かならず幸せになれるいきもの

おしゃべりによる出現する未来から学ぶ

71日目:私は何のための何を育てているんだろう

私が外に出ると強くなる雨。家から出て最初の交差点で車ズーン、水ザバー。下半分ビショビショ。ハピペンです。

 

靴下もってくりゃよかった。

長ぐつでくりゃよかった。

 

もう笑うしかない。

 

まあ、朝子どもたちに話すネタにはなるか。

というか、した。

 

だから、ビーサンでいさせて、ごめんね。と言うと「ハピペンが悪いわけではないよ!」「ハピペンが悪いわけではないよ!」と連呼している子がいた。愛おしかった。

 

なんとなく「和」になって授業をやっている。

 

「わかんないだらけ」になるかと思った「水のかさ」の勉強もテンポよく進んでいて、おかげさまで、足りないと思われていた時数にゆとりが生まれている。

 

すごい子どもたち。そして、少なからず置き去りにしている子どもたちもいると思う。

 

算数のこと

難しさに直面している。

まだ、お家の方の理解があるから、拾う余地があるが、たとえば、前学年のプリントを用意することは可能。だとして、同時進行でそれも、新しい学びもっていうのはそうとう難しい。

 

そういう算数のポテンシャルがないことが引っかかる。

 

「100マス計算」をやらせようって思いになる。

 

履修主義に陥る。

「分からない」なら救いやすいのだが、定着が見られにくい。というときに、配慮が行き届かずこちらも辛い。

 

素地の問題。

「数える」が足りているかの問題。

「ピンと来ない、補えない、分からない」なのである。

 

諸動作を鍛えること

そもそもあの子はノートを出すのが遅かったのではないか。そんなことを思う。

そこを徹底して、素早くできる力が必要だった。

何にせよ、4月にバッファが多く必要な子たちだと感じた。

それは、ルールが様々な中からやってくるからだった。

私は、雷を落とすように、ルールを示さなければならなかった。

 

今になって、私が話し始めると、すっと静かになれたり、2・3分友だちの話を待つことも平気でできる。大したものだと思う。

 

ただ、諸動作に時間がかかりすぎるよなあ。

 

漢字と音読のこと

「やらせないとできない」このセリフを片手に収まるくらいの人数から聞いた。

 

正直苦しい。

責任のたらい回しみたいに感じる。

 

「やらせてできること」、それってできているんだろうか。と問いたい。

 

まあ、それをモチベートしたり、喚起できないってことは、私の責任なんだよなあ。

 

こういう人間であってほしいって理想を捨てる

未来は予想できない。

子どもは、大人が不安なく生きるための道具ではない。

 

子どもの姿を見て思う、大人の理想とする創造物と差異があるからって、その子が不幸になる保障はない。

 

『どんな人も、生きてさえいれば、人はかならず幸せになれるいきものなのである。』

これは、私の哲学だが。。。

 

たとえば「私が思うようなあの子ではないから、不幸である」は、まったくもってナンセンスな幸福論だと思う。

 

どちらかといえば、切り拓けるか、切り拓けないかの方が問題だし、そう思う「生きたい」に値する世の中だと感じさせられているか、の方が問題だ。

 

彼らが大人になるころの社会は予想できないと言われる。

そんな予想できない未来を生きる子どもたちに、必要という仮説で執拗に何かを強要する意味がまったく分からん。

 

「じゃあ、向いてねーよお前」って話なんだろうけど。。。

 

いや、それもその子の人生だろうよって思う。

 

要は、

「学校は漢字の書き取りを強制する機関ではありません」って話なんだよね。

 

読めるように、書けるように、使えるようにする仕事はあると思うのだけれど。

 

漢字を書かされる力。

やらなきゃいけないことをやらされる力。

(「なんだ。やらなきゃいけないこと」って。)

 

やらなきゃいけないことは「自分から学ぼうとすること」でしかないと思う。

 

つけたいのは「内容をやらされる力」ではないと思うのだよなあ。

 

手段と目的に気をつけて見つめないとなあ。。。

 

私は何のための何を育てているんだろう。