いろいろな目がいろいろな見方をしているものだなあ、と思える日。
「ネガティヴは常勝」と言われるように、昨日あれだけ卑下しておいたら、予想外の賞賛が嬉しくもなる。同じような見立てを持ちつつ、思いやりのある言葉をかけられる同僚をすごいなぁ、と尊敬した。
ただ、やっぱりスッキリしないというか、結局、寝ても覚めても「協議」でのことを反芻していたので、傷ついたのかもなあ、と思った。
傷つかないまでも、脳を占めるような何かが負荷としてあったにはあったのだ。
ただ、なんだって「その先にあるかもしれないことは、その先に起こってから考えたっていい」ってこともあるし、そういうことの方が多いのだろうと思う。
「なるようにしかならない」というか、「なんとかなる」というか。
そんなにもどうしようもないことや、なんとかならないことだらけだったら、自分の命なんてとっくに終わっているだろうな。
「取り戻せない人生はない」と健康な時には考えている。生きている限り物語は変化していく。自分が変わることができれば、ということにはなるけれど、どんな出来事にも落ち着くところがあるはずである。
それを、うまく諸々をやり過ごしたり、もちろん反対に考え尽くしたりして、万能薬である「時間」を積み重ねられたなら、そこに光はあるのかもしれない。
「保留にしたいこと」ができた時には、12ステップ本を読む。今回も通勤のわずかな時間だけれど目を通した。
ステップ5を読んだ。
神に対し、 自分自身に対し、もう一人の人間に対し、 自分の誤りの正確な本質を認めた。
昨日誤りがあったことを受け入れつつ、ただ、それが誇大妄想ではなく、「謝りの正確な本質」を受け入れることであることを祈った。
誤りの正確な本質は、「自分だけのせいにすること」だと思えた。そして、つまり、自分だけのせいではないからこそ、保留にすべきところもあるし、また、自分だけが変わることで解決できることでもないと思えた。
それは決して放るということではなく、自分の目に映らない部分に、純粋に信頼して委ねようと思い切ってみることにしてみる。すると、事態は思ったよりもそれこそ全然悪い方向には行かないものだ。
unisonの「simple simple anecdote」の歌詞も癒しだった。
誰にもわかんないことを解き明かしても
誰にもわかんないまんまでいいのかも
一人ぼっちかも けど不思議と誰かが
同じ光を見るなんてことはある
わかってよね
私なりの光明を同じように見ている人もいる。
そうやって、自分が見出せる灯りだけは絶やさずにやっていこうってところ。