かならず幸せになれるいきもの

おしゃべりによる出現する未来から学ぶ

068|身体か気持ちに出るころ

全員登校で3週目に入る。子どもたちは、身体か気持ちに頑張りすぎた、脳の緊張を保ちすぎた、いつもと違う神経を使いすぎた疲れが出てくるころなのだと思う。いや、どの人間もか。

 

5月に、私立に通っているのであろう小学生が改札でギャン泣きしているのを見た。擦り切れ始める時期は、誰しもに訪れる。そして、量的なゆとりのない家庭や社会、環境にクライシスが訪れる。たとえば、十分にお家で「エナジー(のような何か)」を充電できていれば、ギャン泣きせずにやれることもある。これは、お家が悪いとか、原因はそれだけではないとかはもちろんそうで、たとえばである。何かによって、「疲れ」に付随する何かが拭われていたり、充填されていれば(それは、たとえば睡眠かもしれないし、栄養かもしれないし、モチベーションかもしれないし、何かである)、乗り越えられる可能性がある。

 

しかし、言ったように、「誰しも」に訪れるものだし、訪れている。それでも、なんとかやれているだけである。その「何か」が、何とか充填されているためである。それは、家族ごとに、人間ごとに違うのだろうな。人によっては、ご褒美的なスイーツとか、お酒とかなのかもしれない。パチスロな人もいるだろう。

 

悩まれている人がいるならば、どの人にも訪れるものだということで、「ノーマライズ」しておきたい。不適応だとか、誰が悪いとか焦るのではなくて、誰だって疲れればそうなのだということを肝に命じておきたい。

 

状況に焦って、起こったことと反対の「よい」とされる状況になれる(戻る)ことだけをよしとして、あれこれお尻を叩く(ことが必要な時もあるが)のではなく、受け容れつつ、労いの言葉をかけて、休ませて、また励ますというこもが必要な時期でもあると思う。

 

「誰だって、そうなのだから、大丈夫よ」ということである。

 

人間には、辛いことが起こる。しかし、それは、人間が誕生してからずっと、乗り越えてきたことでもある。人間は、とても辛いことから逃れられないが、それを乗り越える機能も持ち合わせていると知っておきたい。だから、ここまで繁栄し、生き残ってきたのである。これは、大切な人の死についての話だが、人間にはそんな風に、辛いからといってその状況やその人が悪なのではなく、当たり前に辛くなる機能があって、また回復する機能があるのだと言いたい。

 

ここからは、ふと思ったこと。

30数名を見て、3年目になるが、それ用の目が養われてきたように思う。

 

そして、子どもをいろいろな見方ができるようになったなあと思う。具合が悪い時もあるとか、乗らない日もあるとか、でも、一年という長い目で見れば、もーっと長い目で見れば、どの子も成長するということとか。今はそうでも、ちゃんと乗り越えられるよということとか。この容れ物が大きいほど、気持ちよく、次の一歩を踏み出せるように、人にエナジーを与えられるのではないかと思う。

 

すべての「何か」は、「何か」にリフレーム可能である。

 

『で〜きた』という番組の「できないをできるマン」が最強すぎるという話。

できないことにきづけたら

いつかできる

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デキナイヲデキルマンの歌 | で~きた | NHK for School

 

 

大きな流れの中で励ませること。大切にしよう。

 

「大丈夫」

「できるよ」

「そういう人になれるよ」

と。

 

瞬間瞬間的な時代だからこそ。

長い目で生きていくということを。