何をもって「ありのまま」かは、随時書き変わる。それは、外側からかというよりは、どちらかというと、内側からだと思う。
ありのままとは何か?の結論としては、自分自身がありのままと思う姿が、ありのままの自分自身だ。それとは、学習Ⅱが関連している。学習した、性格と現実の成果物がありのままの自分だ。そのありのままは、常に(仮)であり、更新し得るものである。ただし、人は「ありのままを脅かされたくない」という性質をもつ。そのため「脅かしでなく、ありのままにアプローチをしていく」ということを生み出したくなる。私はその両立は無理ではないかと、2年前くらいに考えていた。でもなんかある、引っかかりを感じる。人は変わる。よい方へ変わるのことができる。そう思ってうだうだやっている。
なぜ人と組織は変われないのか――ハーバード流 自己変革の理論と実践
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そして、その性質は幻想なのである。その性質によって揺らがないものとしている、性格や現実は、実は常に相互作用が働いて、変容の可能性を秘めている。そっちの性質があることも踏まえて、自分を選べることが、自分の人生(または自分としての人生、システムの一部としての人生)を生きることにつながっていくのだと思う。ちょうど、宮沢雪野が、最終回付近で自分の賢さから何の職業に就こうか見積もったことに近い。
この辺りが「精神と自然」をもう少しちゃんと読むと説明できそうだけれど、結局は、うまくはいかないかな。うーん。
とりあえず!
相互作用で、人は変わっていく。
そして、何が出現するかは、無限ではないけれど、ランダムである。その時出たものが、真実の一つである。
その入力と出力を出来る限り調節しようとするのが教育学なのかな。そこに違和感がなくもないけれど、それは、逃れようがあるか、脅かしを回避できるかというような基準で、私は教育を容認しようとしている。合法的な強制を正当化しようとしているような感覚がある気がして、自分が下衆い。
「子ども本来的なありのままの方へ」と思いながら、子どもたちと触れ合っているものの、どこか限界を感じた10月だった。
ただし、「見立て方」によっていくらでも再建できるような気もし出した。たとえば、仮に彼らは「勇気くじき」をされた子どもたちである。と仮定してみる。立ち上がり方、歩き方が分からなくなってしまった子たちなのだ。
そうして、ダウンロード&インストールされた、「学習Ⅱ」との戦い。
昨日、盛んにそれをアンインストールできなかったという表現が口をついた。
それは、個人的には、彼らの姿は結果的に現在のありのままだとして、しかし、それは、もともとのポテンシャルとは違うというような感覚から来るものだった。
子どもってそんなに窮屈か?勉強って苦しいものか?あんたらの「ありのままは、それでいいのか?」という、現状のありのままへの全否定だった(特にコントロールされている受験生なんかにはきついか)。しかし、その攻撃は、彼らの織り成してきた人生への冒涜である。無論、それが攻撃だった場合は。
そうして、生存戦略をしてきた彼らにとって、新しい船は、後方からの闇討ちもあるために、素直に乗れるに至らなかった。
それでも、それが後半戦では好転しはじめるように思う。恐らく丁度三月くらいに。このまま、私が挫けず折れなければ。
毎年、それで四月を始められたら、五月くらいにここまでもってこれたら、と思うが、そのノウハウはまだない。それを自分の人間力がないからだと責め続けながら毎日を生きながらえるけど、そうすると、十月ごろにエンストする。ここは、工夫がいるところだ。
三月というまでの期間がいるのは、単純に「知り合えた度合い」であって、短縮できる可能性もなくはない。ただ、長い期間そうであった、という身体が記憶したことによって生まれる安心のようなものもあると思っていて、どうしても、一定の期間はいるのかもしれない。つまり、単純接触回数のこと。
でも、やっぱり、「何をするか」によって、高速で、密になることもできるんだろうか。長期間的な側面がある内側と瞬間的な側面がある外側の両方からもっとアプローチできるといいなあも思う。
自分の見方としては、その外側からのアプローチが「ユニット」なように思う。人によってユニットが内側に位置する人ももちろんいるはず。ただ、自分の使い方のイメージの位置づけとしては、そういう位置にあるということだ。
それで、たぶん、ここに来て「ありのままの境界」を意識する必要が出てくる。これには、「インクルーシセラピー」の視点が恐らく役に立つ。
キーワードのイメージは、これら。
- 全許容
- 全寛容
- 完全肯定
そんな言葉が当てはまるような心持ちで、ノーガード戦法でいくことである。
それには、いくつか手がある。
上に挙げた「インクルーシブセラピー」が一つ。もう一つは「U理論」。アドラーでいくなら「プラスの感情で関わる」ということ。大草先生の「今はそうなっちゃったんだから仕方ない、でも、そうでない人になれるよ。そういう人になっていこうよ」というのもフィットする。ヒルルクみたいなのも一つ手かもしれない「オレは、お前を撃たねー!」と。
これらは、攻撃にならないための戦略である。
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簡単に言うと「そうであることも、そうでないこともいいんだよ」とした上で「ただ、私はさらに、こうするといいのではないか?」ということを提案する立場を取るというようなイメージ。
そして、それは、あなたのもつ「成長遺伝子」のような、本来のもつ力を「ありのまま」を、あなたそのものを肯定する働きなのだとすることで、ありのままを否定しない介入が可能となるのではないか、という考え。
どうして、そういったことが起こるかといえば、それは、相手が私の提案をダウンロードしたり、インストールしたりしてくれたからで、「自分の思うありのまま」のモデルをアップデートしたからに他ならない。
そういう意味で、教育するということの理想は「その子のありのまま観(本来的な自己のようなもの)のアップデートなのではないか」と思う。
子どもたちは「私のありのままをアップデートしてくれる」と思うと、よく聴いて伸びようとするだろうと思う。
その前提に「どんなありのままも受け入れるステップ」が必要かはよく分からない。ニワトリタマゴだけれど、「好きな教師からはよく学ぶ」というようなことにもつながる。受け入れてくれるから好きか、変えてくれるから好きかということ。プラス全く関係ない好みという角度からでも大きな「ありのままの転換」は起こるだろうなと思う。ただ、その依存体質には懸念が残る。
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そんなこんなで、彼らには、私に乗ることで、「我々は攻撃を受ける」というストーリーが出来上がった。彼らの生存戦略は「これまでの伝統や文化に否定されないこと」を目指すのだった。その前提がきついし、バカバカしいとは思う。そう思うから滞る。
己の目で。
「曇りなき眼で、見定め、決める」ことができていない。もう「あの人がどう反応するか」、そのストレスを削減しまくることが、生存戦略なのだ。できれば、「己の目」を手に入れてほしい。いや、だから今のその目が、「己の目」なんだよ、ならそれでよい。そう自覚して選べているならよい。ただ、違和感がある。私はその目でない方が生きやすいのではないないかと思ってしまう。ただ、こんなルサンチマンはうまくいかないし、自律を目指す私の考えは、子どもだから、まだ、シンボリックな「あの人」がダウンロードできていた方がいいという考えに完敗するかもしれない。
んー。
だんだんと人が変わるプロセスの交通整理が出来てきたように思う。私は内側から派なのだけれど、別に外側でもどっちからでも良い。どっちからでもどっちにもつながる。
その思考と体験(性格と現実)のループ学習で、「学習Ⅱ」が起こっていくのだから。