かならず幸せになれるいきもの

おしゃべりによる出現する未来から学ぶ

137|「捨てる神あれば、拾う神あり」で

いろいろな目がいろいろな見方をしているものだなあ、と思える日。

 

「ネガティヴは常勝」と言われるように、昨日あれだけ卑下しておいたら、予想外の賞賛が嬉しくもなる。同じような見立てを持ちつつ、思いやりのある言葉をかけられる同僚をすごいなぁ、と尊敬した。

 

ただ、やっぱりスッキリしないというか、結局、寝ても覚めても「協議」でのことを反芻していたので、傷ついたのかもなあ、と思った。

 

傷つかないまでも、脳を占めるような何かが負荷としてあったにはあったのだ。

 

ただ、なんだって「その先にあるかもしれないことは、その先に起こってから考えたっていい」ってこともあるし、そういうことの方が多いのだろうと思う。

 

「なるようにしかならない」というか、「なんとかなる」というか。

 

そんなにもどうしようもないことや、なんとかならないことだらけだったら、自分の命なんてとっくに終わっているだろうな。

 

「取り戻せない人生はない」と健康な時には考えている。生きている限り物語は変化していく。自分が変わることができれば、ということにはなるけれど、どんな出来事にも落ち着くところがあるはずである。

 

それを、うまく諸々をやり過ごしたり、もちろん反対に考え尽くしたりして、万能薬である「時間」を積み重ねられたなら、そこに光はあるのかもしれない。

 

「保留にしたいこと」ができた時には、12ステップ本を読む。今回も通勤のわずかな時間だけれど目を通した。

 

ステップ5を読んだ。

神に対し、 自分自身に対し、もう一人の人間に対し、 自分の誤りの正確な本質を認めた。

 

昨日誤りがあったことを受け入れつつ、ただ、それが誇大妄想ではなく、「謝りの正確な本質」を受け入れることであることを祈った。

 

誤りの正確な本質は、「自分だけのせいにすること」だと思えた。そして、つまり、自分だけのせいではないからこそ、保留にすべきところもあるし、また、自分だけが変わることで解決できることでもないと思えた。

 

それは決して放るということではなく、自分の目に映らない部分に、純粋に信頼して委ねようと思い切ってみることにしてみる。すると、事態は思ったよりもそれこそ全然悪い方向には行かないものだ。

 

unisonの「simple simple anecdote」の歌詞も癒しだった。

誰にもわかんないことを解き明かしても

誰にもわかんないまんまでいいのかも

一人ぼっちかも けど不思議と誰かが

同じ光を見るなんてことはある

わかってよね

私なりの光明を同じように見ている人もいる。

そうやって、自分が見出せる灯りだけは絶やさずにやっていこうってところ。