピペン」だ。

 

尾木ママの、学級委員は友だち側につくべきというのに似ている。友だちが先生のいないときにいかに悪いことをしていたかなんて告げる学級委員はなんか違うと。

 

いいんだ、どの人間も「今、ここ」に生きていて、と強く思う。

 

低を見ていて、子どもたちのコミュニティづくりに感心したのだけど、見事に人事異動があって、注意されにくい人たちは注意されにくい人たちで集まっていることに気がついた。

注意される恐れのある子は、その集団から追い出されるのだ。

そして、その理由は、やはり少しでも、自分を含んだ付近でネガティブな言語を与えられたくないからだ。

 

人は無意識だったとしても「安心・安全」が得られる方へと暗躍する。

 それが、自然なヒエラルキーを生む。

 

そして、何より苦しいのは、その評価基準のすべては教師だということだ。

 

どのガキ大将よりも、強い存在として、全体の前で誰かを指導することは考えた方がいい。

 

みんな、安心安全でいたいだけ。

自己選択と決定を大切にしたい。