私が外に出ると強くなる雨。家から出て最初の交差点で車ズーン、水ザバー。下半分ビショビショ。ハピペンです。
靴下もってくりゃよかった。
長ぐつでくりゃよかった。
もう笑うしかない。
まあ、朝子どもたちに話すネタにはなるか。
というか、した。
だから、ビーサンでいさせて、ごめんね。と言うと「ハピペンが悪いわけではないよ!」「ハピペンが悪いわけではないよ!」と連呼している子がいた。愛おしかった。
なんとなく「和」になって授業をやっている。
「わかんないだらけ」になるかと思った「水のかさ」の勉強もテンポよく進んでいて、おかげさまで、足りないと思われていた時数にゆとりが生まれている。
すごい子どもたち。そして、少なからず置き去りにしている子どもたちもいると思う。
算数のこと
難しさに直面している。
まだ、お家の方の理解があるから、拾う余地があるが、たとえば、前学年のプリントを用意することは可能。だとして、同時進行でそれも、新しい学びもっていうのはそうとう難しい。
そういう算数のポテンシャルがないことが引っかかる。
「100マス計算」をやらせようって思いになる。
履修主義に陥る。
「分からない」なら救いやすいのだが、定着が見られにくい。というときに、配慮が行き届かずこちらも辛い。
素地の問題。
「数える」が足りているかの問題。
「ピンと来ない、補えない、分からない」なのである。
諸動作を鍛えること
そもそもあの子はノートを出すのが遅かったのではないか。そんなことを思う。
そこを徹底して、素早くできる力が必要だった。
何にせよ、4月にバッファが多く必要な子たちだと感じた。
それは、ルールが様々な中からやってくるからだった。
私は、雷を落とすように、ルールを示さなければならなかった。
今になって、私が話し始めると、すっと静かになれたり、2・3分友だちの話を待つことも平気でできる。大したものだと思う。
ただ、諸動作に時間がかかりすぎるよなあ。
漢字と音読のこと
「やらせないとできない」このセリフを片手に収まるくらいの人数から聞いた。
正直苦しい。
責任のたらい回しみたいに感じる。
「やらせてできること」、それってできているんだろうか。と問いたい。
まあ、それをモチベートしたり、喚起できないってことは、私の責任なんだよなあ。
こういう人間であってほしいって理想を捨てる
未来は予想できない。
子どもは、大人が不安なく生きるための道具ではない。
子どもの姿を見て思う、大人の理想とする創造物と差異があるからって、その子が不幸になる保障はない。
『どんな人も、生きてさえいれば、人はかならず幸せになれるいきものなのである。』
これは、私の哲学だが。。。
たとえば「私が思うようなあの子ではないから、不幸である」は、まったくもってナンセンスな幸福論だと思う。
どちらかといえば、切り拓けるか、切り拓けないかの方が問題だし、そう思う「生きたい」に値する世の中だと感じさせられているか、の方が問題だ。
彼らが大人になるころの社会は予想できないと言われる。
そんな予想できない未来を生きる子どもたちに、必要という仮説で執拗に何かを強要する意味がまったく分からん。
「じゃあ、向いてねーよお前」って話なんだろうけど。。。
いや、それもその子の人生だろうよって思う。
要は、
「学校は漢字の書き取りを強制する機関ではありません」って話なんだよね。
読めるように、書けるように、使えるようにする仕事はあると思うのだけれど。
漢字を書かされる力。
やらなきゃいけないことをやらされる力。
(「なんだ。やらなきゃいけないこと」って。)
やらなきゃいけないことは「自分から学ぼうとすること」でしかないと思う。
つけたいのは「内容をやらされる力」ではないと思うのだよなあ。
手段と目的に気をつけて見つめないとなあ。。。
私は何のための何を育てているんだろう。